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 田村友一郎 Yuichiro Tamura《見えざる手》2022

マクベスの名台詞も引用される映像インスタレーション。人形浄瑠璃の黒衣の正体はマルクス、スミス、ケインズ。
Installation view at Aichi Triennale 2022, Tamura Yuichiro, Invisible Hands, 2022
Photo: ToLoLo studio
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee
陶製の人形の首(かしら)はプラザ合意に参加した五カ国の蔵相。右端は竹下登。
Installation view at Aichi Triennale 2022, Tamura Yuichiro, Invisible Hands, 2022
Photo: ToLoLo studio
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee
Installation view at Aichi Triennale 2022, Tamura Yuichiro, Invisible Hands, 2022
Photo: ToLoLo studio
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee

 最後に紹介するのは焼き物の町、常滑市のギャラリーカフェ「常々(つねづね)」で和洋の演劇を媒介に、地場産業の製陶と国際的な経済を関連づける田村友一郎の映像インスタレーション。盆栽鉢製陶所の倉庫を改装したスペースの二階を、田村は人形浄瑠璃の舞台の奈落に見立てた。写真、美術、映像、舞台と分野を超えて活動するアーティストらしく、現実と虚構を大胆に組み合わせている。

 ほの暗い場内には縦長のスクリーンが三枚立つ。筆者が入った時に流れていた映像はアニメーションで、人形浄瑠璃の三人遣いに因む意匠か、三本のろうそくを立てた燭台が、各スクリーンに浮かぶ。本作のタイトル「見えざる手」はアダム・スミスが『国富論』で神(市場における調整機能などを表す)を例えた言葉だ。持つ手は見えないまま、燭台が進む場面の字幕は、シェイクスピア悲劇『マクベス』第五幕第五場のトゥモロウ・スピーチ。妻の死を聞いた王位簒奪(さんだつ)者マクベスの独白だ。「消えろ、消えろ、束の間の灯火(ともしび)! 人生は歩く影法師。憐れな役者だ」(本稿では『新訳マクベス』河合祥一郎訳/角川文庫より引用)この名台詞で、無常が本作の通奏低音となる。

 人形浄瑠璃の上演は架空の設定。瀬戸と常滑で生産され海外でも人気を博したノベルティ人形が衰退したのは、1985年のプラザ合意が契機、というあらすじが映像で展開する。あらすじの背景にはプラザ合意後の円高で、陶製品の輸出が激減し、窯業に携わる工場や企業が倒れた史実が横たわる。為替に左右された陶都の栄枯盛衰は、円安に揺れる2022年の日本経済の合わせ鏡だ。

 プラザ合意に集まった先進5カ国の蔵相(米、英、仏、西独、日本からは竹下登)を模したノベルティ人形(瀬戸市のTK名古屋人形製陶所製)の映像も流れる。映像で五体とも頭部を抜かれるが、実物の頭部は人形浄瑠璃の首(かしら)のように、スクリーン後方の台に展示されていた。やがて、各スクリーンに三角頭巾をつけた黒衣(くろご)が現れ、プラザ合意と日本経済について論評する。黒衣の正体は、アダム・スミス、カール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズ。つまり、『国富論』『資本論』『貨幣論』を著した経済学者たちが人形遣いなのだ。黒衣は高度成長時代のキーワード「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979年にヴォーゲルが書いた日本式経営方法を評価したベストセラーの題でもある)を批判するあたりにユーモアを漂わす。が、観客と等身大の黒衣は黄泉(よみ)で語る幽霊で、さらし首のような人形の頭部と、奈落という設定を併せ、観客は自らも死者となり冥府に降りた心地に浸る。身体と生命の有限を、再認識させる演出だ。

 愛知県の特産品、日本の伝統芸能、イギリスの古典戯曲、ヨーロッパの経済学者を交錯させる《見えざる手》は、欲望がもたらす破滅に警鐘を鳴らす。王冠を奪ったマクベスは人々を傷つけて、安眠も信望も失い転落。マクベスを迷わす予言をした三人の魔女は、社会に影響を与えた三人の経済学者に対応する面もあるのだろう。衰微する人物と産業を重ねる独創的な表現の会場は、用途を終えた倉庫の再利用だ。場所のリニューアルは、身体における新陳代謝に似て、その後の活性化を予感させる。

 「あいち2022」を振り返ると、地元の歴史や産業と結びつく作品が、住民の協力を得て花開いたケースが目立つ。日本有数の大規模な国際芸術祭は、限られたアート愛好者のためではなく、幅広い層に開かれていた。来場者の理解を助ける姿勢も明確で、作品近くのパネルで的確な説明を読むことができた。危機が重なる時代の切実なテーマである、身体に焦点を当てる作品群は、来場者の共感を呼びやすい。生の有限性を再認識させるテーマ『STILL ALIVE』を、多様な作品を通して血肉化した鑑賞者は、ヴァラエティ豊かな芸術を楽しむ素地が耕された。コロナ禍で加速した美術、映像、パフォーミングアーツなどの境が薄まる傾向は、現在進行形だ。将来はジャンルが曖昧模糊とした名状しがたい作品を、大勢が分かち合い、多方向から語る機運が高まるのではないだろうか。その潮流とともに、社会情勢とテクノロジーの進化に応じて、上演芸術と身体の関係も更新されていく、と思われる。