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▼シンプルな舞台空間

『メアリ・スチュアート』 撮影=細野晋司

嶋田 今回の公演の舞台空間は非常にシンプルでした。大道具もほとんどなく、照明もかなり暗くて、そのなかで登場人物が会話をしていく感じですね。

野田 奈落に通じている花道があって、舞台奥にも奈落から上がってくる階段がある。それ以外は、狩りの場面で大きな大木オブジェが舞台上に出て来る以外、置き道具ぐらいしか目立たないセットでした。確かに簡素です。

嶋田 静寂が極まるなかで展開される本格的な会話劇といった印象を私は持ちました。その中から今お話に上がったような、メアリ・スチュアートとエリザベスの対立を軸にカトリックとプロテスタント、男と女など様々な対立が描かれていきます。極限まで削ぎ落とされた舞台装置のなかで、照明も音楽もなく、静寂のなかで会話だけが展開していく。この静謐さには緊張感と説得力があったように思います。全体的な舞台の完成度は高水準だと思いました。
 このような静謐さの中、第1幕の中盤でバーリー卿役の山崎一が抑制を効かして長い台詞を話し始めると、声もいいので聞いていて非常に気持ちよかったですね。

野田 バーリー卿はエリザベスの宮廷における実務派のトップ。諜報活動を駆使する冷徹な官僚というイメージがあります。これに対してレスター伯(吉田栄作)が率いるのは、スタンドプレーを好む勢力。この二派が同じ宮廷の中で同居していて、それをうまく操ったというのが、一応エリザベス一世のカリスマ的な所だったとされています。そういうのもあって、バーリー卿を演じた山崎一がクールな役どころを見事に演じていて「はじけない山崎一もこんなにいいんだ」と思いました。
 あと印象に残ったのがハンナ・ケネディ役の鷲尾真知子。ひたすらメアリ・スチュアートに寄り添う役で健気でした。公演プログラムに長谷川×グラブ×鷲尾鼎談が掲載されていましたが、それによると、すぐにでもメアリのそばに行きたくなる鷲尾に対して演出の森新太郎が、あまり動くなと注文を付けたそうですね。寄り添おうと思うと動きたくなるところを、なかなか動けなくて苦労したんじゃないかな。稽古場が目に見えるようです。

嶋田 一幕の幕切れで、エリザベスとレスターが激しく応酬する場面があります。最終的にエリザベスがレスターに馬乗りになってしまう場面です。この場面は男と女、支配と被支配といった権力の対照性と主導権の取り合いを、シルビア・グラブと吉田栄作の二人が本気でぶつかり合う迫真の演技のなかで見事に描いていました。
 私はこの作品を観るまでシルビア・グラブは、ミュージカル女優という認識が非常に強かったんです。『レ・ミゼラブル』(2005)のファンティーヌ役は歌唱はもちろんのこと、薄幸な役づくりが印象的でした。だから今回の振り幅があるエリザベス役はシルビア・グラブの新機軸と思うくらいのインパクトがありました。ストレートプレイでここまで迫力ある演技を見せてくれるとは予想していなかったので、本当に驚きました。

新野 その場を仕切るような大胆な迫力。さきほど自在な演技と言いましたけれども、本当に感情が極端から極端に振れても、まったく微動だにしない。素晴らしい演技でしたね。

野田 ちょっと長谷川京子がかわいそうになるぐらい、シルビア・グラブは良かった。
 でも、男関係という点でいうと、メアリ・スチュアートのほうが、エリザベスよりひどいことをやっていますよね。エリザベスは結局一度も結婚しませんでしたが、メアリ・スチュアートは・・・

新野 3回。

野田 それも1回目は自分の旦那を殺している、というかそれに関与していたと言われていますよね。そういうことをやってしまうくらい、ある意味「男好きがする魔性の女」の部分というのを、シラーは戯曲ににじませていますね。ある意味、そういう設定にしておけば、男に振り回される高貴な美女として、メアリを聖別できるとさえ思っていたのかもしれない。もちろんそこには男尊女卑のにおいがするわけですが。現代から見れば、そこはシラーとて時代の制約があったのだということでしょう。
 舞台を見てもシルビア・グラブの白塗りSM女王的エリザベスは、「美女点数」的には失礼だが長谷川京子のモデル・メイクしたメアリにかなわない。それに長谷川京子は、一生懸命に低い声を出そうとしていても、やはり声の不安定さが目立つ。それがかえって「寄り添いたい」という男達の欲望をかき立てる。その結果、若いのから年寄りまで、男達が寄ってくるわけです。
 男性貴族達は、女に国政など任せておけないと思う一方で、女だから男としても乗っかりようがあるとも思っている。エリザベスにまとわりつく男連中は、結局権力を求めて彼女に乗っかろうとするわけでしょう。一方メアリ・スチュアートに乗っかってくるやつは、もちろん権力も求めているんだけれども、どこかメアリ・スチュアートの色香が彼らにそうさせたみたいにも見えてしまう。しかし彼らの行動は失敗に終わるか、裏切るに転じるかのどちらかですよね。彼らはメアリの美貌ゆえに、それに惹かれるか、それを恐れるかという表裏一体の両極の間で揺れるわけです。この最終的には--シラーも含めて--男性優位主義的な屁理屈を、どれだけ森新太郎が現代において批判的に舞台にのせられたかという点は、この舞台の評価に大きく関わると思います。

新野 確かにメタ=シアター的批評という点は、すこし希薄だったかな。振り返ってみると、原作の古典主義的たたずまいを俳優の全身で受け止めようとしたところに尽きる、観客である私もそこに満足したということだったと思います。

野田 公演プログラムにありましたが、エリザベス朝時代の男尊女卑社会について森新太郎はリサーチしたそうですね。実際、私の目から見ても、この時代の演劇は、シェイクスピアも含めて、女嫌いの言説がまかり通っています。

嶋田 確かにこの作品は男性中心主義的なセリフが結構目につきますね。「女は泣きわめくから断頭台には一緒に登らせない」という会話が最後に登場します。しかし、このようなセリフが現代的な批評性を獲得しているかどうかは難しいところですね。そこまでは踏み込んでいなかったんじゃないかな。この点を一気に踏み込んだ方が、長谷川京子もやりやすかったかもしれません。

野田 その点、もっと踏み込んでいたら、長谷川京子の芝居も変わってきたと思うんですよ。ただ、結構リサーチしたと書いてあって、稽古場でもそのことについてだいぶ話をしているらしき割には、その部分はあまり出ていなかったような気がするんです。そこら辺に対する森新太郎の感覚が、どれだけ舞台上で伺えるかというのは、今回の芝居を評価するに当たって、大きなもう一つの項目だと思うんですが。
 メアリが過去に犯した罪を悔いる台詞はシラーの戯曲にも書きこまれてます。ここなどは、結局男達に踊らされている女性の自意識を表現するのに絶好の機会だと思うんです。ただ、そこの演技が今回は弱くなかったですか。シルビア・グラブがあれだけ大きな演技をしているんだから、長谷川京子としてもそれに対抗するためにも大きな見せ場だったはずなんですけれどね。

新野 元執事がカトリック司祭となる許可を得て、かつて仕えた女王に懺悔をうながす辺りは、もっと工夫できたかもしれないですね。

野田 とは言っても、狩猟場の森の中でエリザベスとメアリ・スチュアートが対決する場面は良かったですけれどね。大砲がボーンと鳴る音が、同時に二人を隔てる轟音のように聞こえてくる。そういえば舞台上にこの場面だけ横たわっている巨木の装置まで、大砲に見えてくる。幽閉されているメアリが、この場面だけ屋外なんです。そこでメアリが感じる開放感と期待感が、決定的な二人の対決シーンへと発展するんです。あそこは両者相四つで、どちらも遜色なかったですね。

新野 歴史的事実としては、二人は出会わなかったようですけれども、ああやって創作で二人を出会せると、なかなか面白い場面が生まれるんだなと思って見ていました。