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スティーヴ・ライヒ Steve Reich 『スティーヴ・ライヒ~スペシャル・コンサート』2022

スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックは、作曲されて半世紀を経ても新鮮だ。

Photo: Takayuki Imai
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee

 土方巽の舞台は舞踊家のみならず文学者、美術家、演劇人も触発したが、アメリカ出身の作曲家スティーヴ・ライヒの現代音楽作品も多方面に影響を及ぼし、画期的なコンテンポラリーダンスも誕生させた。ライヒの五作品を日本の音楽家が奏でる『スティーヴ・ライヒ~スペシャル・コンサート』(名古屋市芸術創造センター)では、ミニマル・ミュージックのダイナミズムを味わった。一曲目『ピアノ・フェイズ』(1967)では12音の短いフレーズが、録音とピアニスト(中川賢一)の2パートで展開される。しばらくは両パートがそろうユニゾンだが、次第にピアニストが速度をあげて位相をずらし、複雑な響きを経て再びユニゾンへ。微妙に変化していく繰り返しに耳を傾けると、海水に身を任せる状態に近いグルーヴが起きる。

 その波は『ピアノ・フェイズ』を含むライヒの4曲にベルギーのダンスカンパニー、ローザスを率いるアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが振付けたダンス『ファーズ』(1982、筆者は2002年の来日公演で鑑賞)の記憶を運ぶ。『ピアノ・フェイズ』ではケースマイケルがもう1人のダンサーと、幾何学と振り子を組み合わせたような動きを、曲に応じて揃えては、ずらす。ノースリーブ・ドレスに白いソックスとフラットシューズを履いたダンサーたちの、反復と変容は音楽の血肉化だ。照明デザイナーは壁に映るダンサー2人のシルエットを散らしては重ね、時に「7人の群舞か」と観客を惑わす。音楽、身振り、光と影が躍る空間全体に、観客は視聴覚を集中させた。

 コンサートの二曲目『ヴァーモント・カウンターポイント』(1982)は多重録音を使う。ひとりの奏者(若林かをり)がフルート、ピッコロ、アルトフルートを替えつつ、録音した同種の楽器のアンサンブルとカウンターポイント(対位法)を織りなす。舞台に並ぶ細長い12本のスピーカーは、中央にいる奏者の分身に見立てられる。驚いたことに重奏曲が進むにつれて、スピーカーの影が濃淡や高さを変えていく。スピーカーによる「影のダンス」を可能にしたのは、事前録音をまとめて流す通常の方法を採らず、各トラックにスピーカーを1本ずつ充てる工夫だ。12 パートを各スピーカーで粒だて、照明で「分身」の影を幽霊のように揺らすオリジナル演出は、ライヒに寄せるコンサート関係者の敬愛の結晶だ。

 予期せぬ演出は、アーティスト高松次郎が描いた「影」に不意打ちされた衝撃を呼び覚ます。かつて新宿にあった倉俣史朗デザインの酒場カッサドール(1967)の壁に、高松は談笑する人々の影を描いた。あらかじめ塗られた影と酔客がさざめくシルエットが入り交じる内装は、美術館に収蔵された影シリーズ(1964~)の、どの作品よりも記憶に刻まれている。

 ライヒのコンサートにおけるライブと録音が紡ぐサウンドは、耳が音を聞き分ける範囲を拡張し、実在と非在をめぐる芸術家たちの実験を思い出させた。

 

百瀬文 Aya Momose《Jokanaan》2019 愛知県美術館蔵

実写された男性はサロメを演じ、モーションキャプチャ技術で得た彼の動きのデータから、右の3DCG女性の所作が作られた。
Installation view at Aichi Triennale 2022, Momose Aya, Jokanaan, 2019
Photo: ToLoLo studio
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee

 現代美術部門に移り、はじめに愛知芸術文化センターに展示された4作品について述べよう。百瀬文による映像インスタレーション《Jokanaan》(2019年に東葛西のEastFactoryArtGalleryで開いた個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」で発表)は、新約聖書に記された古代ユダヤの預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)をさす。彼が王女サロメの愛に応えず斬首される逸話に基づくオスカー・ワイルドの戯曲から、リヒャルト・シュトラウスが作曲したオペラ『サロメ』が本作のモティーフだ。銀の盆にのったヨカナーンの生首に口づけして狂おしく独唱する歌劇のサロメは、先端テクノロジーを用いた二点の映像に転生する。向かって左の画面の男性ダンサーはモーショントラッキングスーツを着て、サロメを演じる。右の画面では3DCGの女性がサロメ役の男性ダンサーと揃って動くが、CGサロメのムーブメントは男性ダンサーのスーツから採るデータから作られていた。

 展示室を満たすオペラに合わせて男性ダンサーは口を動かし、悶える。サロメの焦燥を宿して震える彼の身体は、束縛されたヨカナーンの懊悩を負うようにも見えた。サロメとしてヨカナーンの唇を奪った後、男性ダンサーがスーツを脱いで静止した裸体は、ヨカナーンの骸も彷彿させる。いっぽう、男性ダンサーに同期していたCGサロメは、崩れながら人間には不可能な態勢で動く。「若く美しい魔性の女」という類型からの脱出を感じさせるCGサロメだが、両手と丈の短いワンピースは赤く染まる。果たして、血はヨカナーンのものだけであろうか。熱情を抱いたヨカナーンに拒まれ、義父ヘロデ王に欲望された後に殺されるサロメを濡らす血。それは自己決定権を認められず、共同体から排除された女の、抑圧を受け続けた心身と性の象徴かもしれない。

 実際に撮影された肉体をもつ男性と、合成されたCG女性の関係は、個人のアイデンティティを決める「常識」に亀裂を走らせる。性別や立場による役割規制を攪乱する《Jokanaan》は、バイブルや世紀末美学や歌劇による刷り込みを剥がし、観客の偏見を洗い流す。生命の源泉を探る百瀬は、パフォーミングアーツ部門では障碍のある女性の性と生に迫る体験型パフォーマンス作品『クローラー』を発表した。

 

ローリー・アンダーソン&黄心健(ホアン・シンチェン)Laurie Anderson&Huang Hsin- Chien《トゥー・ザ・ムーン》 VR作品2019 映像インスタレーション2022

VR作品ではヘッドセットを装着した観客に、重力の変化を体感させながら月に連れていく。
Installation view at Aichi Triennale 2022, Laurie Anderson & Huang Hsin-Chien, To The Moon, 2019
Photo: ToLoLo studio
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee

 パフォーマー、演奏家、作曲家、作家、映画監督、美術家など多面的に活動するアメリカ出身のローリー・アンダーソンは、70年代よりジャンルを超えた創作に挑む。84年の初来日パフォーマンス《オー・スーパーマン》(1981)は歌、ダンス、ヴァイオリンなどの演奏と美術が調和してポップに弾んだが、権力による破壊への不安が根底にはあった。2000年代に筆者がパリで鑑賞した《Songs and Stories from Moby Dick》(1999~2000)ではメルヴィル作『白鯨』を素材に、さまざまな存在とのコミュニケーションをマルチメディアで展開。自然と文明を接続させる特殊効果を用いた試みは、「あいち2022」で展示された映像インスタレーション《トゥー・ザ・ムーン》につながる。同作は台湾出身のニューメディア・クリエイター黄心健とアンダーソンとの共作で、人類の月面着陸50周年を記念するデンマーク・ルイジアナ近代美術館の委嘱に応じたVR作品が起点。その後、映像インスタレーションにVRが組み込まれた。天体をイメージさせる映像でミステリアスな雰囲気を醸す作品の壁には、大きい満月が輝く。VR鑑賞者はヘッドセットを装着し、宇宙旅行に出発。「星座」「DNAの博物館」「テクノロジーの荒地」「石の薔薇」「雪の山」「ドンキー・ライド」という六章のシナリオをもつ15分のプログラムだ。参加者は体調や関心に応じてコントローラーで速度や高さを調整するため、個々で経験は違う。映画の観客は監督が映像を決定づけた四角い画面に、視線を一斉に向ける。しかし、VRでは鑑賞者の全方位を囲む映像から各人が選んだ視界で、非日常的な環境を体感できるのだ。

 仮想の宇宙を遊泳するうち筆者は、キャロル作『不思議の国のアリス』さながらに身長や体重が伸縮する錯覚に陥った。このVRには肉体のリアクションを誘う仕掛けが凝らされる。飛び交う隕石を避けていると、化石状の薔薇が眼前で割れた。硬い花弁が散る美につい声が漏れ、反射的にサン⁼テグジュペリ作『星の王子様』に登場する薔薇を想う。いつしか宙吊りの軽快は消え、ロバに乗って月面を寂しく進んでいた。ロバの背の揺れは、エルサレムに入るキリストと彼を待つ十字架を脳裏に招き、死に向かう未来を暗示した。宇宙で領土を争う強欲への揶揄も、テクストにはさまれたせいか。旅の終わりに視界を覆う花火は壮麗ながら、近くの惑星、すなわち地球の爆発をにおわせた。ヘッドセットを脱いだ後も起伏に富むSF的な眺望や耳元でささやく声は、無重力の感覚と相まって身体の一隅に残る。