『レ・ミゼラブル』と『エリザベート』--頼むべきは神か自分か/天野道映
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『エリザベート』の基本的構造
ミュンヘンのマクシミリアン公爵の次女エリザベートは16歳の若さで、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚して皇后になった。ジャン・バルジャンと踵を接する時代で、皇帝はフランスの「2月革命」と同じ1848年に即位して、この時23歳だった。エリザベートは感受性の豊かな詩人タイプなので、旧弊なハプスブルク家の雰囲気に耐えられない。その心にトート(ドイツ語で Tod =死)がそっと忍びこみ、彼女を黄泉の国へ誘う。トートは心理学的に言えば皇后の自殺願望である。主人公と異様なストーカーという基本的対立構造は『レ・ミゼラブル』と同じである。
しかしドラマは正反対の結末にいたる。『レ・ミゼラブル』では悪魔ジャベールが敗退して、ジャン・バルジャンは神の国へ迎えられる。『エリザベート』ではトートが勝利して、ヒロインを黄泉の世界へ連れ去る。この違いはどこから来るのか。ヒロインのナンバー「私だけに」(Ich gehör nur mir) がその鍵を握っている。
たとえ王家に嫁いだ身でも
命だけは預けはしない
私が命委ねるそれは 私だけに
私に!
エリザベートは新婚初夜の翌朝5時に皇太后ゾフィーに叩き起こされて、旧家の風習に従うようことを強要された時、2オクターブにわたるこのナンバーを渾身の力を込めて歌う。これは闘いの宣言である。
ジャン・バルジャンは神に対して我が身を捧げた。エリザベートは自分に捧げている。同じ19世紀に生きた2人の間にひとつの分水嶺がそびえている。それはドイツの哲学者ニーチェの「神は死んだ」(Gott ist todt! ― todt は tot の古い形)という思想である。皇后の前にもはや神は存在しない。彼女が信仰するのは「私だけ」である。エリザベートは独りで闘おうとする。王家の古い制度に対しても、忍び寄るトートに対しても。
皇后は第一の闘いには勝利する。宮廷を支配していたのは、まだ年若い皇帝ではなく、母親ゾフィーだった。しかし母=姑の権力は息子から来ているから、やがて嫁が夫を支配するようになると、姑は権力を失う。
第二のトートとの闘いはどうなったか。それを語るのは終幕である。エリザベートは姑が息子から見放された後、彼女に代わって権力を振るう気はまったくない。逆に宮廷を 離れ、女官たちを引き連れて、ヨーロッパ中を旅する。その間に皇太子ルドルフは、皇帝と対立して自殺し、彼女自身はスイスのレマン湖のほとりで、イタリア人ルイジ・ルキーニの凶刃に倒れた。ルキーニはジュネーブに潜んで、潰え去ったフランス「7月王政」の王位継承権を持つオルレアン公の命を狙っていたが、機会がなく、オーストリア皇后の動向を知り、目標を変えて襲撃した。
彼女は倒れ、ドレスを脱ぎ捨て白い下着姿になる。やはり白装のトートが現れ「愛のテーマ」(Der Schleier fällt)をデュエットする。
エリザベート
泣いた 笑った くじけ 求めた
空しい闘い敗れた日もある
エリザベート&トート
それでも私は(お前は)命ゆだねる
私(俺)だけに
デュエットの旋律は前半が『エリザベート』(ELISABETH)、ここに引用した後半は「私だけに」(Ich gehör nur mir) のリプライズである。トートとはヒロインの心に忍びこんだ自殺願望なので、「Ich gehör nur mir」(私は私だけに属する)という時、私 (Ich) とはエリザベートであり、同時にトートである。ドイツ人は何と論理的なのであろうか。すなわちエリザベートは第二の闘いにも勝ち、それはトートの勝利でもあった。原作の構成に忠実な東宝版と、小池修一郎が潤色を施した宝塚版との最大の違いはこの終幕の演出にある。