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 ラプラタ地域とは、一般的に南米ラプラタ川流域及び近郊国をさす。とりわけアルゼンチンとウルグアイは同川を挟んで隣国という関係にあり、言語文化的背景も似ていると言われているからだろうか、文化交流が盛んであるという印象を受ける。
 今回取り上げるのは、いずれもブエノスアイレスで観劇したもので、一つはウルグアイ出身の劇作家セルヒオ・ブランコの作品である。彼の作品は必ずといっていいほどアルゼンチンで上演される。スペイン語圏演劇研究者ホセ・ガルシア=バリエントスによれば、ブランコは、スペイン語圏の現代演劇において最も優れた劇作家のうちの一人である。古典を得意とし、特に神話をモチーフに作品を紡いできた。
 もう一つはアルゼンチンを代表する劇作家の一人ラファエル・スプレヘルブールの作品で、スペイン内戦末期の出来事を語りながら人類にとって進歩とは何かを問いかけることで、現代社会に向き合おうと試みている。
 ラプラタ地域の中心地ブエノスアイレスというコスモポリタン都市で、ラプラタ地域を代表する二人のテキストはどう立ち上がるのか、それがほんの少しでも伝われば幸いである。

『ナルキッソスの怒りLa ira de Narciso 』(セルヒオ・ブランコ作)

2018年3月15日(木)ティンブレ4劇場(ブエノスアイレス、アルゼンチン)にて観劇。

『ナルキッソスの怒り La ira de Narciso 』 作=セルヒオ・ブランコ、撮影=Leandro Otero

 フランスを拠点に活躍しているウルグアイ出身のセルヒオ・ブランコの作品。「神話と眼差し」をテーマに講演するために作者本人が実際に滞在したスロベニアの首都リュブリャナでの体験に基づいたオートフィクションで、作者の芸術論も編み込まれた非常に興味深い作品である。
 「みなさん、こんばんは。お越しいただき本当にありがとうございます。僕はヘラルド・オテロです。だから皆さんの目の前にいるのはセルヒオ・ブランコではありません。…できるだけ彼に似せるよう努力します。…セルヒオという登場人物になるため。…だからみなさんも僕が彼だと信じて欲しいんです。」これを俳優ヘラルド・オテロが自らの言葉として言っているのか、「俳優ヘラルド・オテロ」として演じているのか、最初の段階で観客はわからない。その現実と虚構の境界の曖昧さが絶妙で、一瞬のうちに観客は物語の世界へと入っていく。
 「俳優ヘラルド」はこの作品が創られた経緯について語り始める。ナルキッソスの神話(水面にみた自分に恋をし、憔悴して死んだといわれる美少年)に関する講演をするためにリュブリャナに滞在中の「セルヒオ」からのメールによると、新作を執筆中だという。「セルヒオ」からのメールが観客に披露されるやいなや、語り手は「セルヒオ」に成り代わっている。つまり、俳優ヘラルドは「俳優ヘラルド」をとおして「セルヒオ」を再現していく。観客にとってはストーリーテリングが続いているので、目の前にいるのは自然と「セルヒオ」と認識してしまっている。「セルヒオ」は講演の準備をする傍ら、現地の自然史博物館で目にしたマンモスの美しさに感銘をうけ、また現地で知り合った青年イゴールとの関係を深めていく過程を観客に語り始める。
 ある日、宿泊中の部屋に血痕を発見する。数日その部屋で過ごすうちに血痕に執着するようになった「セルヒオ」は、友人であるフランスの法医学者とスカイプで連絡を取りながらその部屋で起きたことの解明を試みる。血痕の飛び散り方から被害者が刃物で切り刻まれて殺されたのかが語られる。さらにはホテルの支配人、現地警察の元署長を説得し、バラバラ殺人事件の犠牲者が40歳くらいのフランス人男性であったことを突き止める。署長の証言は生々しく、想像するに耐え難い。キッチンウェアで有名なムーリネックスの電動ナイフを手に、「セルヒオ」は観客に向かって言う。「電動ナイフの音を想像してみてください。まず皮膚が切られ、神経、血管、動脈、筋…そして骨…。」そして、滞在最後の夜イゴールと乱交パーティーに行った後、二人は「セルヒオ」の部屋へ戻って来る。イゴールがシャワーを浴びている間、「セルヒオ」はイゴールのバッグの中にあった電動ナイフを発見してしまう。そして突然「セルヒオ」の首を締めはじめたイゴールが電動ナイフで彼を切り刻んでいき意識を失うまでの描写が「セルヒオ」によって語られる。
 「セルヒオ」の死を知らされた「俳優ヘラルド」は、遺灰を取りに行くため、リュブリャナへと向かう。火葬をすませた後、「セルヒオ」の遺品のなかにすでにプリントされた「このテクスト」を「俳優ヘラルド」は発見する。そして当初「セルヒオ」がつけたタイトル『マンモスの愛撫』を「俳優ヘラルド」は、作品の中で自らを死に至らしめた「セルヒオ」に鑑み『ナルキッソスの怒り』に変えるのだった。
 メビウスの輪のような作品をメビウスの輪のように演じきったヘラルド・オテロ。残虐な場面は、無駄な感情を入れないことで、素直に物語が観客に届けられる。軽さが含まれた淡々とした俳優の語りが優っているからであろう、その調節は俳優(ヘラルド・オテロ)にとっても演出家(コリーナ・フィオリージョ)にとっても至難の技であったに違いない。リアリズムを追求する演技や舞台であったならば、セックスシーンや殺人の描写は重々しく暴力的になりかねず、観客は不快感を覚えたであろう。抽象度の高いこのような舞台では、観客は必要以上に感情移入をすることを強いられず、自分の領域を侵されることもない。
 ブラックボックス型の劇場ティンブレ4は、ブエノスアイレスにおける代表的小劇場である。演目は曜日ごとにかわり、人気がでるとロングランとなり毎週同じ時間に数ヶ月間もしくは数年間同じ演目が置かれることとなる。したがって、凝った大掛かりな舞台装置、照明を設置することはできない。今回も、5cmほど床からあげられた舞台に置かれていたのは冷蔵庫に見立てた箱、机、椅子と舞台奥と下手側にかけられた小さなスクリーンが二枚で、ミニマリズムが徹底されていた。俳優ヘラルド・オテロは、自ら手持ちの小型プロジェクターで映像を映し出し、照明の操作ボード、レコードの操作、時にはスタンドタイプの灯体を動かしながら、1時間以上ひたすら物語を現前化する。まるで上演のオペレーションすべてを俳優にさせているかのようなフィオリージョの演出は非常に新鮮であった。また、途中台詞が全くないボクシングのようなムーブメントだけの場面は「セルヒオ」の夢の中であるようで、薄明かりのなか機敏にかつ力強く動くその身体が印象的であった。「俳優ヘラルド」は、ときにはイゴール、法医学者、警察官、ホテルの支配人のことばや振る舞いも再現する。その演じ分けは微かでありながら、それぞれの役へのフォーカスが明確で、観客は目の前にある身体が誰なのかを躊躇うことなく想像でき飽きることがない。あたかもそれが容易であるかのように演じるオテロには脱帽した。
 「セルヒオ」の講演内容も一筋縄ではないにもかかわらず、すんなりと心と頭に入ってくる。「物を書くとははるか昔から不死への挑戦であり、死を拒絶しようとする行為であります。詩人はみな死に対し非常に大きな恐れを抱いています。…ナルキッソスと同様、私たちは創り上げたものを、眼差しによって永遠なるものとし死に対抗しようとするのです。死に恐怖を抱いているのは詩人だけではなく、創造することに対峙する人たちも同じです。芸術の役割とはまさにほんの一瞬だけでも私たちがみな死ぬ運命にあることへの恐れを中断させることにあるのではないでしょうか、それが私たちを気高く人間らしくさせているのではないかと、私は思うのです。」
 ナルキッソスのように、登場人物「セルヒオ」は作品のなかで作者セルヒオ・ブランコによって亡き者にされる。しかし、作品とそれを演じる者が存在することで、「セルヒオ」は何度も生き返ることができ不滅となるのだ。

 

『意固地La terquedad』(ラファエル・スプレヘルブール作)

2018年3月18日(日)国立セルバンテス劇場にて観劇

『意固地 La terquedad』 作=ラファエル・スプレヘルブール、撮影=Mauricio Cáceres

 画家ヒエロニムス・ボスの作品『七つの大罪』をモチーフに作者が1996年から発表してきたシリーズの7作目の完結作。七つの大罪のうち「憤怒」に相当するタイトル名は聖書の次の一節に由来する。「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。(ローマ人への手紙第2章5節)」。
 本作品はドイツから「命を発明する (Leben erfinden)」というテーマ(サブタイトル「進歩について」が付されていた)で委託企画されたもので、2008年にフランクフルトとマンハイムでドイツ語版が初演された。自国アルゼンチンでの初演は2017年3月、この度私が観たのはその再演である。
 舞台はスペイン内戦末期のバレンシアの町トゥリース。反乱軍(フランコ側)を支持する警官ジャウマ・プランクは、新言語「カタック」の開発とその辞書の編集に没頭している。プランクは、その頑な振る舞いがゆえに、先妻を近くの地主に寝取られ、また不運にも数ヶ月前に内戦で息子を亡くしていた。全体主義的で簡素化された言語システムでエスペラントにも優る「カタック」は、世界の様々な問題の解決に役立つ人道的なものだと彼は信じている。
 その成果を視察すべくソ連から通訳ディミトリが派遣されてくる。プランクはディミトリに辞書の仕組みを解説する。それによれば、彼はインド・ヨーロッパ諸国の主要言語で使われる単語一つ一つを照合し、その共通要素から新言語カタックの単語を決めていくのだという。だが、恣意的に単語を決めるのではなく、病に伏している娘アルフォンサがせん妄状態のときに夢見る単語--神が未知のことばを娘に告げているとプランクは信じている--を記録しているのだという。さらにそれを数字に読み替え、CPU(単一言語全書暫定版の意)と呼ばれる辞書に整理し、カタック語の単語と関連付けた番号を入力することで、ほとんどの言語でそれを意味する単語が出力されるという仕組みだ。高額な金でCPUを買い上げ、祖国の科学技術への投資政策に貢献しようとするディミトリ。
 丁度その時、戦死直前に書かれた息子からの手紙をプランクは受け取る。死者のことばを受け取ったことで、自分が考えていた進歩的ヴィジョンは何も役に立たず、さらには「時間は前進するのではなく循環するもの」と彼は悟る。ディミトリ、アルフォンサらは気のふれたフランス人女中に次々と銃で殺されていく。上手くスペイン語が話せないがため、誰も彼女が狂人であったことに気づかなかったのだ。プランクの腕を弾がかすめるものの、弾切れで彼は命拾いをする。そして、途方にくれる二人の背後には冬の残照がさしていた。
 作品は3幕構成で、ある日の午後17時から1時間あまりの間に起こるプランク家で錯綜する様々な出来事が、それぞれの幕で異なる視点から展開される。回転舞台が使われ、第一幕はリビング、第二幕は二階にある寝室、第三幕はリビングの外にある庭園が主な舞台となる。つまり、誰かが第一幕で庭から家にはいるのであれば、第三幕ではその人物は庭から退場するということになり、すべてがシンクロしてなければならない。第一幕では舞台前方にあるリビングだけでなく奥の庭の様子が伺え、第三幕になるとようやく庭で何が起こっていたのかが明らかになってくる。
 プランクの家全体に映し出されるプロジェクション・マッピングを使った映像は舞台の奥行きを広げるのみではなく、人物の重層的な心情や場面における新たな情報提供といった演劇的言語としての機能を大いに発揮している。そのおかげで観客は、悲壮感を伴ったおかしさなどを舞台全体からより効果的に受けとることができる。壮観で圧倒される大掛かりな舞台やそれぞれの幕との同時性も見事であったが、特に目を惹かれたのは、黄昏時の色合いや夜風に揺れるカーテンだった。演出も手がけた作者のディテールへのこだわりが伺える。
 リアリズムを追求しすぎず、時には不条理劇のように、時には軽快なコメディーのように臨機応変に緊張度を変えていく俳優たち。作者自身の演じるプランクをはじめ、神秘主義的な熱にうなされ、父プランクの辞書づくりに貢献する「病弱な娘アルフォンサ」、生身の人間なのか亡霊なのか最後までわからない「徳の高い娘フェルミーナ」、姉妹よりも若い継母のヌリア、色狂いの司祭、フランス人の女中など個性的な登場人物たち。一人でも欠けたら作品が成立しない。彼らの彷徨う言語的・哲学的迷宮にはユーモアが溢れ、突拍子もないギャグや言葉遊びで観客の心をつかむ。しかし、深淵には登場人物たちの悲しみや良心の呵責が流れ、それはかつて井戸に落ちて溺死したプランクの幼い娘レベッカの声なき声とともにメランコリックにそして密やかに舞台を包み込む。人類の進歩のため人道的な辞書の開発を大きく夢見るプランクの熱狂と対立するかたちで、「科学の進歩に人間は躍起となるのに、なぜ我々は倫理や精神面の向上を考えないのだろう」と、インタビューで繰り返し述べる作者の声が聞こえてくるようだ。
 スペインでは現在でも小説や映画で内戦やその後のフランコ政権時代をあつかう作品が創作され続けている。いくらスペイン文化に造詣が深いとはいえ、アルゼンチン出身のスプレヘルブールがスペイン内戦時の社会について、しかも直接的な戦いの場面も登場しない田舎のとある家での出来事を物語るということに私は興味を惹かれた。当時犠牲者となった詩人ロルカやマチャードへの言及からスペイン語圏の人々が共有する文化的憧憬を感じることができるのも本作品も魅力の一つだ。そしてプランクの開発をとおして描かれる人道主義として出現するファシズムの姿は、未だにフランコの亡霊に取り憑かれている現在のスペインのそれに重なるようである。終盤でプランク以外の主要な人物が次々と殺され悲劇的におわるとかと思いきや、プランクのように意固地にならず、お互いの違いや個性を尊重することができれば、世界にはまだ希望があるのかもしれないと感じとれる余韻の残る作品であった。