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▼メアリ・スチュアートとエリザベス――分身と対照

『メアリ・スチュアート』 撮影=細野晋司

野田 「分身」といえば、『メアリ・スチュアート』も決定的に違う人物像が二人、あたかも互いの分身であるかのように振る舞いますね。片や元スコットランドの女王のメアリ・スチュアート、片や現役のイングランドの女王エリザベス一世。

新野 メアリとエリザベスの対照性は、まずなによりも歴史的にこの素材があったというところが大きいでしょうね。シラー自身はロマン派の分身のモチーフをそれほど意識しなかったように思います。

野田 今回の森新太郎演出による舞台では、メアリ・スチュアートを演じた長谷川京子と、エリザベス一世役のシルビア・グラブの対照性が際立ちました。いかにもモデル然としたナチュラルメイクの長谷川と、白塗りのお化けみたいな格好のグラブ。エリザベスは子供の頃に天然痘を患った関係で、エリザベス一世の肖像画は、どれをとってもすごく白塗りなんです。あざを隠すためだったと言われています。だから白塗りメイクは歴史的に正しい。だけれども、狩りのシーンでは、鞭を持って出てくるグラブのエリザベス一世は、SMの女王みたいでもありました。それほど一種戯画化された白塗りの人間としてエリザベスを描いているんですね。森新太郎は、二人の対照性というのを頭に置いて、この舞台を造ったんだろうと思います。

新野 今回の舞台はエリザベスのほうが面白いという意見も結構ありますね。わがままで自己中心的な最高権力者に振り回される男たちという構図ですが、道化のようなコミカルな振る舞いから、心の中の深淵をのぞき込むような深い孤独の表現まで、エリザベスの大きな振幅が舞台の魅力になっていました。ここにはシラーの原作に対する森さんの解釈が反映されているのでしょう。最後の場面で、エリザベスの元愛人のレスターも、補佐役の大蔵卿バーリーも去っていくわけですし。さらに、そもそもメアリを処刑する裁判の根拠になった証言は偽証であったということが明らかになってくると、エリザベスには、自分が法の下の正義と違うことをやってしまったという自覚も生まれてきます。あらゆるものが自分の周りから去っていって、本当に孤独になっていく。そういう権力者のむなしさが最後に一人取り残されたエリザベスにある。

野田 森新太郎の本当のシンパシーは、エリザベスというか、シルビア・グラブに向けられているんじゃないかと思いました。

新野 それは、高貴な人間が理性的に行動するとき感情が犠牲にされ浄められる、そこに崇高さが生まれる、というシラーの美学の現代における困難さによるのではないかな。メアリが処刑されるのを受け入れるときに、舞台上には崇高さを体験する登場人物がいる。それを観客が見て、「崇高な人物がここにいる」と思い、観客の想像力が動き出す。これがシラーの美的教育のねらいですが、これに長谷川京子さんが応えることが出来たかどうかというのが、シラーの原作を踏またときの今回の公演の重要なポイントになると思います。ただ、今はシラーの時代ではない。舞台と客席が崇高さを共有するという、啓蒙主義の理想を現代の劇場で実現しようとしても不可能でしょう。そのため、シルビア・グラブの非常に自在な、あるときはまるで道化師のように、あるときはあたかも本物の女王であるかのような、振れ幅の大きいダイナミックな演技の陰に長谷川京子が隠れてしまった感じもやむを得ないかなと思いました。

野田 旧西ドイツのシャウビューネと旧東ドイツのベルリナー・アンサンブルの役者を組み合わせた『リチャード二世』(ベルリナー・アンサンブル、演出=クラウス・パイマン)を2002年に文化村・コクーンで観ました。その時も旧西独出身のミヒャエル・メルテンスが演じたリチャード二世はどちらかというとナチュラルメイクだったのに対し、後にヘンリー四世になる簒奪者ヘンリー・ボリンブルックを演じた旧東独出身のファイト・シューベルトは白塗りでした。演技スタイルも、リチャード二世のほうはスタニスラフスキー・システム的リアリズムに見えたのに対して、ボリンブルックのスタイルはベルリナー・アンサンブルらしいブレヒト風の演技でした。二人が対照的だったんですね。どれだけスタニスラフスキー的な演技を長谷川ができていたかというのは置いておいて、あの対称性を私はちょっと思い出しました。
 考えてみれば『リチャード二世』もまた、高貴な主人公であるリチャードが王位を失うという墜落の過程において、ある種の崇高さを感じさせていくという構図です。対照的にボリンブルックは、上昇する過程において、政治的な泥沼に足を突っ込み、身動きが取れなくなっていくという。この構造と、今回のメアリ・スチュアートの構造というのが、ほとんど演技の使い分け、スタイルの使い分けという点からいっても、非常に似ているなと思いました。

新野 ひょっとしたら森さんは、その2002年の舞台を見ているかもしれませんね。2人の演技の質感が違っていたというのは、そのとおりだと思います。それから今回の『メアリ・スチュアート』の上演は舞台にほぼ何もないところからスタートしていくんですが、何もない舞台で演技だけで勝負しようという演出家の森さんを中心とする演技陣の姿勢は、シラーの古典主義美学を表すのにとてもいいなと、僕は思いました。つまり、一番演劇で大切なものだけで勝負しようとしている。古典主義の作品はそれ自体が骨太なので、あまりいろいろな感情や装飾を舞台の上で見せるよりも、かえって何もない方が骨格が良く見える。スッキリすると思うんです。この意味で舞台は成功していたと思いました。