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▼人間とは何か

オデュッセウスとナウシカアーの出会いを仲介するアテーナー 古代ギリシャの壺(紀元前440年頃)

 墓の主は驚くべきことを告げる――ナウシカは人間ではない。
 戦争によって人の住めない環境を作り出した人間たちは、環境の回復を待って再び世界に君臨するための装置を作っておいた。「腐海」は1000年かけて、世界を浄化し、最後は無害の砂になる。その時まで人間はこの墓の中に卵の形で冬眠している。ではいま生きているのは何者なのか。汚染に適応するように人工的に作り出された「新型人類」である。人類の達成した文明の光を彼らの復活の日まで同じレベルで保ち続けさせるために。
 墓の主は声(吉右衛門)だけに聞こえて、姿は見えない。人間は汚染の世をやり過ごすために冬眠しているので、声を出しているのはAIかと考えられる。

これは旧世界のための墓標であり、同時に新しい世界への希望なのだ。清浄な世界が回復した時、汚染に適応した人間を元に戻す技術もここに記されてある。子らよ。力を貸しておくれ。この光を消さないために。

ナウシカは欺瞞を見抜く。「新型人類」が王蟲と同じように汚染の中で生きている以上、世界が清浄になった世界では王蟲と共に絶滅するように計画されているに違いない。

私達の体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている

ここで問われているのは、「人間とは何か」ということである。墓の主の主張はこうある。

人間という本質が最初にあって、一人ひとりの人間はこの本質に合わせて作り出される。それが我々である。残念ながらお前たちはそうではないが、我々に協力すれば何とかしてやる。

ナウシカはかつて人類が世界を焼き尽くすのに使用した生物型兵器「巨神兵」を呼びさまして、墓所を人類の卵ごと焼き尽くす。それは人間の進化の歴史を考えると、当然の論理的帰結である。かつてホモサピエンスは、先行するネアンデルタール人から見れば、人間の本質を持っていなかったが、生存競争を通して彼らを絶滅させた。今ホモサピエンスが同じ主張を繰り返すならば、同じ運命を甘受しなければならない。
 公演は12月6日に幕を開け、8日(初日から3日目)の昼の部に、菊之助が左肘に亀裂骨折のけがを負う。このためその日の夜の部は休演になり、翌日から演出を変えて再開された。私は12日に昼夜を通して見た。
 プログラムに記されている全7幕36場に及ぶ場割りと照らし合わせると、菊之助の単独舞台を中心にカットがほどこされている。メーヴェに乗るナウシカの宙乗りも預かりになっていた(後にまた復活したと伝えられた)。しかし物語の大筋はここに述べたところと変わりはない。ビューイングは先に述べたように舞台とは異なる魅力をたたえていた。ライブではなく、ディレイのビューイングなので、ここにもカットはあった。菊之助のけがは、トリウマに乗って戦場におもむく時、転倒したのが原因と報道されていたが、この場面はなかった。事故は3日目に起きたので、初日と2日目は無事だったはずである。
 映画館の客席の暗がりに身を潜めて孤独にスクリーンを見詰める感覚は、劇場の明るい客席で大勢の客と一緒に舞台を見物する感覚とはかなり異なっている。

▼腐海を越えて命の海へ

 土鬼帝国は崩壊し、同盟諸国の民は圧政から解放された。トルメキア王国のヴ王(歌六)は凡庸な兄たちに代わって全軍の指揮を取っていたが、墓所が最期の光を発して消滅した時ナウシカを庇って瀕死の重傷を負う。ヴ王はクシャナを王位継承者に指名して息絶える。

好きになれない女だったが、そなたに王位を譲る。

クシャナは父王を埋葬し、トルメキアに王道をひらくべく兵をまとめて去る。大詰めナウシカは、夕陽を浴びて金色にかがやく大地を前に立ちつくし、最後のセリフを言って、幕を切る。

さあみんな。出発しましょう。どんなに苦しくとも生きねば。

原作漫画でこのセリフを言うナウシカのあどけないとも言える表情を見ると、却ってその裏側に秘められている深い悲しみを思う。
 「生きねば」という言葉は20世紀のフランスの詩人ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」 « Le Cimetière marin » から引用されている。後に宮崎監督は堀辰雄の小説『風立ちぬ』を一部下敷きにして同じタイトルのアニメ映画を製作しているので、このことは間違いない。小説の題名は『海辺の墓地』の次の詩句から取られている。

Le vent se lève,
il faut tenter de vivre.
(風が起きる、生きねば)

▼夢幻能『風の谷のナウシカ』

 新型コロナウィルスの感染拡大によって各劇場が公演中止を余儀なくされるのに心を痛めつつ、せめて一人の観客として、今まで劇場から貰った贈り物――想像力の翼を大切にしたいと思う。観客はただ一方的に受け身で客席に座っているのではない。舞台に参加し、時には目の前の舞台の向こうに不思議な光景を見る。私は大詰を見ながら江戸時代よりもさらに遡って、室町時代の人がこの作品を舞台化すればどうなるかと勝手に想像力(妄想)を膨らませた。
 『風の谷のナウシカ』を古典歌舞伎の手法で演じる時、舞台に登場する俳優はアニメ版の少女の身体と声とは当然ながら違う。だから菊之助は原作漫画全7巻によって、さらに深い主題を求めようとした。それでも観客の心からアニメ版のナウシカを拭い去ることは出来なかった。演出がそう仕向けていたからである。衣装を始めとして装置から小道具にいたるまで、アニメ版に似せようとして、その結果そこにいるのはナウシカの似姿だった。
 アニメ版の似姿ではないナウシカがあり得るのか。夢幻能ならば可能だと思う。菊之助の所作の美しさは群を抜いている。扮装がどう変わってもこのことに変わりはない。歌舞伎舞踊で異世界ファンタジーが展開される『関の扉』で、菊之助は2015年2月の歌舞伎座で小町桜の精に扮し、昨年3月の国立劇場では関守関兵衛になった。劇の構造は夢幻能。扮装は『関の扉』。思想は現代。それらを菊之助の身体が一身に担う。
 室町時代の天才が夢幻能『風の谷のナウシカ』を書くとすればどうなるであろうか。ナウシカもクシャナもこの世を去って、長い年月の後、ワキ・アニメーターが土鬼帝国の聖都シュワに墓所の旧跡を訪ねる。ワキが夜を込めて、思いにふけっていると、風の音がしてシテ・ナウシカの亡霊が静かに橋掛かりを歩いてくる。ナウシカはワキに向かって昔話をする。自分が北から南を目指した長征は「海辺の墓地」に至るためだった。そこでは海が真昼の光を受けて脈打っている。
 19世紀のフランスの詩人アルチュール・ランボオの『地獄の一季節』の中の «L’Éternité » という詩に、以下の一節がある。

Elle est retrouvée !
Quoi ? l’éternité.
C’est la mer mêlée
Au soleil.
(また見つかった。何が? 永遠が。それは海。太陽に溶け込んでいた海)

太陽と共に姿を消していた海が再び目の前にある。ヴァレリーにおいてもランボーにおいても、海は死と再生を繰り返している。宮崎駿においても同様に。腐海とは死せる海にほかならない。ナウシカは腐海を越えて命の海を再び見いだした。墓を焼き尽くしたのは命を救うためだった。人の命を。虫たちの命を。しかしそのためにホモサピエンスを絶滅させた罪を拭い去ることはできない。シテはこう語ると、再び青衣を翻し、メーヴェの白い翼を広げて明け初めた空へ去っていく。
 天才的アニメーターは、懐手帳を取り出してナウシカの姿を写し取る。後には松虫の声ばかり。それはまた友を呼ぶ人間の声。王蟲も他の巨大化していた虫たちも今は元の姿になっている。

草茫々たる朝の原に虫の音ばかりや残るらん