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  2018年の京都エクスペリメント(京都国際舞台芸術祭)の公式プログラムは、「女性アーティストあるいは女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループ」にフォーカスした構成であった。「プログラムディレクター橋本裕介とスタッフ一同」と署名のはいったディレクターズノートには、こうしたプログラムを採用した理由として「人間の身体は、年齢や人種、障害の有無など、さまざまな指標によって差異化されるが、もっとも基本的なのは性別」だと考え、「〈他者としての女性〉というアイデアを通じ」、「男性対女性/中心対周縁という、西洋近代に生まれたパースペクティブ(遠近法)」に疑義を差し挟むことで得られる世界観を提示することが書かれている(1) 。「女性性をアイデンティティの核とする」ことで共有する問いとは、単にアーティストの性自認が〈女性〉であるとか、グループ内で女性が多数派であるといった表現主体に焦点を当てることではない。女性性をアイデンティティの核に据えるとはどんなことか、それによって何が起こるかを、観客も交えてそれぞれの立場で考えることである。

 人間の身体には読み取られるたくさんの指標(インデックス)が付与されている。老若の境や障害における〈正常〉と〈異常〉の境などは、厳密な線引きはできないにも関わらず、医療や社会保険など実生活ではその〈区別〉は実効力をもつ。人種概念もしかりだろう。こうした〈区別〉は、あるモデルが身体にあてはめられたものであり、モデルとなったイメージの指標が身体を差異化する。生得としてあると考えられる〈性〉も実はそのようなものとしてある。生物学的性別(セックス)と社会的・心理的性別(ジェンダー)とを分ける考え方は今日ではそれ自体が議論の対象となっているが (2)、本稿ではひとまずその議論はおいておこう。性は単なるイメージではない。身体に基づく、身体に投影されたイメージであり、性差は社会的にも主観的にも構造化され、その身体をもつ個人に対して作用する。本稿では、演劇の教育的側面を意識して活動しているShe She Popの舞台を通して、こうした〈性〉とイメージについて考えてみたいと思う。

She She Popにおける演劇教育

 1990年代に女性パフォーマンス集団としてドイツ・ギーセン大学の応用演劇学科で旗揚げされたShe She Popは、まさに「女性性をアイデンティティの核とする」グループである。男性中心主義の演劇界に対するオルタナティブな演劇を活動の指針に掲げ、今日でも女性が多数を占める集団構成員によって、個々の実経験を素材にし〈ヒエラルキーのない関係性〉での集団創作を続けている。家父長制社会における〈男性性〉が〈中心〉や〈ヒエラルキー〉を生み出すものだとすれば、彼等の集団創作の核になるのは、そうした〈中心〉や〈ヒエラルキー〉をいかにして無効化して作品制作をなすかという問題意識である(3) 。神奈川芸術劇場での『テスタメント』(2011)の後、京都エクスペリメントでは『シュプラーデン(引き出し)』(2013)、『春の祭典』(2014)に続き、3度目の参加になる。本作では、講師が演台で話す形式をとりつつ、客体として〈他者〉を眼差す視線のあり方や〈男性〉と〈女性〉という性別のカテゴリーを形作るものを可視化してみせ、啓蒙とは異なる教育劇に展開してみせた。

「羞恥心」と性

 舞台中央に大きなスクリーンが2枚。その他には演台とベンチとマイクスタンドがあるだけのほぼ裸舞台である。レクチャーパフォーマンスのように、まず問題となる性のタブーが列挙され、教室での教師と生徒の役割を演じる講師陣として、She She Popのメンバーの他10代も含む男女の俳優が紹介される。教材となるテクストは思春期の性に悩む19世紀末の少年少女を描いたフランク・ヴェデキントの戯曲『春のめざめ』と、官能小説としてベストセラーになったE・L・ジェイムズの『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey)』である。本公演『フィフティ・グレード・オブ・シェイム(50 Grades of Shame)』はこの官能小説タイトルからのもじりだが、「羞恥心の50の段階」と訳せるこのタイトルは同時に、性に男性と女性の境界があるのではなく、染色体レベルでも様々な段階がある「性のグラデーション」(4) も想起させる。

 レッスン1では『春のめざめ』1幕1場より、周囲の子より発育のよい娘ヴェントラと母親との年頃に見合った服装のやりとりの場面が取り上げられ、問題は服装ではなく、身体であることが示される。タイトルにもある「シェイム=羞恥心」が身体に取り込まれることによって、性の区別がさほど重視されない子供の身体から、男性性か女性性のいずれかの性を帯びた身体へと分別されるのである。「役割分担」(5) と題されたレッスン2ではヨハンナ・フライブルクが演台に立ち、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の登場人物、ハンサムでお金持ちで支配欲の強い青年企業家クリスチャン・グレイと女子大生アナスタシアとのバーでの出会いから関係を持つまでのやりとりを分析する。法服のような黒い衣装に身を包み、知的な眼鏡をかけて教師然としたヨハンナが、マッチョな男性グレイの行動とセリフを口にする。スクリーンには俳優陣の身体が合成された像が登場人物グレイとして大写しになる。自信にあふれた主導的立場にある男性としての役柄を示す、後ろ手に組んだ腕にはだけたシャツから発達した胸筋と腹筋を誇示する上半身。好戦的な性格を表すかのような、白いホットパンツからむき出しの足をのぞかせて赤いパンプスで一歩踏み出す姿勢をとる下半身。その上に奇妙に同居するのが演台に立つヨハンナの横顔である。これに対する女子大生アナスタシアには、ダボついた青いアウターに同色のぶかぶかのパンツ姿のゼバスティアン・バークの身体が提供される。後退した頭頂部やアウターからのぞく胸毛は女子大生らしさにはほど遠い。しかし、映像に映し出されたマッチョボディーのヨハンナの視線の先にポケットに手を突っ込んだ姿が置かれ、小説のセリフと共に舞台上に提示されることで、初心(うぶ)でかわいい女の子としてのアナスタシアの役割をこの身体像は引き受けることになる。性の妄想は身体への妄想であり、ここでの主役は、性的主導権を握るグレイのセリフとその性的魅力を誇示するマッチョな身体なのである。

Photo by Yoshikazu Inoue, courtesy of Kyoto Experiment.

異性愛規範のメッセージ

 レッスン3では『春のめざめ』1幕2場を用いて「男の性欲」の話題が扱われ、レッスン4「少女たち 喧々囂々」では同3場の子供ができたらと夢見る少女たちの言葉ひとつひとつを吟味するディスカッションとなる。女に生まれてよかったと思うのはなぜか、子供をピンクで着飾らせるのはなぜか、子供ができてはいけないのはなぜか、自分の子として持つのは男女どちらがいいか、なぜ女の子は退屈なのか等々。ディズニー映画の女性主人公の発言の少なさを指摘する研究結果をひき、女の子は「投影面」として自分を同定するから退屈だといった興味深いコメントもあるが、多くの答えは個人的な感想の域を出ない。しかしこれらの問いが『春のめざめ』が執筆されてから1世紀以上たった今日でも、〈女の子〉たちの間で繰り返されていることは、ある種の驚きを禁じ得まい。そして女に生まれてきてよかったと思うのは男性に愛されるから、という答えもお決まりのセリフである。男女の関係が100年たっても色あせない普遍的なものと言いたいのではない。男の子たちの会話に現れる〈女の子〉と、女の子たちの会話で言及される〈男性〉はどちらも想念の産物である。100年以上前に書かれた性規範と性教育の問題を問うた戯曲から今日のベストセラー官能小説まで、自分の属さない性に対する妄想が異性愛規範の中で脈々と受け継がれているのである。

身体と性~そのキメラ的イメージ

 講義が進むにつれ、舞台上のスクリーンに投影される身体像は、舞台奥で個別に撮影された俳優たちの身体部位が様々に合成され、奇妙な性的妄想の絵柄となっていく。指の股までも性器に見えてくるのは、性的妄想のコードの貧困さゆえだろうか。舞台前面で黒衣を着用し端然とした居住まいの教師役俳優の頭部が、めちゃくちゃな妄想を合体させた身体の上にのるとき、その表情までもが媚態を含むものに見えてくるのは錯覚なのだろうか。

Photo by Yoshikazu Inoue, courtesy of Kyoto Experiment.

 1970年代から女優として活躍するズザンネ・ショルが演台に立つレッスン7「真実と虚構」は示唆的である。ベテラン女優のズザンネは、舞台に提示されるのは登場人物の身体であると演劇学校で学び、これまで女優として己が羞恥心を克服してきたが、確信がもてなくなったと言う。ここに裸でいるのはズザンネだから、と指すスクリーンに映るのは、ズボンを下ろして男性器を露出させた身体をもつ〈ズザンネ〉の姿である。これは何を意味するのだろうか。

 たくさんの裸体が、部分で切り取られ、重なり合ってスクリーンに投影される。映像に映し出される像には男女の区別もなければ、個の区別もない、性的妄想の産物である。個の境界がゆらぐような合成された身体は、あたかも関係性を映し出しているようである。客席で舞台を見ている観客には、映像の中の身体が個々の俳優の部分を集めたものであることは明らかで、舞台上のひとりひとりの動きは滑稽ではあってもエロティックには見えない。これらをエロティックなものに見せるのは、そこで交わされる性的なテクストからの妄想を登場人物として合体した像に適用する観る側の性的規範にすぎない。しかしながらこの合体した像はイメージの産物にも拘わらず、その妄想的身体を投影される〈存在〉が実体としてあるように感じられる。そしてその〈存在〉を代表するのは、どうも頭部のように思えてくるのである。

メディアによる性教育

Photo by Yoshikazu Inoue, courtesy of Kyoto Experiment.

 しかし頭部が全体を代表すると考える見方は、16歳のゼラル・イェシルユルトが黒く口の部分を塗り、そこに大人の俳優たちの口が投影される場面でかく乱される。その口から発せられるセックスのハウツーものは、滑稽を通り越し不気味ですらある。勝手に語る口を、顔の持ち主であるゼラルは、劇中のゼラルのセリフにあるように、ただ「聞いている」。今日の大人たちによる性の学びの場のあり方を揶揄するような場面だが、ことは日本でも同様だろう。性交の際にどのように感じるのか、どのような声を出すのが〈正解〉かといった性に関する知識を、多くのティーンテージャーは教室ではなく、女性誌や男性誌のような性の現状ないし妄想を追認するメディアで学ぶのだ。  

 生殖の仕方やセックスの仕方を学ぶのだけが性教育ではない。この舞台で問題化されているのは、こうした限定的な性の教育のあり方そのものである。客体ないし〈他者〉として女性あるいは男性を眼差すときに見えてくるものは、男女という二項対立の再生産に過ぎない。She She Popの舞台は、性自認のあり方や、性の妄想がどれほど多様性に満ちたもので、かつ深く社会的規範やコードに根差したものであるかを、集団的想像力の発露として示す。スクリーンに映る身体像は、今日まで二分法でとらえることで続いてきた性の規範を別の角度から見る視座を与えてくれるのである。

 しかしながら、男女の二元論的な性規範から抜け出すのは、思った以上に難しいこともこの舞台は教える。複数の声による様々な性の妄想は、単純化された役割分担のある官能小説よりも難解で、かつ〈共感〉できる部分が少ない。ライオンの頭に山羊の胴体、毒蛇のしっぽをもつ神話上の怪物キマイラは異質なものの合成の表象であり、本作ではそれが性のイメージ形成として視覚的に利用されていた。筆者はこれを構築的な性のあり方のイメージを可視化したものと捉えたが、これは舞台を分析した結果にすぎず、こうした怪物的身体に自己同定することは感情的には難しい。憧憬を生むスターの身体像、共感を生むアイドルの身体像があるとすれば、これは共感を拒む「棄却(アブジェクション)」(6) の身体像としてある。男女の性規範イメージに収まらないもの、淫靡なもの、奇形なものとして、アイデンティティの外に追いやられる身体イメージとしても機能しうる。イメージをどのように自分と結びつけるかは、個々人が内面化している制度と不可分なのである。

「死の舞踏」に何をみるか

 最後の、あるいは最期のレッスンとして骸骨の頭をした身体が踊り叫ぶ「死の舞踏」の場面では、様々な性の、そして生の可能性が「今こそ!(Und jetzt!)」という言葉と共に叫ばれる。中世ヨーロッパの絵画や寓話のモチーフに始まる「死の舞踏」は、身分や貧富の差は死の前では無に帰すという死の普遍性を表す。さしずめこの場面は、我々が意識する性差などは死を前にすれば無に等しいというメッセージだろうか。残念ながら筆者の観劇した回は、字幕操作がずれ、生声の俳優のセリフはよく聞き取れずで、具体的にどんなメッセージを発していたのかは、事後的に古後奈緒子氏の字幕翻訳台本によって知ることになった。その最後の字幕部分を以下に引用しておこう。

  誰かが言った:
  いつか驚くだろう 思い出して笑うだろう
  性の真実を見いだそうと考えてたことを
  地球や星座について探されたような 奥深い真実を
  セクシャリティを夜から切り離そうと
  躍起になっていたことに
  驚くことになるかも知れない (古後奈緒子訳)  

 上記の引用から読み取れるのは、性はイメージの集合体に過ぎず、そこには個々の現象や表象はあっても〈性の真実〉などはないというメッセージである。それゆえ、She She Popの舞台は、性の多様性だけでなく、性というものが一つのイメージであること、しかしながらそれが身体という存在と結びつけられた時の様々な課題をケーススタディとして示したといえよう。  

 もっとも、舞台上での映像と俳優陣が乱舞するシーンは、こうした言葉だけでない何かを伝えようとしているように筆者には思えた。それは冒頭の性のタブーの場面との関係である。

アイデンティティの核としての〈性〉  

 本稿は舞台を見て、すぐに書きたいと思ったにもかかわらず、脱稿までかなりの時間を有しただけでなく、編集部での理解を得るために改稿を重ねることになった。東西ドイツ統一後のフェミニズム理論やジェンダー研究を踏まえた解釈を示せば、もう少しわかりやすかったのかもしれない。だが、この舞台の面白さはそうした理論的な背景というよりは、そうした理論を抜きにしても伝わる(はずの!)何かなのだ。

 今回の舞台では、その性のあり方を議論するケーススタディが興味深い。それはやはり〈女性〉であることで得た経験値を共感材料にできるからである。〈女性〉を意識することは、裏方に回ること、補佐役に徹すること、でしゃばらないこと、相手の話を聞く投影面になることなど、他者の要求に対し敏感になることであると考える自分がいる。一方で、幼い者の言葉足らずの欲求に対して敏感になれた成功体験も自分の中にある。〈女性性〉とひとくくりにできるアイデンティティなどは自分の中にはなく、多くの役割別に規範も振舞いのコードも異なるたくさんの〈女性性〉が混在し、役割によっては〈男性性〉モデルを借りる必要があると考える部分すらある。分裂を誘発するのは、様々なモデルにおけるタブーとの関係である。そしてまた、ひとまず〈女性〉というあいまいなイメージに自己を同定することで、分裂した自己をひとつのものとして考える基盤をつくるのにも、性にまつわるタブーが関係している。いわば、映像に映るキメラ的身体を他者の視線で形作られた自己像として一度受け入れ、それを外からみるような奇妙な体験なのである。

 She She Popの舞台の魅力は、演劇は教育に資するという考えが下敷きにありながらもそれが啓蒙的なものではなく、ヒエラルキーのない関係性を模索しながら集団創作することにあり、ここには観客も含まれるゆえオープンな結末になっていることも含まれると筆者は考えている。京都エクスペリメントの共有したかった問いとは、〈女性性〉に着目することで、旧来の〈区別〉と言う言葉で不可視化されていたヒエラルキーを可視化し、かつそうした〈区別〉とは異なる視座をいかに持ちうるかを共に考えようとするものだったのではないだろうか。少なくともShe She Popの舞台は、様々なイメージの寄せ集めのキメラ的身体を提示することで、そこから自由になる方法を一緒に模索しないかと誘っているように感じ、つかのま勇気づけられたのである。

 2018年10月24-25日 京都府立府民ホール“アルティ” 

 2018年10月24日観劇

 

(1) 橋本裕介「ディレクターズノート」『京都国際舞台芸術祭2018p.6-7https://kyoto-ex.jp/home/features/directors-note-2018/

(2) 仲正昌樹編『ヨーロッパ・ジェンダー研究の現在』御茶の水書房、2001年。

(3) Ilia Papatheodorou, „Wir sind niemand. Ersetzbarsein im Kollektiv“, pp.46-51. In: Johannes Birgfeld (Hg.), Sich fremd werden : Beiträge zu einer Poetik der Performance / She She Pop, Berlin : Alexander Verlag, 2018, pp. 43-74.

(4) 橋本秀雄『性のグラデーション』青弓社、2000年。

(5) 以下、舞台の引用は古後奈緒子氏による字幕用原稿による。

(6) ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』法政大学出版局、1984年。