神奈川芸術劇場主催公演『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』 作・演出=岡田利規 第9回座談会演劇時評1(2021年5・6月上演分)
『敦賀』撮影=高野ユリカ/ Yurika Kono
■集合的な怨念
今井 今回の作品がザハ・ハディドともんじゅをテーマにしているという点は皆さん共通の認識だと思います。それで皆さんのお話を聞いているうちに、恨みや怨念などというものが、擬人化したもんじゅや、ザハ・ハディド自身というよりも、もう少し集合的な意識で捉えたいと思うようになりました。
「敦賀」では、アイ(近所の人)を演じる片桐はいりが、地元の状況を説明しているうちに、次第に興奮してきて、ワキ(旅行者)の栗原さんを責めてしまう場面がありました。この場面は、一個人の恨みや、誰かの幽霊というよりも、むしろその土地の集合的な怨念が表現されているように感じました。
「挫波」では東京という都市が舞台設定なので、「敦賀」ほど土着的なベースが感じられません。それゆえ、ザハ・ハディドの建設案撤回と、その翌年に彼女が亡くなってしまうということを結びつけて、怨念を表現していました。しかしこの怨念は、新国立競技場の建設過程、そして現段階において予定されている東京オリンピック開催の経緯から考えてみた場合、彼女の個人の怨みというよりは、むしろこれら一連の出来事そのものに対する感情の表現だと感じました。
そして、能では、後シテが死者の場合、特にそれが歴史的に悲劇的な最期を遂げた人物の場合、単に個人の怨念というよりは、むしろ集合的な怨念が、時間の堆積とともに伝承されてきたと考えられるかもしれません。この怨念の深さまで、岡田利規が考えていると私には感じられました。
嶋田 今井さんが指摘した集合的怨念というのは、重要な言葉だと思います。この視点から考えたとき、片桐はいり演じるアイの機能は非常に重要です。このことを考える時に有効なのが、東浩紀『観光客の哲学』(ゲンロン、2017年4月)です。東浩紀は「たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積が作る連帯を考えたいと思う」(159頁)と記しています。東はネグリとハートが提起したマルチチュードの概念から一歩進め、「錯覚の集積」が後押しする形で、次の連帯の試みを形成していく過程が「観光客=郵便的マルチチュードの連帯のすがた」なのであると主張しています。このことは、図らずも連帯したかのように見えるその瞬間に社会変革の可能性があると考えることができます。
この構図を作品に援用してみると、「敦賀」ではワキ(旅行者)が観光客として出掛け、前シテである「波打ち際の女」と出会ってしまい、図らずもこの女のことを説明したアイ(近所)と連帯が存在するかのように錯覚してしまう。そして、その錯覚が後シテである「核燃料サイクル政策の亡霊」と出会うことを後押ししてしまう。「挫波」ではワキ(観光客)が、観光客として出掛け、前シテである「日本の建築家」と出会ってしまい、図らずもこの人物のことを説明したアイ(近所の人)と連帯が存在するかのように錯覚してしまう。そして、その錯覚が後シテである「ザハ・ハディド」の怨念と出会うことを後押ししてしまう。そして、ワキはシテを眺めている点において、観客と視点が重なります。そのような理由からも、ワキは観客とも連帯する可能性がある。
このように、能の形式と『観光客の哲学』を結びつけて考えていくと、実は能そのものが、社会変革の可能性を秘めた、恐るべき舞台芸術であったことに気がつくのです。今井さんが最初に述べてくれた、「能すげえ!」という端的な感想は、まさしくこの社会変革の可能性という点につながってくるように思いました。
柴田 私も同感です。能を、東浩紀『観光客の哲学』を起点として考えてみた場合、ワキにわれわれが仮託する可能性が見えてくるように思います。そこに「敦賀」では核燃料サイクル政策の亡霊、「挫波」ではザハ・ハディドの怨念、という二つの〈死者〉とワキが図らずも引き合わされてしまう様子は、まさに「誤配」ですね。通りすがりの誰かの果たす役割に注目するという意味において、この作品はもちろん、能の形式は『観光客の哲学』の非常にわかりやすい具体例のような気もします。
■ワキの存在
鳩羽 私もワキの存在が気になりました。後シテが舞っているとき、彼/彼女の身体はすごく雄弁で目を奪われますが、観劇しているときに、私は結構、ワキの方を見ていました。「挫波」では観光客の太田信吾、「敦賀」は旅行者の栗原類、この2人のワキは後シテが舞っている場面で、下手で突っ立っていた姿が実に印象的でした。なぜなら、茫然自失のように立ち尽くし、沈黙し、思考停止している姿が、現代の日本を象徴しているように思えたからです。
今井 ワキについては、パンフレットに収録された岡田利規と横山太郎の対談の中で、岡田は「シテは最初のうちはワキに話している。でも途中でそうでなくなる。なぜかというと、シテが話しかけているのは、本当は、観客に向けてなんです」(パンフレット、4頁)と語っています。また、横山はワキの名人である宝生閑を例に挙げて、「閑さんがワキだととてもやりやすいという話をシテの方から伺ったことがあります」(同、5頁)と発言しています。このことからもワキの重要性、特に今回の公演におけるワキの重要性がわかりますね。ただこの作品では、なんでもかんでも夢幻能の形式だといって強引に全てを能に還元しているような印象がやはり残ってしまい、その点は少々気になりました。
嶋田 能の形式の可能性と、それを現代演劇に当てはめたときの問題点が、今回の座談会を通じて見えてきたように思います。皆さん、どうもありがとうございました。
(2021年7月4日、Zoomにて収録)