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『暴力の歴史』 撮影=引地信彦

東京芸術祭主催公演『暴力の歴史』
原作=エドゥアール・ルイ
独仏翻訳=ヒンリッヒ・シュミット=ヘンケル
演出=トーマス・オスターマイアー
2019年10月24日~26日@東京芸術劇場プレイハウス

出席者=野田学(司会)/柴田隆子/坂口勝彦/小田幸子(発言順)

野田:東京芸術祭では、ベルリンのシャウビューネによる『暴力の歴史』が上演されました。演出はシャウビューネの芸術監督であるトーマス・オスターマイアー。フランス人作家エドゥアール・ルイの小説が原作です。私には、教育、収入格差、同性愛をめぐる差別観が、いかに何気ない形でわれわれの中に潜んでいるのかということを表現しているように見えました。

柴田:私は字幕翻訳調整ということもあり話の流れは知っていたのですが、知っていてもなお、見ていて毎回少しずつ新しい発見がありました。テーマの中心にあるのは同性愛や移民など社会にある偏見ですが、起きた事件やその前後の出来事が、登場人物の語りや映像によって示されることで、自分の中にある偏見というか偏向にも気づかされる舞台でした。起きたとされる出来事が冒頭とラストでかなり印象が違います。物々しい犯罪現場捜査の場面に始まり、レイプ直後の恐怖をパニック気味に語る主人公エドゥアール。一方で警察や姉が相手の男を犯罪者扱いすることに対し、彼はマイクを用いた独白で必死に抵抗していくのです。警察の公式調書に対しても、家族としての愛情を示そうとする姉が夫にする話に対しても、自分がそのときに感じたことと違うといい、舞台ではエドゥアールの視点から見た体験が再現されていきます。映像を交えた相手との関係はどこかロマンチックであり、相手役のレダはどんどん魅力的に映ってくる。演出のトーマス・オスターマイアーはこの舞台はナラティブの奪い合いを描いたのだとインタビューに答える形で語っています。語る言葉を奪うという暴力、それを生み出す土壌として個々人のもつ偏見、あるいは他者に対する無関心や無知がどう作用しているのかを示すことが、この舞台の大きなテーマだったのではないかと私は思っています。

野田:語り手のエドゥアールは、作家志望で大学に行っている青年。アルジェリア系の青年レダと出会い、パリの自宅でともに一夜を過ごした後、レイプをされるというのが、作品中語られる事件の流れです。エドゥアールは田舎の出身で、パリ在住。故郷の姉やその配偶者とは、文化的な隔たりを感じています。人種間のみならず、家庭内においても意識の在り方が違うということが前提になっています。そんなエドゥアールは、「アルジェリア系のならず者による犯罪」と決めつけようとする警察の事情聴取や、病院関係者の姿勢に反発します。

坂口:この作品は、作家のエドゥアール・ルイの同名の小説を元にしています。彼はこの作品の主人公のエドゥアールと同じように北フランスの貧しい家の生まれで、やはりエコール・ノルマル・シュペリウール等で社会学を学んでいます。実際にこの作品と同じようなレイプの暴力を受け、その体験を語るつらさや困難さを身にしみて経験していて、それが小説になったそうです。
 タイトルの『暴力の歴史』の「歴史」はイストワールで、「物語」でもあるわけです。先ほど柴田さんが指摘されたように、この作品ではナラティブつまり私の物語が搾取されます。私の体験の物語なのに、語るたびに搾取されてしまい、つまり勝手に解釈されて奪われてしまい、それがもうひとつの暴力になってしまう。田舎と都会、EUとアラブやアルジェリア、労働者階級とインテリ階級というようなふたつの社会の境目で、どちらかがどちらかのナラティブを搾取してそれが暴力になるような状況が今のフランスの日常的な場で起きている。そういう現実が強調された演出のように思えました。

野田:物語の所有権をめぐる争いと関連するのですが、映像の使い方も印象的でした。

小田:内容的には私は怖かったです。人間の孤独を強く感じました。
 映像の使い方ですが、随分早くから似たようなことを宮沢章夫がやっていたかなと思います。スマホでその場で撮って、その場で映し出す方法と、以前から撮っていた映像とを、うまく組み合わせていましたよね。その結果、現在と過去が同時に起こっているようだったり、現実とフィクションションが混在したり、カメラの角度も様々だったり。映像の使い方が洗練されてきたし、われわれ観客もそれに随分慣れてきたように感じます。
 あと、マイクの使い方かな。直接的ストーリー進行とは別に、マイクの奪い合いが同時進行していて、とても面白かったです。

野田:物語の所有権をめぐる争いが、このマイクの奪い合いより表現されていたのが印象的でしたね。

坂口:エドゥアールがお姉さんに語った体験をお姉さんが夫に話していて、それをエドゥアールが盗み聞きする、というシーンが幾度もあって、ときどきエドゥアールが、「それは違う、お姉さんは間違っている」とモノローグで訂正していきますね。

柴田:語りの違いを、スマホとかiPadの機能をうまく使って表現していましたね。盗み聞きをしているエドゥアールを写真に撮り、その静止画像が後ろのスクリーンに映って、盗み聞きをしているエドゥアールの図を大写しした上で、舞台なので、本人が舞台前に出てきたり、マイクを握ってしゃべったりと、立ち位置で工夫をして、どちらがナラティブを取るのかというのを見せている場面があったと思います。

野田:ライブフィード動画と録画をうまく組み合わせることで、どこまでが「撮って出し」しているのか、どこまでが編集された可能性があるのかについて、観客を混乱させる仕掛け。それに加えて、スマホという非常に小さな端末で撮った映像がライブフィードで映し出されるときに観客が意識せざるを得ない窃視感。この「のぞき見」の感覚と、大きな東京芸術劇場プレイハウスという大きな箱に響き渡るマイク音声とが相まって、観客として、この事件を出来合いの枠組みで消費してしまっているという事実をつけつけられているような気がしました。自分の体験をいかに語ったところで、こういう形でしか受け止められない時代なのかなという思いも抱きましたね。

坂口:エドゥアールの自分の体験が勝手に解釈されて別の物語にされてしまう一方で、舞台では、エドゥアールとレダのふたりの物語が進行していきます。それは、エドゥアールにとっての現実なのか、それとも本当に起きたことなのか、最初のうちははっきりしなかったのですが、次第にエドゥアールにとっての現実だということが強く感じられてきました。エドゥアールは、自分の物語を自分で受け止めるのも困難であったと思います。搾取されたにしてもお姉さんの語りに反発しながら、エドゥアール自身が自分の物語を受け止めていく過程が舞台で進行しているようにも見えました。本当につらい体験は、それが搾取だろうともほかの人に語り直してもらった話を聞くことで、ようやく自分でも受け止められるようになるという面もあるかもしれません。

柴田:この舞台は終幕近くのエドゥアールのセリフに、ハンナ・アーレントを引用する箇所があります。ペンタゴンの機密報告書への省察として「政治についての嘘」を扱った箇所で、事実の意識的な否定である嘘をつく能力と、現実を変革する力である行動する能力は、想像力という同じ源泉があって初めて存在する。世界を変える自由、新しい何かを始める自由があるという。本当に起きたことは私たちには藪の中で分からないのですが、だんだんとエドゥアールの感じた現実が舞台を占めていくのと、その最後のハンナ・アーレントの言葉がリンクしていくのというのはとても意図的で、最後にエドゥアールが寝転がってピースサインをするような少しやり過ぎ感のあるおちゃめな演出になっています。冒頭と同様、捜査官が指紋や血痕を捜査している緊迫した場面ですが、この最後の場面は主人公が原作の書き手であるエドゥアール・ルイに重なっていくようで、自分の体験した現実を奪還しようとして、ある程度成功をしたかのような終わり方になっています。ある種の暴力を受けたということは変わらないけれども、自分を取り戻すためにはそれが必要だったみたいな形に見えてくるような……。

坂口:確か、それが救いだったと言っていましたね。

野田:ただ、この作品を手放しで称賛したくない自分もいるんですよ。事件自体はシンプルです。同性愛者であるエドゥアールが行きずりの相手と一夜を過ごす。アルジェリア系の肌の浅黒いレダが帰ろうとする時、エデュアールは自分のスマホとiPadがなくなっていることに気づく。エドゥアールは、相手の気分を害さないように、取ったものを返してくれと哀願する。しかし、結局「俺のことを疑っているのか」と激高したレダに屈辱的な形でレイプされてしまう。「これは最初に言えなかったけれども」という形でエドゥアールが最後に回想をするのは、自分をレイプしたレダの美しい背中が、朝の光に照らされていて輝いていたという光景です。ひどい事件であることには変わりがない。しかしその体験を、よくある「移民による犯罪」という形で片づけてしまおうとする周りに、エドゥアールは抵抗する。もしかしたら、また西ヨーロッパ中産階級による《良心探し》に付き合わされているのかなという気がしないわけでもない。それがいまひとつ手放しでこの作品を私が絶賛できないというところなのです。エドゥアール自体は中産階級の出ではない、むしろ田舎出の青年なのですが、彼が姉に向ける態度にはどこかパリジャンを気取るインテリ青年のにおいまでします。そこら辺に関して、もやもや感が私の中に残っています。

坂口:確かにインテリで少し気の弱そうなエドゥアールが、アーレントの一節を引用するのもイヤミな感じがしないでもないですが、でもそれが救いになったというのは、けっこう強い意味があると思います。アーレントの先ほどの引用は、新しいことを始めることができるためには、今の状態とは異なる状態を想像できることが必要条件だ、というような意味で、そういう想像力の働きの代表が嘘であるわけです。今のこの辛い状況と異なる状況もあるかもしれないと想像しようとすることが、救いになったのだと思います。もちろんエドゥアールもかなり迷って悩んでいるのでしょうが。
 その迷いは、暴力そのものにも向かいます。終わりの方でエドゥアールは加害者であるはずのレダを幾度かかばいます。病院や警察やお姉さんでさえも、レダに対してあまりにも理不尽な暴力で対処しようとしているのが見えてきたからです。暴力を暴力で押さえ込んでいいのだろうかと逡巡します。自分は暴力を受けているわけで、そういう迷いが自分の受けた暴力の質も変えていくのでしょう。だから、暴力といっても単純ではなくて、暴力がある意味で溶解していく物語にも思えました。加害者のレダでさえも、確信犯というわけではなくて、幾度も躊躇して、ピストルを突きつけたかと思うと謝ったり、自分の行為に戸惑っています。もしかしたらアラブ世界では同性愛が抑圧されていることと関係しているのかもしれません。

野田:この場合、ベルベル人の性をめぐるコードですよね。

坂口:あ、そうでした、「レダはアラブではなくてカビールだ」と、エドゥアールが幾度も言っていましたね。レダの両親はアルジェリア移民で、ベルベル人の一部のカビールですから、アラブとは別ですが、やはりホモフォビア的な社会に住んでいるのでしょう。そうした社会の抑圧が、レダのためらいを生んでいるのかもしれません。

柴田:ルイにとっての暴力は、レダの受ける暴力よりも公権力が自分の言葉を奪っていく暴力のほうがひどいみたいな言い方を劇中でしていますよね。絞殺されそうになっている場面でも「最初は怖くなかった」と、本気ではなくただ自分と同じように荒っぽく育てられたのだろうと、とそういう……。

野田:多分、プレイの一つだったのでしょうね。

坂口:そうでしょうか。

野田:僕はそういうふうに受け取りましたけれども。

柴田:姉のクララが「弟は怖くならないことを学び過ぎた」とナレーションのようにはいりますよね。たたかれるとか首を絞められるとかといった痛みの暴力よりも、言葉を、ナラティブを奪う暴力のひどさを訴えることにつながる、少し印象的で大事な場面だったと思います。

坂口:エドゥアールがだんだんと変わっていったのでしょう。自分の受けた暴力の話をしているうちに、お姉さんや病院や警察が解釈したり実行しようとしている暴力の質が、自分が受けたものとはまったく違うのではないかと思い始めていきますね。

野田:いろいろな割り切れなさが私の中では残ったままではあるのですが、それでも良い作品だったとは思います。どうもありがとうございました。

 

(2019年11月10日@明治大学和泉キャンパス研究棟共同研究室1)