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『挫波』撮影=高野ユリカ/ Yurika Kono

■作品のテーマと能の形式

嶋田 今井さんのお話の流れで、私も2点、言いたいことがあります。
 1点目は、テーマの取り方に、実は微妙なズレが巧妙に仕組まれていることです。「敦賀」について言えば、われわれは確かに敦賀に原子炉もんじゅがあることを知っています。しかし、2011年の東日本大震災で、福島第一原発が大きくクローズアップされたこともあって、もんじゅの存在は非常に重要な問題であるにもかかわらず、また近い存在であるがゆえに、どこかしら忘れ去られていた印象があります。「挫破」についても、新型コロナウイルス感染増大のなかで東京オリンピックの開催そのものの是非が取り沙汰され、新国立競技場の当初の建設案はザハ・ハディドのあの流線型の競技場であったという事実自体が忘れ去られていた感があります。いずれも「そういえば、そんなものがあったな」といった感覚ですね。非常にアップデートなテーマを選びながらも、そこで展開される内容は、実は中心から少しばかりずれている。ここで指摘されているのは、非常に無責任なわれわれの忘却のありかたです。
 2点目は能の形式についてです。パンフレットに、岡田利規と能楽研究者の横山太郎との対談が掲載されています。そこで岡田は「本当に、ただパクっている、という感覚でつくっています」(パンフレット、8頁)という発言をしています。文脈から考えるに、すごくライトな雰囲気で発言した様子が窺えます。「敦賀」と「挫破」を、同じ複式夢幻能の形式に落とし込んだときに、怨念が立ち上がってくる。確かに「敦賀」では原子炉、「挫破」では建築家というように、全く種類の異なる対象が複式夢幻能の形式を踏まえることで浮上した点は、今井さんが指摘したように、この作品の肝心要のところだったと思います。しかしそれを、「パクる」という言葉が明確に示すように単に複式夢幻能のフォーマットに物語を投げ込んでしまえば、ほら簡単に作品が完成するでしょといった軽い気持ちで考えているならば、単に能の形式を利用したに過ぎず、岡田利規のオリジナルな思考は無いに等しいです。さきほどから、アップデートなテーマを取り上げたことを、私も含めて皆さん評価していますが、勝負は能の形式を通過したところで岡田利規の独自の問題提起が本当にあったのかどうかという点だと思います。岡田利規自身がお能のことをどう考えているのかを、この対談よりももう少し踏み込んだところで聞いてみたいですね。今回の公演では、そのあたりのことが、私には理解できませんでした。

柴田 確かに、このずれを意図してやっているのかどうかは大きな問題ですね。最初は「敦賀」のほうのタイトルが「もんじゅ」だったそうです。そのことが示すように、中心は人間ではないことが、当初から考えられていました。そして、作品の中心は、原子力をめぐる政策になっています。このことは大事な点ですね。なぜかというと、「挫破」と並べたときに、廃炉となったもんじゅの怨念があたかも人間のように立ち上がってくるからです。原子炉に怨念という感情はもちろんないですが、それを政策を含めて擬人化したときに、浮上してくる怨念という発想がとても印象的でした。
 あと、岡田利規が能の形式を援用した作品には、ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品となった『NO THEATER』(2017年2月)がありますね。この作品は2018年に京都国際芸術祭でも上演されています。地下鉄のホームを舞台に能「六本木」と能「都庁前」の間に、狂言「ガードルード」を挟んだ形式をとっていました。登場するのは、バブル景気に踊らされ自殺した男の幽霊や「フェミニズムの幽霊」と呼ばれる、都議会で女性であることを理由に謂れのない野次をあびた女性議員に端を発した今を生きる女性たちが味わう無念さの幽霊です。これは岡田利規に一貫してあるテーマかもしれません。
 死者に何かを語らせるという形式の作品は、『地面と床』(2013年12月)にも確認することができます。この作品は東日本大震災以降に発表した作品で、震災直後の周囲の助け合いを目にしてなくなった女性が、「幸せな未来が絶対に来ているはずだ」と信じているのに対して、生きている人たちは以前と全く変化のない日常を生きている。忘却して、また似たようなことを繰り返す。『地面と床』は、このようなわれわれの空しい日常を、亡霊という形を使うことで明確に印象づけた作品だと思います。
 この岡田利規の企みの延長線上に「挫破」を位置づけてみると、ザハ・ハディドの建設案が白紙撤回となり、東京オリンピックも当初は復興五輪と謳っていたのにいつのまにかコロナ克服の証になり、そしてコロナの感染爆発を押さえ込めない現実が押し寄せている現在、ここに登場するのは亡霊しかないんじゃないかとまで映じてくる。そのように考えると、中心となるテーマからのずれも含めて、面白く観ることができました。

鳩羽 今回の公演で取り上げたテーマがザハ・ハディドであり、もんじゅであるというのは、東京オリンピック・パラリンピックや原発問題の原点から問い直す意図があったと思います。
 先ほどタイトルが「もんじゅ」から「敦賀」に変わったという話が出ました。私は敦賀のすぐ近くに赴任していたことがあります。敦賀の地域経済が原発振興と共に成立してきた実情は、住んでみて身に沁みました。単に原子炉だけの問題ではなく、地域を含んだ全体の問題として捉えようとしたのは、正鵠を射ていたのではないでしょうか。
 複式夢幻能の形式を取っているなら、もう少し磨きをかけてほしいのが橋掛かりでの登場人物の処理です。俳優たちがドタドタと消えていった感が否めなくて、ちょっと残念でした。お能は出端を非常に大事にします。あの世とこの世を結ぶ橋掛かりの場面はスマートにして欲しいですね。