第4回座談会演劇時評 (2) (2020年1・2月上演分)『メアリ・スチュアート』(世田谷パブリックシアター)
世田谷パブリックシアター主催公演『メアリ・スチュアート』
作=フリードリヒ・シラー
上演台本=スティーブン・スペンダー
翻訳=安西徹雄
演出=森新太郎
2020年1月27日~2月16日@世田谷パブリックシアター
出席者=嶋田直哉(司会)/野田学(シアターアーツ編集部)/新野守広(国際演劇評論家協会日本センター会員)(発言順)
▼シラー『メアリ・スチュアート』の文学史的位置づけ
嶋田 世田谷パブリックシアター主催公演『メアリ・スチュアート』は、シラーの戯曲作品。演出は森新太郎。幽閉されたメアリ・スチュアート(長谷川京子)と、彼女の遠縁にあたるエリザベス女王(シルビア・グラブ)との対立関係を軸にして、男と女、カトリックとプロテスタントといった様々な対立関係を描いた作品です。
新野さんは今回の上演パンフレットに「フリードリヒ・シラーの劇世界」という文章を寄せていらっしゃいます。まずはこの作品の上演台本の成り立ちからお話し下さい。今回の公演では1980年にスティーブン・スペンダーが上演台本化したものを使用していますね。
新野 シラーの原作はドイツ語ですが、上演台本はイギリスの有名な詩人スティーブン・スペンダーの英語版です。
野田 シェイクスピアが専門の研究者だった故・安西徹雄さんの翻訳です。演劇集団「円」でも演出家・翻訳家として活躍していたので、森さんの先輩に当たる人ですね。上演台本はシラーのドイツ語からではなくて、スティーブン・スペンダーの英語から翻訳しているということでしょう。
新野 翻訳された日本語は聞きやすく、シラーの原作に比べて簡潔で、現代風に感じました。シラーのドイツ語からスペンダーの英語へ、さらに安西さんの日本語へと、都合2回翻訳が入って、その結果こなれた日本語になったと思います。
物語の構成や話の筋はシラーだと思いますが、原作をそのまま上演すると、かなりの長さになると思います。今回の上演ではドイツ語の台詞が完全には反映されていません。シーンを大胆に切っているというわけではなく、台詞ごとに小さく切り刻んでいる感じですね。
野田 『メアリ・スチュアート』はシラーのシュトゥルム・ウント・ドラング以降の、ゲーテと会ってからのヴァイマル古典主義の時代の作品集とどう違うんですか。例えば『群盗』のときのシラーと、『ヴァレンシュタイン』や『マリア・シュトゥーアルト=メアリ・スチュアート』などと。
新野 『群盗』は、シラー22歳のときの作品です。盗賊団のリーダーになったカール・モールという貴族出身の若者が主人公ですが、彼の反抗心には、当時のドイツの若者たちの屈折した感情が溢れています。先進的な文明国フランスに対して、封建的な領邦国家に分かれていたドイツの若者たちは、「自分たちは遅れた国にいる」という気持ちを抑えられない。『群盗』の台詞はものすごく情熱的で、ひとつ一つがとても長いのですが、そこには故郷を民主的にしたいという自由と独立を求めるナショナリズムが溢れています。そこがドイツでよく読まれてきた理由でしょう。
日本では「疾風怒濤」と訳されるシュトゥルム・ウント・ドラングは、ドイツ語では「嵐と衝動」という意味になります。嵐のように行動する若者の物語が、「ドイツとは何か」という問いと重なり、政治的な行動に駆り立てられる若い世代の心を射ぬいたのですね。『群盗』を発表したシラー自身、故郷のヴュルテンベルク公国を追放されます。
その後各地を転々としたシラーは、ゲーテのいるヴァイマル公国に行き、無給ですが大学講師になり、歴史を講義しながら哲学・美学論稿を書きます。そして毎年のように長編戯曲を発表する多産な晩年の古典主義期を迎えます。晩年と言っても40歳になったばかりですけれど。『メアリ・スチュアート』との関連では、哲学・美学論考の中の「崇高について」がわかりやすい。理性と感情を分けて、感情を殺して理性に身を捧げるときに崇高な気持ちが現れるという考え方で、アリストテレスの『詩学』にある「悲劇は高貴な行為の再現」の近代版でしょうか。シラーは高貴な行為を描こうとして、歴史に素材を求めたと言われています。『メアリ・スチュアート』はその例としてよく挙がります。
ただ、『メアリ・スチュアート』は、ギリシャ悲劇とはすこしニュアンスが違うのかもしれません。というのも、メアリはカトリックの司祭に罪を清めてもらい、身を捧げて死んでいく。メアリの感情が浄化される「崇高な」場面は、カトリックの信仰告白になっています。ともあれメアリ・スチュアートは悲劇的な主人公として古典主義の美学を体現する。対するエリザベートは一人ぽつんと取り残され、権力機構の頂点に位置する人間の孤独を体現する。こういう対比が描かれています。
野田 シュトゥルム・ウント・ドラングの、感情のほうが理性に優先するという動きの後で、今度は理性側に行って、崇高をそこに認めようとするわけですね。カントの崇高論との関係はどうだったんでしょうか。
新野 シラーはカント哲学から多大の影響を受けましたが、想像力についてのカントの議論には納得できなかったようです。カントは想像力をあまり評価しなかった。一方、シラーにとっては、理性にしたがって感性を犠牲にして崇高なものにいたるというとき、想像力はとても大事だったのですね。というのも、想像力によって人間は崇高で高貴な行為を起こすことができるからです。シラーはカントからたくさんの刺激を受けましたが、想像力を重視したところが作家と哲学者の分かれ目だったと言えるかもしれません。演劇は観客の想像力を喚起できる。だから観客を高貴な行為に導くことができる。こうした感性教育も意味する美学理論を劇作家としての実践の糧にしたのがシラーだったと言えると思います。
野田 英国ではコールリッジなどのロマン派詩人が、崇高や感情、そしてなんといっても想像力という観念を前面に出してきます。彼らの多くは戯曲も書いています。ところが、そっちの方面ではあまり成功していないんですね。ひたすら登場人物が独白めいた長台詞を喋っていて、対話にならないんですよ。結局見えてくるのは、あくまで主人公個人の――もっと言えば作家個人の――内面的葛藤なんです。
新野 ドイツでもシラーやゲーテの古典主義の後にロマン派の世代が来ます。シュレーゲルや、ティーク、ノヴァーリスですが、そうすると内面の無限性を微細な感情で語っていく、「イロニー」という無限の戯れを作り出していくようになります。分身も登場しますね。