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三好十郎作品の再評価

嶋田 あともうひとつ注目したいのが、最近の三好十郎作品の上演です。以前にも増して上演頻度が高い気がします。最近では文学座公演『冒した者』(演出=上村聡史、2017年9月@文学座アトリエ)が力作でした。舞台中央の大きな穴が印象的でしたね。あとは長塚圭史でしょうか。最近目立った活動はないようですが、彼が立ち上げた葛河思潮社というユニットは、これまで全5回の公演を行っています。全て長塚の演出です。その5回のうち4回が三好十郎作品です。『浮標(ぶい)』を3回(2011年1月、2012年9月、2016年8月)、『冒した者』(2013年9月)を1回というように、かなり偏った公演ですが、それゆえに長塚のねらいが見えてくると思います。長塚も今回の『殺意 ストリップショウ』のテーマと同じく、戦時下の知識人の揺らぎに注目したのだと思います。『浮標(ぶい)』砂が敷きつめられたシンプルな演出で、三好十郎作品の言葉の持つ重さがひしひしと伝わってきました。この長塚の上演あたりから、三好十郎の再評価が本格的になってきたように思います。
 今回の『殺意 ストリップショウ』はこのような三好十郎再評価の機運のなかでも、上演されることのなかった貴重な作品です。いささか強引に現在のコロナ禍と重ねてみますと、様々な価値観や情報に振り回されるわれわれ自身を描写しているような気もしてきます。

野田 三好十郎の再評価にあたっては、葛河思潮社での長塚圭史演出『浮標(ぶい)』(2011年)と『冒した者』(2013年)の働きが大きかったのではないですか。特に『浮標』はその後2度再演されていますから。かつて長塚さんのお話をうかがう機会があったときに、日常では発せられないような長いせりふを舞台で言えるところが演劇の醍醐味の一つだといういみのことを言われていました。私も彼の演出で、三好十郎の文体を再考させられた者の一人です。三好十郎のせりふ回しが、特に平田オリザ以降消えつつあったせりふの一形態として、いまだに有効であるということですね。
 三好はプロット(日本プロレタリア演劇同盟)に参加しながらも、「気がついたときには、片隅のところではあるが、日本戦力増強のためのボタンの一つを握っていた」(「抵抗のよりどころ」1952年6月 初出『群像』同年11月号)と回想しています。執筆時は日本の主権が回復してまもなくの頃、『殺意 ストリップショウ』発表のほぼ一年後になります。前回、座談会で岸田國士をやりましたが、大政翼賛会の初代文化部長だったために、岸田は戦後公職追放されていますね。そんな岸田が三好の文章の3年前に出された「いわゆる「反省」は我々を救うか」(初出 『知識人』2 1、1949年)という文章で、「歴史の半ばから必然的に発生し、身につけた、社会的な、同時に心理的な習癖のケイレン的発作」として「日誌の記録によつて一応過去を過去として葬り去るように、「反省」という道徳的自慰によつて、何等かの過ちが帳消しにされるような錯覚」を論じています。この錯覚がある限り「我々の明日は希望なき明日である」とまで彼は述べています。これもまた『殺意 ストリップショウ』で三好が描いて見せた病と遠くないところにあるのは明かでしょう。三好の場合には、この病をもっとパーソナルな、ライフ・ヒストリーとして描いている。そこからは慚愧の念と無力感しか立ち現れてこないにせよ、この歴史的文脈は忘れるべきではないでしょう。

鳩羽 先ほど、舞台で生身の人間を見るという観劇体験について、野田さんも嶋田さんもお話していましたが、作品の終盤で美沙が「山田教授は一人ではない。あちらにもこちらにも、あなた方の中にも」と言いながら指差す場面があります。この場面は、もしオンライン配信された舞台の場合は、真意が伝わらないように思いました。この一晩の、ナイトクラブの客、つまり一般大衆に見立てられた、その時その場にたまたま居合わせた観客に直接語りかける言葉だからです。リアルな舞台の凄味を再認識した場面でした。

野田 戦時下、契ることのかなわなかった徹雄への恋慕の気持ちを美沙が語るところ。「どう言えばよろしいのでしょう?」と始めて、「イライラ、イライラとここの所を/ゴムひもでくくられて、つるしあげられて、/グルグルと振りまわされているような、/足が地につかないで、あがいても、あがいても/雲ばかり踏んで、胸がドキドキするばかり」というくだりがあります。このイライラ、グルグル、そしてドキドキは、徹雄の兄への「先生」との一夜の情事にすり替えられてしまうというのが、美沙の悲劇の中核をなしている。変化と革新となるべきものが、欺瞞に満ちたすり替えと糊塗に終わってしまうこの構造は、今のわれわれが置かれている状況と重なってくるような気がするんです。だから冒頭近くのさっきの美沙の台詞が響いてきた。このせりふは岸田國士的な「ケイレン的発作」の三好十郎版だったということでもあるのです。この関連性を栗山演出はしっかりと据えたと思います。誰もいないところに向かって延々としゃべっているという設定にしてもしかりです。歴史に残る名演だったと思います。

嶋田 今回の公演から、最近の三好十郎作品の上演まで話題が拡がりました。鈴木杏の活躍はもちろん、三好十郎作品の持つ意味について、今後も引きつづき考えていきたいと思います。

(2020年8月27日、Zoomにて収録)