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アンネ・イムホフ《道化師》2022
ドイツ出身のアンネ・イムホフが一宮市の旧アイススケート場で展示した映像インスタレーション《道化師》。床を這う管は元製氷装置。
Installation view at Aichi Triennale 2022, Anne Imhof, Jester, 2022 
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee 
Photo: ToLoLo studio

 愛知県で催された国際芸術祭「あいち2022」(7月30日〜10月10日、芸術監督・片岡真実)では、身体のありかたを考察させる作品が多く観られた。愛知県出身のコンセプチュアル・アーティスト、河原温が電報で生存を伝えた《I Am Still Alive》(1970‐2000)シリーズにちなむテーマ、「STILL ALIVE 今、を生き抜くアートのちから」に沿う作品群は、コロナ禍をはじめとするさまざまな危機に脅かされる生命について、重層的に問いかけた。2010年から3年ごとに開かれた「あいちトリエンナーレ」から名称変更して開催されたこの芸術祭は、現代美術に加えパフォーミングアーツやラーニング・プログラムの部門を備える。準備期間はパンデミックのためにスタッフの移動が困難だったが、世界各地のキュレトリアル・アドバイザーの協力で幅広い作品が集まった。参加アーティストは現代美術展に32の国と地域から82組、パフォーミングアーツ、ラーニング・プログラムと合わせると100組にのぼる。感染拡大と武力衝突の影響で、人権や環境が一段と損なわれるなか、生き延びるための英知を示す祭典はアートの必要性を証した。73日の会期中には猛暑と台風が続いたが、「あいち2022」は48万人を超える来場者を迎えた。

 本稿では四ヵ所のメイン会場(愛知芸術文化センター、一宮市、常滑市、名古屋市有松地区)を巡るなかで特に触発された、身体を意識させる表現を伝える。そのなかには現代美術部門の展示に付随したパフォーマンスや、VR(ヴァーチャル・リアリティ/仮想現実)作品も含まれる。取り上げた13組のアーティストのうち、岸本清子(1939~1988)以外の12組が今日も創造を続けている。美術作品のほとんどが、展示空間全体を鑑賞するインスタレーションだ。アーティストの身体による表現、観客が身体の捉え方を改める作品、身体にまつわる記憶を喚起する場、身体感覚を広げる空間など、観る者のイメージに刺激を与え視界を拓く作品を選んだ。

 近年はVRやAR(オーグメンテッド・リアリティ/拡張現実)を体験する機会が増えたこともあり、生身の人間が出ない作品も上演と認められるようになってきた。また、コロナ禍と物価上昇で、芸術全般の鑑賞者が減るなか、「あいち2022」では上演芸術、美術などの愛好家が、興味の対象を広げる機会が供された。領域を横断する作品群は、従来の境界を超えた関心を観客に促し、芸術鑑賞者の裾野を耕すことにも貢献するだろう。

 まずパフォーミングアーツ部門(アドバイザー・藤井明子、前田圭蔵。キュレーター・相馬千秋)のアーティスト2組を取り上げ、過去に創造された作品に新しい生命を与える後進の活動を伝えよう。同部門ではカンヌ国際映画祭パルムドールなどを受賞した映画監督でもあるタイのアピチャッポン・ウィーラセタクンの新作『太陽との対話(VR)』や、レバノン出身のラビア・ムルエの代表作『表象なんかこわくない』など、すでに日本での上演が好評を博したアーティストの作品も招かれた。開催中に来訪がかなわなくても、作家、作品、会場などを紹介する「あいち2022」公式サイトを閲覧し、パフォーミングアーツ・プログラムと観客をつなぐ「PAチャンネル」(会期中のみ公開)の作品解説レクチャーやトークセッションを視聴すれば、充実した内容にふれられる。

 

トラジャル・ハレル Trajal Harrell『シスター あるいは 彼が体を埋めた―Sister or He Buried the Body』2022 『ダンサー・オブ・ザ・イヤー』2019

舞踏の研究を続けるハレルは、その成果を『シスター あるいは 彼が体を埋めた―Sister or He Buried the Body』にも入れている。
Photo: Takayuki Imai
©︎ Aichi Triennale Organizing Committee

 国境を越えて活動するアメリカ出身のダンサーで振付家のトラジャル・ハレルは、『シスター あるいは 彼が体を埋めた』(2022年)、『ダンサー・オブ・ザ・イヤー』(2019年)(共に愛知県芸術劇場小ホール)の二作品をソロで踊った。暗黒舞踏の祖である土方巽を研究するハレルは、今回の二作品上演を通じて、ダンスの歴史やジェンダーを素材にしている。『シスター あるいは 彼が体を埋めた』では、繊細な黒レースをあしらったクリーム色のシュミーズも衣裳となった。短髪に素顔のままフェミニンな恰好で踊る姿は「女装の男性」ではなく、「性の線引きは虚構」と主張する自由な個人を感じさせる。

 ハレルが床に腰をおろし顔の前で手のひらをうごめかす振付は、きしみや痙攣といったクリシェを使わず舞踏の気配を漂わす。その反復は呼吸や消化のリズムを乗せ、「静中動(せいちゅうのどう)」を体奥から会場に循環させる。直立と歩行を止めた身体は、土方が自叙伝『病める舞姫』で述べた「髪や身体に棲まわせる死んだ姉」や「奉公先で病みついた姉」の面影を召喚。移ろう表情は、白目をむくと口惜しげに歪む。その顔は赤子の土方が故郷、秋田でつぐら(わらを編んだかご)に入れられ畔(あぜ)道に置かれ、わずかに動く指で「姉的なるもの」を空しく探った記憶をたどっているのかもしれない。

 『シスター あるいは 彼が体を埋めた』とは対照的に、『ダンサー・オブ・ザ・イヤー』では歩行が強調される。中盤では複数の舞踊スタイルを反芻するごとく、手を上げては下ろしてたゆたっていた。「映すだけで、見つめはしない」両眼は舞踏家に近い。だが終盤で双眸(そうぼう)は客席に向けられ、観客との交流を求めて愛嬌を帯びる。蠱惑的な媚態は、エイズ禍のニューヨークで撮影されたドキュメンタリー『パリ、夜は眠らない』(ジェニー・リヴィングストン監督、1990)を想起させる。出演者の多くがHIVウイルスに倒れた同作は、有色人種やヒスパニックの性的マイノリティの人々がNYのボールルームで開くコンテストを追う。疎外されやすい社会的少数者が助け合う、血縁のない拡大家族のコミュニティも記録された。ビジネスパーソンや軍人に扮した参加者は、エリートを皮肉って笑いのめす。圧巻はドラァグクイーンが繰り出す、雑誌「VOGUE」やランウェイのモデルのポーズに基づくヴォーギング。官能的な腕の動きなどの特徴は、歌手マドンナが『ヴォーグ』(1990)のミュージックヴィデオに取り入れてから世界中で流行した。

 幕切れ近くにハレルは、撮影陣に囲まれたセレブリティのウォーキングを垣間見せた。ステージと客席の境に敷かれたレッドカーペットを踏む態度は、メディアに淫する近年の潮流をからかうかのよう。過剰な笑顔と得意げな身振りは、SNSに溢れる「幸せアピール症候群」の風刺だろうか。観客にアイ・コンタクトして投げるキスは、感染予防で義務づけられたマスクの息苦しさを知覚させつつ、誰かの「愛」が他人に与える光と影を示す。エイズも新型コロナも身体の接近が感染源で、社会の分断を照らす病であることを思い返させるフィナーレだ。

 ハレルはドイツのダンス雑誌TANZで、2017年に優れた活動を行った舞踊家として、批評家たちに『ダンサー・オブ・ザ・イヤー』に選出された。その称号を題に戴く作品には、権威への懐疑も漂う。ゴージャスなスーパーモデルに憧れながら、人種や貧困やセクシュアリティで差別された無名のダンサーたちがクラブで培ったVOGUEINGも、60年代には異端とされた業病や廃墟を幻視させるBUTOHも、ハレルは模倣を離れて再解釈し自らの身体に滲ませる。

 ポストモダンダンスやストリート系などを踏まえた二作品には、舞踏のエッセンスも見いだせる。だがその滴(したた)りは、舞踏創世期の観客に浸透していた、暗闇で息を殺し秘儀に没入していく冥府下降の鑑賞法では、掬(すく)いにくい。暗黒舞踏に比して光も音も明るいハレルの舞台は、ダンス・スタイルの継承と、様式に拠らないアウトプットについての問いが潜むトンネルともいえよう。