『レ・ミゼラブル』と『エリザベート』--頼むべきは神か自分か/天野道映
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ヨーロッパ文化の刻印
ミュージカルは社会を鏡のように映し出す。『レ・ミゼラブル』と『エリザベート』に、日本の観客がかくも魅せられるのはなぜか。
2つの作品はヨーロッパで生まれた。そこには日本のミュージカルではあまり見られない特徴がある。また同じ外国のミュージカルでも、ブロードウェーの作品とはかなり異なっている。それはアメリカの社会を反映して、人種問題を大きな主題に発展してきた。『レ・ミゼラブル』と『エリザベート』に日本の観客が見出すのは、「人が神の前に『個』として立つ」という視点である。そこに改めてヨーロッパ文化の刻印を見る面白さが、観客の心をとらえて放さない。
『レ・ミゼラブル』はフランスで生まれ、英国で育った。19世紀フランスの文豪ヴィクトル・ユゴー原作。アラン・ブーブリル脚本/クロード=ミッシェル・シェーンベルク音楽。1980年にパリで初演された。これを英国の名高いプロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが英語版に作り変えて、世界のミュージカル市場に送り出した。日本初演は、トレバー・ナン/ジョン・ケアード演出により帝国劇場で1987年に始まった。翻訳・酒井洋子/訳詞・岩谷時子(2013年からはローレンス・コナー/ジェームズ・パウエルによる演出版)。『エリザベート』は小池修一郎演出/訳詞により、まず宝塚歌劇で1996年、東宝制作の帝劇では2000年に日本初演された。
今年2019年は、『レ・ミゼラブル』が4~5月の帝劇公演を終え、6~9月にかけて名古屋、大阪、福岡、北海道を巡るツアーにはいっている。『エリザベート』は、エリザベート役に花總まり・愛希れいか、トート役に井上芳雄・古川雄大のダブルキャストで、8月26日まで帝劇で上演されている。宝塚版『エリザベート』については、2016年にこのサイトの公演評で述べた[1]。今回は2つの作品を「神と人間」という共通の視点において考えてみたい。
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『レ・ミゼラブル』の基本的構造
『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、妹の子を飢え死にから救うため、1かけらのパンを盗んだため、19年間牢獄につながれた。仮釈放後もまともな職につけない。自暴自棄になって日々を送る内にミリエル司教から銀の食器と燭台を与えられ、心を入れ替えて正しい道を歩み始める。いったんはジャン・バルジャンを仮釈放したジャベール警部は、その後バルジャンが警察と連絡を取らずに姿をくらましたので、脱獄囚としてどこまでも追いかけてくる。これがミュージカル『レ・ミゼラブル』の基本的な構造である。
バルジャンは苦難を重ねつつ神の国に至り、ジャベールは罪を犯したわけではなく、ただ職務に忠実なだけなのに、最後は地獄に堕ちる。どうして彼はそういう目に遭わなければならないのか? 英語版の制作者キャメロン・マッキントッシュがプロデュースして、ミュージカルをそのまま映画化したトム・フーパー監督『レ・ミゼラブル』(2012年)は、実写の強みを生かして、そこを鮮やかに描いている。舞台も映画も、バルジャンが苦役を強いられている場面から始まる。映画では、何百人もの徒刑囚が一隻の巨大な軍艦を幾条ものロープで、ドックに引き込んで行く。ジャベールはそそり立つドック側壁の天辺の高い所から囚人を見下ろしている。
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ジャベールはなぜ高い所にいるか?
ミリエル司教に救われたジャン・バルジャンは、モントルイユ・シュール・メールで事業に成功し、市長になった。そこへジャベールがパリの警察本部から赴任して、二人は再会する。バルジャンはすぐ気付くが、ジャベールは相手が名前を変えているので、半信半疑である。バルジャンは工場を捨て、死にゆく女工ファンテーヌの子コゼットを強欲な里親テナルディエ夫婦の手から救い出し、パリへ逃れる。10年後、成長したコゼットとバルジャンがパリの街角で、人びとに施しをしているところに、ジャベールが現われ、自分の姿を見て逃げ去った男の正体を見抜き、「星よ」(Stars) というナンバーを歌う。
さあ逃げてゆけ
闇の中、息ひそめ生きてゆけ
あいつとは、いつの日か対決する
星よ 主よ 命賭け
ぶち込むぞ、鉄格子
この星に誓う 俺は
映画版のジャベールは、場面は少し前後するが、やはり高い所にいてこのナンバーを歌う。向こうにノートルダム大聖堂の正面が見える。しかも彼は星空の下で、屋上の縁を歩いて行くので、片足ずつ踏み出す靴底の縦半分は宙に食み出し、見ていると高所恐怖症に襲われる。星は社会の暗闇を照らす警察官にたとえられている。その誇りの高さと、足元の危うさはコインの表と裏の関係にある。
ジャベールは彼の望む最後の「対決」を、思いどおりの形で制することができなかった。1832年6月、労働者・学生たちが、オルレアン朝ルイ=フィリップの「7月王政」を倒すべく、パリで蜂起した時のことである。ジャベールは街路に築かれたバリケードに警察のスパイとしてもぐりこんで、正体を見破られ処刑を待つ身になる。バルジャンは、コゼットが初めて恋した学生マリウスを見守るために、バリケードにやってきた。彼は縛られたジャベールを発見して、ひそかに逃がしてやり、軍隊との銃撃戦でバリケードが壊滅すると、瀕死の重傷を負ったマリウスを肩に担いで、下水道へ逃れる。下水道がセーヌ川に注ぐ出口にジャベールが待ち構えていた。しかし彼はバルジャンを捕縛しようとして手が動かない。徒刑囚に命を救われたことが法律による正義感と折り合いをつけられない。ジャベールは自己同一性の危機に見舞われて、セーヌ川に架かる橋の欄干に立つ。映画ではやはり靴底が縁から食み出している。そして彼はセーヌ川に身を投げる。
ジャベールはどこが間違っていたのか。それは傲慢さである。ジャベールは、満天の星のなかでも一際光り輝く宵の明星だった。この星「ルシファー」(ラテン語で「ルキフェル」)は、「光を帯びるもの」を意味し、そこから夜空にひときわ明るく輝く星の名前になった。さらにキリスト教がこの言葉を悪魔サタンに結びつける。すなわちやはり「光り輝くもの」としてルキフェルと呼ばれていた大天使が、増長して神の座を望んだために、地上に落とされてサタンになった。ルキフェルは悪魔サタンの別名になる。
この世のすべては神がつくった。宇宙も人間も時間も。悪魔さえも神の手で造られた。時間は終末にむかって直線的に進んで行く。これが正統キリスト教会の思想である。ジャベールは傲慢の罪によって高みから転落し、無償の愛に生きるバルジャンは地下水道から、神の元へ引き上げられる。ミュージカル『レ・ミゼラブル』の主題の明快さは正統キリスト教の明快さである。
[1] 単行本としては拙著『宝塚の快楽』(新書館、1997年)。