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『挫波』撮影=高野ユリカ/ Yurika Kono

■オンライン配信との比較

嶋田 「敦賀」「挫波」の物語内容から、ダンサーの身体性まで話題が広がりました。今の話のなかで、昨年(2020年)『未練の幽霊と怪物の上演の幽霊』としてオンライン配信されたことも出てきました。

鳩羽 今回の舞台は、昨年(2020年)の6月に公演が中止になった後に、演奏付きのリーディング形式という形でオンライン配信がされました。オンライン配信を見たときから、抜群に面白かったですね。これは『シアターアーツ』第65号(晩成書房、2021年4月)にも書いたことですが、通常のZoomを使ったオンライン演劇では、俳優の顔しか映らないことが多い。ところがこの作品のオンライン配信では、俳優の全身が映ったパネルをテーブルの上に並べ、それを定点カメラで撮影した動画を配信していました。テーブルの横の窓から通行車両も見えます。つまり、パネルの中の劇空間と、それを写したリアルな世界が、入れ子のように1つの画像に登場したのです。これには感覚が揺さぶられました。詞章も明晰で格調高く、美しくて、とても印象に残りました。そして今回、念願の舞台公演が見られるというので、楽しみに劇場へ足を運びました。
 オンライン配信と舞台公演の一番の違いは、踊りと言葉と音楽が三位一体に織りなして、舞台空間を作り上げていたことだと思います。先ほど柴田さんが指摘したように、岡田利規が書き上げたテキスト(言葉)を踏まえたうえで、時にラップ調の音楽にのった身体表現など、非常に刺激的な舞台が展開されていました。まさに言葉、音楽、身体の三位一体で織りなすことによって、今までにないイメージの広がりや飛躍が感じられました。オンライン配信も見応えがありましたが、やはり劇場で見るのが一番。ライブの醍醐味です。
 私はこれまでにも岡田利規の舞台をいくつか見てきましたが、それとの比較で考えてみると、従来の作品は、たどたどしく、ダラダラした日常的な身体による踊りが多いのが特徴の1つになっていました。それに対し本作では、第一線のダンサーでもある森山未來と石橋静河の2人を起用したことによって身体表現の強度がより増して、柴田さんがおっしゃったように、やはりテキストを乗り越えるイメージの広がりを感じました。

■「能すげえ!」

嶋田 本作は、テーマがユニークですね。「敦賀」は原子炉もんじゅで、「挫波」は新国立競技場のデザイナーで、いずれもいったん世には出たが、全く活用されなかったという共通点があります。このテーマを岡田利規の台本をもとにして、ダンサーが表現するというところが、従来の岡田利規の作品ではあまりなかったところですね。
今井 私の最初の感想は、実感を込めて、あえて崩した言葉で表現すれば「能すげえ!(能はすごい)」ですね。夢幻能の形式がしっかりと押さえられています。舞台中央に正方形の舞台、下手に橋掛かりに相当する通路がある。この通路を通って、シテ、ワキ、アイが登場します。また、前半・後半で登場人物の役割を入れ替える「前シテ」「後シテ」や、地謡に相当する「歌手」、囃子方に相当する「演奏」など、パンフレットの記載は世阿弥が伝えた能の演出を、しっかりと踏襲しています。ですから「演奏」が現代楽器であったり、「シテ」の身体表現がコンテンポラリー・ダンスであったりしますが、実際は能の形式を忠実に踏襲していることがわかる。ロビーに掲示された上演時間のお知らせには、演目の記載もあり、そこにも『能「挫波」』や『能「敦賀」』というように、演目の頭に「能」と書かれてありました。パンフレットにもやはり「能」と記載されています。ですから完全にお能として上演をしていることがわかります。能の形式を踏襲するだけであれだけインパクトの強いものが立ち上がってくることに、本当に驚きました。
 実は私は、岡田利規の他作品を見て、全然ぴんとこないときもあるんです。作品のテーマや演出の方向性は理解できるけれども、観客として見たときに全く伝わらない、お手上げの状態になってしまう作品も実際にありました。それに対して今回は、テーマ・演出ともにしっくりときました。先ほどから指摘されていますが、まず素材が非常にユニークです。東京オリンピックや原発の問題など、この10年間で非常に話題になったテーマを取り上げています。次に、このアップデートなテーマを能の形式で上演することによって、これらテーマの含む問題性がよりリアルに、そして強烈なインパクトを持って観客に迫って来る。岡田利規は世阿弥を現代によみがえらせようとしていると強く感じました。この点こそが今回の上演の肝であり、大きく評価したいところですね。