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▼世田谷パブリックシアター主催公演『殺意 スト

リップショウ』

作=三好十郎
演出=栗山民也
2020年7月11~26日@シアタートラム

出席者=嶋田直哉(司会 シアターアーツ編集長)/鳩羽風子(シアターアーツ編集部)/野田学(シアターアーツ編集部)、発言順

『殺意 ストリップショウ』 撮影=細野晋司

鈴木杏の魅力

嶋田(司会) 今回の座談会演劇時評は、三好十郎作・栗山民也演出『殺意 ストリップショウ』から始めます。栗山民也の演出はもちろんのこと、鈴木杏の一人芝居が話題を呼びました。この作品は1950年7月「群像」発表の作品で、三好十郎の生前には上演されることがありませんでした。初演は1977年です。三好十郎はプロレタリア劇作家として出発しますが、途中で転向し、戦後は知識人の在り方などを厳しく問うていくような作品が数多くあります。
 栗山民也は新国立劇場主催公演で『浮標(ブイ)』(2003年2月)、『胎内』(2004年10月)を、また新国立劇場の演劇研修所第9期生修了公演でも『噛みついた娘』(2016年1月)を演出しています。その他、ホリプロ主催公演『炎の人ゴッホ小伝』(2009年6月@天王洲銀河劇場)の演出などがあります。今回のパンフレットにも栗山民也は書いていますが、三好十郎作品への並々ならぬ熱意と愛情が伝わってきます。そして、今回は鈴木杏とタッグを組みました。昨年(2019年)の秋頃にチラシを見て、それだけで私は興奮してしまいました。なので、今回の公演をとても楽しみにしていました。
 この作品は、鈴木杏演じるダンサア緑川美沙が、ナイトクラブで自分の半生を語っていくというお話です。彼女は田舎から上京し、兄の勧めで左翼の知識人である山田教授の家に身を寄せます。やがて、山田教授の弟徹男に気持ちを寄せていくのですが、徹男は出征し、戦死してしまいます。一方、左翼の知識人であったはずの山田教授は、戦中に国家主義者へと転向し、次第に戦争を正当化する言葉を口にするようになります。そして、戦後になると左翼の平和主義者へと再度転向していきます。劇中では転向、転々向という言い方がされていました。
 このような節操のない山田教授の様子を、緑川美沙はずっと観察しています。ある日、彼女は、アパートで他の女性と情事を重ねる山田教授の姿を発見します。その姿を見て、彼女は「殺意」を抱きます。劇中で、山田教授のことを、最初は「先生」と呼ぶのですが、それがいつしか「お前」という言葉に変わっていく瞬間が印象的です。
 これまで多くの舞台に出演し、様々な役を演じてきた鈴木杏のなかでも、2時間近くの一人芝居は初めてのことです。今回はコロナ禍のなか、客席をかなり減らしての公演で、演出面でも制約があり、いろいろとイレギュラーな側面はあったと思います。ただでさえ難しい役を、この制約のなかで、やりきってしまった鈴木杏の演技力、エネルギーに私は脱帽しました。彼女の役者人生の中でも、多分ターニング・ポイントとなると思われる重要な公演だったと思います。

鳩羽 私は政府の緊急事態宣言の解除(2020年5月25日)を受けて、都内の劇場で公演が再開されてから初めて観劇したのがこの『殺意 ストリップショウ』でした。シアタートラムの全座席の248席を100席近くに減らしたなかでの公演。久々の観劇で、私自身が少し緊張していました。
 鈴木杏がブラジャーとホットパンツを身に付けた以外、ほぼ裸身の姿で入ってきたとき、白い肌がまぶしくて、白い発光体のように見えました。肉体がそこに在るということが、これほど圧倒的な説得力があるのか。久々の観劇もあって、強烈に感じました。戯曲では観念先行になって、頭でっかちな女になりがちな美沙という役を、鈴木杏が見事に血を通わせて確かな存在感を見せていました。この公演は彼女の代表作になると確信しました。

野田 栗山演出と鈴木杏主演の一人舞台ということで、高い注目を浴びていただけあって、期待に違わぬ迫力でした。私は7月12日に見たのですが、久しぶりに舞台を生で観た実感がありました。見たという感じでした。客席を減らしたことで、ナイトクラブという設定もさらに際立ちました。
 三好十郎の台詞は時にくどくきこえますが、彼は決して観念的な作家ではないというのが私の持論です。彼独特のくどさは、実は螺旋型に展開する近代的思考の軌跡に起因するんです。そこには、一見堂々巡りに見えても、そのほとばしりの中に生身の人間がたどる思考の道筋が、それに伴う情動と共に描かれている。「ストリップショウ」でも、このエモーショナルな思考の旅路(ジャーニー)が感じられました。生の舞台でしか通用しないような旅路です。
 三好の文体は、螺旋展開に内在する回りくどさゆえに、ある程度の辛抱を観客に要求します。これは劇場という閉ざされた共有空間でないと難しい。この作品を自宅で映像としてみていたら、観客として何度も休憩を取りたくなったことでしょう。今回のライブ体験は、一観客として、そういう意味での演劇的辛抱が見事に報われた気がしました。
 鈴木杏の熱演のおかげで、「ストリップショウ」がメタファーとして持つ意味合いも明確になった気がします。ゆったりとした席組で、観客は自分が消費対象としての女性の裸体を観る側にあることを思い知らされる。すると一人の女性が、「ダンサア」としてあらわれる。しかし彼女が脱いでいくのは衣ではない。むしろ彼女は自己の黒歴史にこめられた強烈な愛惜、後悔、そして憎悪を、いちいち言葉にして、衣のように観客に投げつけていくのです。彼女にとって裸体を見せるということは、苦々しい過去を振り返りつつ繰り返される贖罪と鎮魂の儀式であるかのようです。
 「ダンサア」緑川美沙にとってかつては崇敬の対象であり、今となっては殺意の対象になってしまった「教授」は、左から右、そして戦後になるとまた左へと思想的転向を重ねることで世の中を渡っていった人です。ところがこの「教授」も、世間向けの思想的衣を脱いでしまうと、結局は一人の女の体にどうしようもなくうつつを抜かしているだけの存在です。美沙の「ストリップショウ」は、自分の過去だけではなく、この教授をも裸にしてしまう。
 この舞台、栗山演出と二村周作の美術がうまくかみ合っていしたね。三方囲みの演技空間のなかで、美沙の「ストリップショウ」が一番よく見える位置に、空席になっている一人掛けのソファがある。これを見て、私の専門分野関係で思い出したのが、仮面劇でした。ヨーロッパで16世紀から17世紀初頭にかけて流行った室内宮廷劇で、シェイクスピアの時代に英国にも存在した劇形式なんですが、その特徴として、舞台美術の遠近法が完全に機能する位置に国王の席を置くというのがあるんです。物語はたいがい国王礼賛の寓話形式でして、国王の座が舞台上の遠近法秩序を可能ならしめているというのも、国王がこの世の秩序を支えているという寓話の核心と密接に関連しています。
 この国王の席にあたるソファが、二村美術では空席になっている。仮面劇のことを知らなくても、これが「空白としての天皇」を指し示していると考えたくなるでしょう。この空白は、現人神としての天皇から象徴天皇に移行したことによって生じたものです。もしかしたら、コロナ禍にあってお顔を見せなくなった現在の天皇にまで、想像を拡げても良いかもしれない。何にせよ、この「主権の座」としてのソファが空席であるということは、仮面劇からの類推を推し進めれば、秩序を形成する視点が消失しているということです(国王の座は、遠近法を用いた視覚表象の消失点に相当します)。時に、このソファに美沙が座って演技をするのですが、この「主権の座」はいかにも居心地が悪そうです。これもまた彼女の、そして戦後の日本国民の、民主化にともなうなかなか据わらない腰つきを表しているようでした。そういう点でも、三好戯曲の精神に忠実な舞台だったと言えるのではないでしょうか。

嶋田 今回の公演は、鈴木杏の一人芝居というのが最大の魅力です。先ほど鳩羽さんが「発光体」という言葉で表現してくれました。鈴木杏の身体は、非常に健康的ですよね。今回の舞台に限って言えば、いわゆるエロスを感じさせる身体ではありませんでした。他の女優がやれば、おそらくごく自然にエロスが漂ったのかも知れません。それがいいのか悪いのかはさておいて、鈴木杏の健康的な身体が、今野田さんが言った、怒り、殺意という感情を、観念的ではなく、ストレートに表現することを可能にしていたと思いました。そこには男と女といった関係はもちろん、それ以上に人間としての「怒り」そのものが非常に強く表現されていました。この「怒り」の感情の原因は、転向を何度も繰り返す、山田教授の思想的な節操のなさなのですが、直接的な原因は女との情事に耽る山田教授の姿を目撃したことです。具体的には女の痔をのぞき込む、山田教授のだらしない姿ですね。そして緑川美沙は心の中で「ぽきん」と何かが折れてしまう。この「ぽきん」という擬態語が、鈴木杏の身体を通じて、実に巧に表現されていました。「怒り」の感情を示す赤の照明(照明=服部基)も効果的でした。

鳩羽 鈴木杏は豊満というふうではなく、普段よりもかなり体重を落として舞台に臨んでいた気がします。この一人芝居が優れている点は、声の使い方です。白石加代子を彷彿させるほどに、声色がころころ変わる。一人芝居はモノローグに陥りがちですが、高潔そうで実はだらしない山田教授や、純朴な弟の徹男が実在すると感じさせた技量は特筆すべき点だと思いました。

野田 私も鳩羽さんと同じ印象ですね。鈴木杏の身体鍛錬の結果だったのでしょうが、あの明らかに低い体脂肪率は、よほど稽古が大変だったのだろうとこちらがすこし心配になったくらいでした。でも、あの鍛えられた末の体脂肪率――ストリップショーにはもはや似つかわしくないほどの身体――が、物語の中での美沙の居場所とどこか結びついているような気もしたんです。ちぐはぐさ、とでも言うんですか。ポカリスエットの2000年頃のCMの中、ポルノグラフィティーの「ミュージック・アワー」の曲をバックに、浜辺で彼女がはしゃいでいたでしょう。まだまだローティーンのころの彼女の健康体を思い出せる世代である私の眼には、このちぐはぐさが良い意味で強調されて映りました。

嶋田 皆さんご存知のように、鈴木杏は蜷川幸雄の作品の常連ですよね。私が初めて鈴木杏を舞台で観たのは、ホリプロ主催公演『ロミオとジュリエット』(作=シェイクスピア、演出=蜷川幸雄、2004年12月@日生劇場)でした。この時、鈴木杏は17歳、共演した藤原竜也は22歳。この二人の、あまりにも瑞々しく、若々しいエネルギーに打ちのめされた記憶があります。この前年(2003年)にこの二人が共演した同じくBunkamura主催公演『ハムレット』(作=シェイクスピア、演出=蜷川幸雄、2003年11月@シアターコクーン)を見逃していたので、この公演は私の中では鈴木杏を知った大切な公演ですね。映像化されているので、今でもよく観ます。二人の疾走感がたまりません。
 近年の鈴木杏はパルコ主催公演(作=蓬莱竜太、演出=栗山民也)『母と惑星について、および自転する女たちの記録』優役(2016年7月@パルコ劇場)、新国立劇場主催公演(作=田中千禾夫、演出=小川絵梨子)『マリアの首-幻に長崎を想う曲-』鹿役(2017年5月@新国立劇場)、Bunkamura主催公演『欲望という名の電車』ステラ役(作=テネシー・ウィリアムズ、演出=フィリップ・ブリーン、2017年12月@シアターコクーン)など深みのある演技が印象的です。特に『欲望という名の電車』のステラは絶品で、ステラから作品世界全体が見えてくる印象すらありました。俳優として、もう、超絶的な領域に踏み込んでいるのではないか。それを確信したのが、今回の公演でした。