『レ・ミゼラブル』と『エリザベート』--頼むべきは神か自分か/天野道映
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時間は円環する
『エリザベート』には不思議な時間が流れている。時間は『レ・ミゼラブル』のように直線的に進むのではなく、メリーゴーラウンドのように円環している。暗殺者ルキーニは犯行現場で逮捕され、その後監獄のなかで首を吊って自殺した。その魂が煉獄で裁判にかけられている。幕が開き照明が入ると、彼は首からロープをはずして平舞台に跳び降りる。裁判官の声が虚空に響く。「何故エリザベートを殺したのだ」。ルキーニは「皇后本人が望んだんだ」と主張し、そのことを立証するために、皇后と王宮の人びとをハプスブルク家の霊廟から目覚めさせ、さらにトートまで呼び出して、「死と人間の愛」のゆくたてを語り始める。彼はこの不思議な愛を成就させるためにトート(すなわち皇后本人)に頼まれて、鋭いヤスリで皇后の心蔵を刺した。これが彼の言い分である。
ルキーニはその場で逮捕され、監獄に放り込まれ、ロープで首を吊る。その夜の公演はこれで終了する。翌日の幕が開き照明が入ると、ルキーニはロープを首からはずして舞台に跳び降り、同じことが繰り返される。
毎晩同じ質問ばかり100年間も。俺はとっくに死んだんだ。
ルキーニはうんざりしてこう叫ぶ。煉獄の裁判は事件から100年たった今夜もまだ続いている。するとこれは過去の話ではなく、現在進行中の物語であり、ルキーニやエリザベートは観客と同時代人ということになる。同時にそれはその後の歴史とはまったく関係なく、時間はある時点を動かず、同じところでただぐるぐると回り続けている。東宝版は原作どおりの運びである。人びとはループする時間から逃れられない。
宝塚版の終幕は次のようになる。エリザベートはテロリストの凶刃に倒れた後、トートと2人舞台中央に置かれた大道具のプレートに乗り、天空に去って行く。時間は公演ごとに完結する。同じ小池修一郎が演出を担当しながら、2つのバージョンで異なるのは、宝塚版が男役中心主義というメソッドに拠っているからである。原作は女役エリザベートを主役にするので、男役トートを主人公に潤色する必要があった。そのためにエリザベートが自分の心に忍び寄る死に気付く以前に、観客の前にトートを登場させて、あたかも彼女に先立って存在する白馬(黒馬?)の王子様であるかのようにした。エリザベートは王子様と相擁して永遠の世界に旅立つ。
これは原作の歪曲であろうか? そうではない。なぜならエリザベートとトートは同じ人物だからである。ドイツ人の論理性はびくともしない。全ては彼女の一人相撲だった。
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キリスト教の異端グノーシス主義
時間が円環するという思想は正統キリスト教の直線的時間観と違う。この作品の時間観はキリスト教の異端グノーシス主義を連想させる。エリザベートは精神病院訪問を好んだ。そこで「自分が皇后だ」と主張する患者に出会い、「魂の自由」 (Nichts, Nichts, Gar Nichts)を歌う。
私が本当にあなたならよかった
束縛されるのは体だけ
ああ あなたの魂は自由だわ
そうよ 自由
私が闘い続け手に入れたものは 何?
孤独だけよ
正統キリスト教の一元論的思想は、人間をこのように体と魂に分けて考えない。グノーシス主義は二元論の立場に立ち、善なる神(光)に対して、悪(闇)もまた初めから存在し、人間は悪によって造られたとする。そのとき神はその体にそっと光(魂)を入れておいた。人間は死ぬと体は元の土に戻る。だが魂は神の元に戻るのではなく、次の体に閉じ込められる。
魂はこうして輪廻のなかを迷い続ける。時間は直線的に進まず、メリーゴーラウンドのようにぐるぐる回って、人はそこから逃れられない。ただ、そのことを神の啓示によって、グノーシス(ギリシャ語で「認識」)する者の魂のみが神の元に帰ることができる[2]。
ドラマの時間がループするのは、エリザベートの異端的思想の反映かと考えられる。「私だけに」と「魂の自由」の絶唱は、自分を頼む者の矜持と、しかしそれが孤独以外の何物ももたらさないことの証しである。
エリザベートはジャン・バルジャンのように、神の前に「個」として立つのではなく、神の死んだ時代に「私」(Ich)の前に立ちつくしている。そのIchが分裂している。やがて第一次世界大戦に向かって崩壊していくハプスブルク家そのままに。
[2] グノーシス主義と宝塚歌劇の関係については次のサイトを参照。:天野道映「宝塚プレシャス 男役の変貌~荻田浩一論」