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SPAC『アンティゴネ』 手前左から、ハイモン[S](若菜大輔)、イスメネ[M](布施安寿香)、アンティゴネ[M](美加理)、ハイモン[M](大内米治)、クレオン[M](大高浩一) 撮影=新良太

 2017年7月。70年の歴史を誇るアヴィニョン演劇祭においてアジアの劇団が初めてオープニングを飾った――SPAC[静岡県舞台芸術センター]による『アンティゴネ』(構成・演出:宮城聰、作:ソポクレス、訳:柳沼重剛)である。初日から観客は総立ちとなり、拍手と足拍子が会場に鳴り響いた。フランスの各紙でも大きく報じられ、当日券を求める列は日に日に増えていった。『アンティゴネ』はアヴィニョン演劇祭において大成功を収めたのである。アジアの劇団、しかも日本語上演作品によるこの〈歴史的快挙〉はもう一つの〈快挙〉を成し得た。それはこれまでいくども論じられてきた問題――二人の兄のうち、一方の兄は国家の英雄として弔われたのに対して、もう一方の兄は逆賊として弔いを禁じられる。アンティゴネは、王命に逆らいその兄を弔ったために死ぬことになるが、果たしてアンティゴネ自身は弔われるのだろうか?――すなわち「誰がアンティゴネを弔うのか?」という問いに対して新たな地平を開いたことである。

■アヴィニョン法王庁の壁

 遡ること3年前の2014年、同演劇祭でSPACが『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を上演した「ブルボン石切り場」はその名の通りかつての採石場だが、今回の会場は石の巨大な集積物であるアヴィニョン法王庁である。「アヴィニョン歴史地区」として世界遺産にも登録されているこの一帯は法王庁をはじめとして、凹凸のある古い石畳や街を囲む城壁など、中世ヨーロッパの面影を色濃く残す。土や木でできた日本の中世都市に比べるとまるでここは石に憑かれた場所のようだ。この荘厳なゴシック建築の建物は「アヴィニョン捕囚」としても知られるフランス王の干渉により一時ローマから移設された法王庁であり、改修・増築の形跡から神の名のもとで欲望と権力をきわめた当時の繁栄ぶりがうかがえる。どれほどの石がどれほどの労力によって積み上げられたのだろうか。石の建造物と時間との関係について谷川渥は、「時間による構造的破壊が建造物に及ぶ場合、われわれはそれを「廃墟」と呼ぶ。構造的破壊が徹底的に尽くされれば建造物の跡形もなくなってしまうであろうから、廃墟が成立するためには建造物の素材が石のようなある程度破壊に抗しうる堅固な物質である必要がある。」(『形象と時間――クロノポリスの美学』白水社、1986年)と論じているが、これによればアヴィニョン法王庁も堅牢な石の建造物として、あらかじめ廃墟となる運命を背負っていたことになる。それはアンティゴネが生きながら閉じ込められた岩屋のように、生でありながら死を内包している場所、欲望と破壊の果てに亡霊の住処となる場所だ。そしてこの空間の内部である法王庁の中庭に特設舞台が組まれた。
 中庭の背景となるのは、経年変化による変色と規則性のない複数の小窓がその歴史を物語る、高さが30mにもおよぶ建物の壁である。上手の上部には大きな窓があり、かつて法王はその窓から下にいる民衆に懺悔を与えたという。この壁の存在感に対して、演出の宮城は枯山水の舞台をしつらえた(空間構成:木津潤平)。しかし壁面とはまるで異なる自然石風の大きな石を配置したその床面は、枯山水とは正反対に一面をくるぶし丈ほどの深さの水が覆う。
 客入れ時からこの水の舞台の上を数人の人物が行き来している。皆一様に、白一色の衣裳でガラス玉を持ち静かに移動している姿は、水により足先が見えないこともあり、幽体の彷徨を思わせる(衣裳デザイン:高橋佳代、ヘアメイク:梶田キョウコ)。この静寂の舞台に鉦と太鼓を打ち鳴らす一座(石井萠水、加藤幸夫、佐藤ゆず、大道無門優也、宮城嶋遥加、吉見亮)が現れる。彼らは水の中ではなく、水を張った装置の縁づたいに正面まで来ると、それぞれが登場人物になりながらフランス語で『アンティゴネ』のあらすじを面白おかしく説明する。一見、賑やかしにも見えるこのくだりは二つの効果を生み出している。一つめは、あらかじめストーリーを説明することで観客の意識を筋を追うことから切り離すこと。二つめは、観客2000人もの客入れによる会場の騒然とした雰囲気を笑いで集約し、その緩急の差により一気に静けさへと誘導することにある。説明を終えた一座は再び鉦と太鼓を鳴らし帰っていくが、縁の角を曲がった途端に静まり返りさっと水に入っていく。これにより観客のざわめきも水を打ったように静寂へと導かれるのである。
 気づくと水の上を移動する人の数が増えている。そこに筏を漕いで僧侶(貴島豪)が現れ、木の棒とカツラをある人々に渡していく。ここから来世での役割を与えられる輪廻転生のイメージを読み取ることもできるが、非世俗的な白い姿の人々に対して僧侶の袈裟姿は具象性を帯びているため、ある絶対的な存在による運命の配分という宗教性とは趣を異にしている。そして棒を渡された二人の男(三島景太、武石守正)が、何か不可思議なものを見るように棒を眺めたかと思うと、突然、叫び声とともに棒を交える。アンティゴネの二人の兄、ポリュネイケスとエテオクレスの相討ちによる死をわずかの呼吸の間に描くのだ。本作は、原作では語られるだけの二人の兄の争いと死を現出させることで、アンティゴネを死へといたらしめた端緒を明らかにする。『イナバとナバホの白兎』(2016年6月、フランス国立ケ・ブランリー美術館 クロード・レヴィ=ストロース劇場)のラストで、弓という武器が楽器に変化したように、木の棒を見る二人のとまどいの表情のその一瞥だけで、戦争と武器との因果関係が表現される。こうしてアンティゴネの死が家族間のもめごとではなく、その背景に戦争があることを可視化するのである。
 この場面では、さらに印象的なまなざしがある。兄たちの様子を不安げに見ているアンティゴネとイスメネのまなざしだ。戯曲上では〈過去〉の出来事である兄の死を、カツラを手に持った状態のいわば〈来世〉でアンティゴネとイスメネになる二人が見ているという構図を作り出すことによって、時計的な時間の流れとは異なる空間を作り出す。こうしてSPAC版『アンティゴネ』は〈壁〉があることによって多くの争いが続く〈現在〉に対する真摯な応答として、アヴィニョン70年の歴史の舞台に上がったのだ。

■二人一役と影

 カツラを付けた人々はそれぞれの役として『アンティゴネ』という出来事を引き受けて、アンティゴネとイスメネの姉妹は中央に積まれた石に身を隠し、クレオンは二人の兄が倒れる上手の石の上にいる。五人ともに石の上にいるが、この石は物理的にも物語的にも不安定な世界そのものといえる。なぜなら本作は、一つの役を動き手(ムーバー)と語り手(スピーカー)の二人によって演じる二人一役の方式を採っているなかで、ムーバーが演じるのは原則として石の上となるからである(一方、スピーカーとコロスは水の上にいて、さまざまに動きながらフォーメーションを変えていく)。
 ムーバー/スピーカーの二人一役方式は宮城聰の代名詞ともなっているが、実はク・ナウカ シアターカンパニーのときに生み出されたこの方式は、宮城が2007年にSPACの芸術総監督となって以降、部分的に使うことはあっても完全な二人一役方式を使った新作は前作『冬物語』(2016年2月、静岡芸術劇場)が初めてである(ちなみにク・ナウカでも2004年7月にギリシャのデルフィー古代競技場で『アンティゴネ』を上演しているが、今作はその再演ではない)。これまでの二人一役方式は、端的に言えば人物のとらえがたい複数性を表していた。だが、時間と海の隔たりを超えた再会を描く『冬物語』という作品を通じて、二人一役方式は人物の存在性のみならず時と距離という時間性を表現し得る方式として、さらなる深みへと変化しつつある。この『冬物語』なくして今回の『アンティゴネ』はない。『冬物語』での現実の地理にはないシェイクスピアによる想像の海が、『アンティゴネ』では実際の水となり悠久の時間と距離を表すことになったのだ。
 一方の兄エテオクレスは英雄として手厚く弔われたのに対して、逆賊として王命により弔うことを禁じられたもう一人の兄ポリュネイケス。その兄の弔いを自分の命を顧みずにただ一人で行うアンティゴネ。『アンティゴネ』という劇の難しさは、物語のクライマックスとなるはずのこのアンティゴネの行為とその結果の死の宣告が、劇の序盤のうちに行われてしまうことにある。その後は言ってみれば、被告アンティゴネを挟み裁判官にして検察のクレオンと弁護人たち(妹イスメネ、婚約者ハイモン、予言者テイレシアス)による対話劇が延々と続く。この困難な劇構造を逆手に取ったのが今回の二人一役方式による演出である。石の上で動きを制限されたムーバーの状態そのものが、登場人物たちの容易に身動きが取れない抗い難い社会的な立場や内面的な距離を見事に表すのだ。たとえば、最初のアンティゴネ(ムーバー(M):美加理、スピーカー(S):本多麻紀)とクレオン(M:大高浩一、S:阿部一徳)の対話で、禁令を破ったかと問いただすクレオンに対して、アンティゴネは「やったことを認めます。やってないとは申しません。」と答え、「王様のお触れと申しても、王様も所詮死すべき身の人間。/文字にこそ書かれてはいないが確固として揺るがぬ神々の掟に/優先するものではないと、そう考えたのです。」と明快に理由さえ述べる。クレオンが「余は憎む。悪事をはたらく者が、現場を押さえられるや今度は、/それを言い繕おうとするのを。」と返しても、「私をとらえて殺す、それだけでは不足でございますか。」と言い放つ――水を隔てた石の上にいる二人の交わらない距離感が、「神々の掟」と統治者の論理の平行線の関係を視覚的に示すと同時に、距離があるからこそクレオンに対峙するアンティゴネの言葉とまなざしの真直さが際立つのである。
 しかも二人一役とは、いわゆる人形劇のようにスピーカーの声に従ってムーバーが動くわけでも、ムーバーの身体に合わせてスピーカーが声を出すわけでもなく、ムーバーとスピーカーの二者の間で振動していくような関係性にある。『アンティゴネ』では、一方のクレオンは、ムーバーの独善的で端正な佇まいに朗々としたスピーカーの声、さらにその声に複数の男たちの声が重なることで統治者としての存在が表され、他方のアンティゴネは、ムーバーの無為自然とした姿とスピーカーの低く響く落ち着いた声が共振する。この二人一役の手法によって身体と声(言葉)が分かれることで、アンティゴネの行動理由を激情に見出すことも、クレオンを単なる暴君として君臨させることもなく、両者とも観客が納得できる立場表明をする。こうしてムーバー/スピーカーの二人一役方式により、ジャンヌ・ダルク的な歴史劇でも、オイディプス的な親族・家庭劇でもない、「私は憎しみあうようには生まれついておりません、愛し合うように生まれついているのです。」と真摯に言明する、当たり前の一人の人間としてのアンティゴネが描かれるのである。
 しかも今回はムーバーとスピーカーの分離のほかにもう一つの要素として影が加わる(照明デザイン:大迫浩二)。下から当てられたライトにより壁に映し出された巨大に伸びた影は、腕や指先の角度が元となる俳優と微妙にずれ、しかも何百年も日や風にさらされた壁の風合いと重なることで、影それぞれに異なる色調を与える。影は、神聖さと背徳、権力と暴力の歴史を刻む壁と混ざり合う、ムーバー/スピーカーに加わるもう一つの位相だ。かくしてスピーカーの言葉を受け取るムーバーの身体は、さらに壁の影に受け取られることになる。そのうえ壁に映し出されるフランス語の字幕は、観客には影を見ることとの視角的な差異がないため、観客は影から意味を読み取っているともいえよう。とすれば、壁はムーバーの身体とともにスピーカーの言葉も受け取ることになるのだ。しかも今回は非‐日本語圏の観客がほとんどであり、耳を通じて台詞から筋を追うことはあらかじめできない。そのためスピーカーの言葉は文法的な理解を超えた詩となり、観客はより純粋に声の響きそのものに耳を傾けることができるだろう。
 このムーバー、スピーカー、影、字幕という要素の共振は一人の人物のなかの運動性にとどまらず、照明の光を受けて鏡のごとく舞台上を映し出す水面に伝わり、空間全体を振動させていく。次にその源流となる音楽について考えたい。

中央:アンティゴネ[M](美加理)、右:クレオン[M](大高浩一) 撮影=新良太

■音と波動が伝えるもの

 SPAC版『アンティゴネ』では、コロスが共同体の代表であり劇の進行や登場人物の行動について意見するコーラスに加えて打楽器による生演奏も担うため、音楽もまたコロスの声の一つとなる(音楽:棚川寛子)。これまでも棚川は、打楽器の音がまるで目に見える粒となって舞台上を飛び交うような音楽を作り出してきたが、この水を基調とする舞台でその効果は最大限に発揮された。ガラス玉を持つ人々による静寂、争う兄弟の一瞬の水しぶき、弔いのためにかける水滴など、水から伝わってくる音はともすると音として認識されることもないが、棚川の音楽はこのような楽器以外の音の響きと調和する。その理由として、驚くべきことだが、棚川が楽譜を使わないということが挙げられる。つまり楽譜という形で音を音符に変換し、この変換したものを楽器によって音に還元するという記号化のプロセスを挟むことなく、つねに音楽が稽古場で俳優たちの身体とともに作り出されているため、水の音や人の声といった身体によって生み出される音と楽器の音が乖離することがないのだ。たとえばクレオンの登場シーンでは、低いドラムの音が強調されクレオンの堅固で揺るぎない性格に見合った音楽が流れるが、その音は俳優を照らす照明の発光と重なり、まるで音のベールが身体を包み込んでいるかのような感覚を与える。しかしそれは錯覚ではない、光も音もそれを伝えるのは波動であるからだ。この水の舞台では、身体も音も影も、あらゆる要素が〈波〉として漂っているのである。
 枯山水の装置をはじめ、この作品はある一面できわめて抽象的な印象を与える。しかしこの舞台が表すのは、抽象というよりもむしろ分解といえよう。身体、言葉、影、音、水、石、それぞれ異なる要素が粒子レベルに分解されながら、再結合されて新たな結晶を生み出していく――そのもっとも美しい場面の一つが、クレオンの息子にしてアンティゴネの婚約者であるハイモンがクレオンに処罰の再考を求める場面である。アンティゴネのいる石を挟んで対称に位置する二人だが、それまでほぼ石の上に立ったままであったクレオンとは対照的に、ハイモン(M=大内米冶、S=若菜大輔)は石の上を軽やかに跳ね、ついには水面の小石の上を跳び渡り、クレオンの立つ上手の石のところまで行く。一方、クレオンも戻るハイモンを追いかけて小石を跳ぶが、アンティゴネのいる中央の石までしか行けずに元へと戻る(クレオンの声は、これまで統治者として複数の声で表されていたが、この場面ではスピーカー単独の声とすることで対立と同時に親密さも表す)。SPAC版『アンティゴネ』のなかで唯一ムーバーによる大きなアクションが行われるこのシーンで、水の上のコロスたちは彼らの後方で弧を描くように一列に並ぶ。そして卵型のシェーカーを片手でシャカシャカと振ると、不思議なことに水面から光の粒が壁を這い上がり、壁に紋様が映し出される――まるで水から光が発生したような奇跡の瞬間が訪れる。この現象を物理的にひもとけば、シェーカーを振るコロスの腕の振動が身体を通じて水へと伝わり、水はその振動を受けて波紋となり、その波紋が照明の光によって反射して壁に映り紋様となったと一応は説明できる。しかしコロスは真っ直ぐ立っていて腕しか動かしておらず、水面も波立っては見えない。まして観客は水面が照明によって反射していることにも気づかない。壁に映る光の紋様は、変化やそのかかわりに気づかないものが、実は振動し合い変化し続けているということを示唆する。宮城の演出は、通常の認識では把握しきれない世界を粒子レベルまで分解して可視化することで、私たちが忘れてしまっていた知覚を思い起こさせる。舞台上で起こっているあらゆる波動が観客に伝わるからこそこのような感覚がもたらされる。プロジェクションマッピングでも壁に同様の光の紋様を作ることはできるかもしれないが、観客の感覚を身体を通して揺さぶることは映像技術では不可能だ。類まれな美しさをもってSPAC版『アンティゴネ』の共振が真骨頂に達した瞬間、観客の意識は劇場の語源である「観照(テオーリア)」に立ち戻るのである。

■彼岸と此岸の盆踊り

 ここで『アンティゴネ』という劇の主題である喪について考えるため、一度、アンティゴネが兄を弔う場面まで遡りたい。通常、「ポリュネイケスを/弔うべからず、哀悼の意を表すべからず、/死骸は埋葬せず放置せよ、野鳥野犬の食らうにまかせよ。」とされる兄ポリュネイケスに対する弔いの禁令のみが問題となる。それに対して本作では、実際に舞台上でクレオンに「弟エテオクレスはこの国のために戦い、討ち死にしたによって、手厚く葬り、/地下に眠る勇士らにふさわしい葬礼の儀を万端遺漏なく執り行」わせる。クレオンは、柄杓ですくった水を足元に倒れるエテオクレスにそそぎ、顔に白布をかける。これが二人の死により王となった統治者クレオンによる弔いの儀式である。一方で、中央の石の影でイスメネ(M:布施安寿香、S:榊原有美)に兄の弔いの協力を拒まれたアンティゴネは、一人で積み上げられた石の上にのぼり(イスメネも追いかけるが上ることができない)、その後のアンティゴネの居場所となるこの石の上でポリュネイケスの弔いを行う。アンティゴネは石にたまった水を両手ですくい下へと落とす。もちろんその水滴はクレオンの足元に倒れているポリュネイケスに直接は届かないが、ポリュネイケスは弔われ去って行く。クレオンの弔いが国家の儀礼に従ったものであるとすれば、アンティゴネのそれは個人の想いを表明した手ずからの弔いだ。アンティゴネとポリュネイケスを隔てる水は、間隔としてではなく弔いの水滴を伝える媒介となり、生から死への流れそのものとなるのである。水が示すのは、従来の『アンティゴネ』解釈にあるアンティゴネとクレオンの弔いの対立のその先、アンティゴネが「死ねば皆同じ。あの世に送ってあげるのです。」「[英雄の死と逆賊の死は違う]その分け隔てはあの世までは続きません。」という、分け隔てのない弔いの可能性なのだ。
 宮城の演出は、本作での弔いの中核に「盆踊り」を置く。法王庁の下見の際にこのモチーフが頭に浮かんだというが、ギリシア悲劇のコロスによる合唱は二人の歌い手による河内音頭となり、コロスたちはすっと一列に並んで踊り手となる。「イヤコラセー ドッコイセー」と合いの手は入れながらも、ゆっくりとした踊りは手拍子のしぐさはすれど音は立てず、水さえも揺らさずに、踊るほどに空間に静けさを呼び込む。このときも打楽器の生演奏が河内音頭に重なって流れているため、この世とあの世の二つの時間がそこに流れているような幽玄さを漂わせる。盆踊りがもともと死者を迎える盂蘭盆の行事であるならば、きっとこの踊り手たちに幽明の境はない。
 アヴィニョン演劇祭に先立ち駿府城公園で上演した際のパンフレットで、宮城は次のように語っている――「(前略)かつての日本人は人間を正邪の物差しで二つに分けることはできないと考えていて、それゆえひとたび死んでしまったら、その人の生前のおこないにかかわらず、すべての死者を「仏」と呼んでいた。このような人間観こそ今日の世界に必要なものではないだろうか? そして、アンティゴネが訴えたことはまさにこのことだったと言えるのではないか?」。キリスト教権力の最高府だった場所で、窓の高みから地上にいる人々に許しを与えるという絶対的な救済を行ったその窓の下で、宮城は念仏をもって一切衆生の救済を説く親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の思想を水平の盆踊りとして顕現する。盂蘭盆会に彼岸と此岸が限りなく近づくがごとく、石と石とを隔てているかに見えた水は盆踊りによって水という一つの地平となり、石はそのなかに等しくある存在となるのだ。「亡くなった人は弔って差し上げる。/それが神々の掟ではありませんか。」――アンティゴネのいう「神々の掟」とは、死者さえも統治しようとする国家本位の宗教儀礼に対する原理主義的なドグマではなく、人間が人間である限り避けられない死者への川の流れに壁を作らないことではないか。キリスト教のトポスにあえて仏教思想を持ち込むことで、従来の西洋思想に基づく『アンティゴネ』解釈では見えてこなかった〈アンティゴネ〉が法王庁の中庭に現れたのである。

左奥:歌うコロス(吉植荘一郎)、中央:アンティゴネ[M](美加理)、右:コロスによる盆踊り 撮影=新良太

■ヒロインから生身の身体へ

 1998年に原著が刊行されたジュディス・バトラーによる『アンティゴネの主張――問い直される親族関係』(竹村和子訳、青土社、2002年)は、当時のフェミニズムの文脈のなかで画期的な論であったが、バトラーが論じているのは近親相姦という血族のなかのアンティゴネであり(バトラーはアンティゴネとポリュネイケスの間に近親相姦的な愛情関係を読み解き、そこにアンティゴネの共同体に対する叛逆の可能性を示唆する)、その限りにおいてアンティゴネはオイディプスの娘(にして妹)というレッテルから逃れることはできない。『アンティゴネ』のなかでクレオンやコロスによって何度も言及されるオイディプス家の一員であることの因果はその作品解釈においても常につきまとい、アンティゴネという人物はオイディプスの娘であることを第一義として概念化されていく。しかし宮城は戯曲のオイディプス一族にかかわる台詞を大幅にカットして過去に起因する運命的な因縁の前景化を避けることで、アンティゴネをこの因縁から解放する。そして悲劇を運命づけられた血族の一員であるがゆえに国家の論理に一人で抵抗するヒロイン像から、生身の身体をもつ一人の人間としてとらえ直すのである。
 物語のあいだ、ポリュネイケスの弔いのために上った石から動くことがなかったアンティゴネにとって、この石がそのまま生きながら閉じこめられた岩屋となる。「祖国の人々よ、私を見て下さい、/最後の道を行く私を。もう二度と/見ることのない光、お日様の輝きを/これを最後と仰ぐ私を。/人を眠らす冥府の神が、私を生きながら/あの世の川の岸辺へと曳いてゆく。」―― 一人で死ななくてはならないこと、花嫁にもなれないことを語る台詞の内容は痛切だが、スピーカーの本多の語りは嘆きを超えて鎮静であり、その声を受けるムーバーの美加理の姿からは哀しみとともに慈愛がにじむ。ほとんど動くことができない高い石の上に立つアンティゴネの、指の先までも静謐な佇まいは菩薩にもマリアにも見え、しかも壁に映る彼女の影は上体や指のわずかな動きを増幅し、ある一瞬には十字架の形にさえなる。おそらくその姿と影から観客それぞれが自分の文化や信仰にある慈愛の形を見出すに違いない。今回のアンティゴネはおかしがたい霊気をまといつつも、肩をすぼめたりうつむいたりする一人の人間としての哀しみや弱さをその身に宿し、言葉通りその身体と声そのものの〈等身大〉の存在なのである。
 等身大のアンティゴネの人生には、オイディプスとの放浪や兄の弔い以外にも多くの時間が流れていただろう。テーバイに戻ってからのアンティゴネの暮らしを特異な想像力で描くアンリ・ボーショーの『アンチゴネ』(宮原庸太郎訳、書肆山田、2001年)は、彼女がその身体をして、どのように日々を生きていたかを考えるうえで大きな示唆を与えてくれる。ボーショーによるアンティゴネは貧しい人々のために繰り返し「わたしはわたしができること、ただひとりでできることをする、つまり物乞い」を行う。これは彼女がオイディプスとの旅のなかで身につけたものだ――「オイディプスとの放浪の旅の間に、わたしは早くから家から家への物乞いは止めていた。私は村の中心に立ち、長い叫び声をあげた。(中略)年月の経つにつれ最後には、わたしは多くのものを貰い受けた。この貧しいが絶えまない贈り物が、オイディプスを生に繋ぎ止めたのだ。求める、受けとる、求めることに確信を持ったからだ、その時物乞いするのは生きのびるためだけではなく、もはや孤独ではなくなるためだと気づいた」。この小説からはアンティゴネの物乞いの応答性と身体性が浮かび上がる。ここでの物乞いとは、応えてくれるかわからない状態のなかで相手の応答に賭ける行為であり、アンティゴネの身体はその意味で他者へと開かれているのだ。
 アンティゴネにとって他者が明確に存在することが、SPAC版『アンティゴネ』の画期的な点の一つである。宮城の演出はアンティゴネを孤独の枠に囲い込むことをせず、アンティゴネと他者の関係を細やかに描く。たとえば、アンティゴネが捕らえられると自分も共犯であると姉をかばう妹イスメネとの場面は、戯曲を読むだけならアンティゴネは弔いの協力を断った妹を最後まで許さないとも解釈できる。しかしこの舞台では、石の上と下より互いに伸ばした手の触れ合いから、アンティゴネの気持ちが妹に開かれていることが伝わってくる。終盤近くでは、語りの後で倒れる寸前のアンティゴネはハイモンへと手を伸ばし、ハイモンもまたその手に応えるように手を差し伸べるが、互いに石の上にいて到底触れ合うことはできない。しかしこの絶望的な距離の背後で二人の手を映す壁の影の指先が照明の操作により重なり合う――ここにいるのは概念化された存在ではなく、その身体をして他者とともに自分自身の時間を刻むアンティゴネなのだ。
 だが彼女が孤独でないと言いたいわけではない。そもそも感情や存在のあり方とは、拭えない孤独や葛藤と他者に対して開かれるということのどちらか一方に分けることなどできないだろう。そして一人の俳優によって演じられる一般的な言動一致の演技方式ではない二人一役方式でこそ、この表面的には相反する感情を分け隔てることなく〈等身大〉に表現することが可能となるのだ。ふたたびボーショーに引き付けて、アンティゴネの開かれた身体を〈乞う〉ものとするなら、それは求める行為ではあっても所有することとは相容れず、まして死や弔いや悲しみを欲望したり所有したりすることとは無縁である。さらに言えば、SPAC版のアンティゴネは自分自身の孤独さえも所有することはない。二人一役により自分(スピーカー)の声が自分(ムーバー)を鎮め、開かれた自分(ムーバー)の身体が自分(スピーカー)の声をいっそう深く広く響かせていく――このアンティゴネの身体と声をもって、アヴィニョン法王庁の中庭でアンティゴネの〈主張〉は〈祈り〉に変わるのである。

左:ハイモン[M](大内米治)、中央:アンティゴネ[M](美加理) 撮影=新良太

■弔うのは誰か?

 指先の影が重なった後、石の上に倒れるアンティゴネとハイモン。アンティゴネの死により自分の息子までもが死んだことを知ったクレオンは叫ぶ――「私の命を今すぐ終わらせてくれ、/あすという日を見ないで済むように!」。空間そのものを振動させるスピーカーの阿部の慟哭の声はある力強さの極致を示し、ムーバーの大高の身体は絶望によって生気を失う極限の脆さとなる。石の上に崩れ落ちながら宙に伸ばしたクレオンの影は法王庁の懺悔の窓に重なるが、クレオンがこの窓に求めたのは許しなのだろうか?
 ここでソポクレスの『アンティゴネ』は終わるが、SPAC版『アンティゴネ』ではここからコロスたちが大きな円を描く唄のない盆踊りが始まる。しばしの静寂の後、音楽が鳴りはじめ空間に活気を戻すが、演奏者たちは一人また一人と楽器から離れ盆踊りの輪に加わり次第にその音は静まっていく。そして倒れているハイモンやクレオンも、イスメネも、カツラを取ってその輪に入り、アンティゴネも石から降りてきて盆踊りの一員となる。ついには音楽もなくなった状態で全員がゆっくりと同じ動きで静かに踊り続ける。そこに僧侶がふたたび現れて水に灯籠を流し、灯籠のかすかなともしびだけが残る――。
 本作冒頭の一座で用いた、静から動への緩急により静けさへと誘導する手法を最後に繰り返すことで、静と動の連係は波の満ち引きのように空間に間断なく続く時間の流れを生み出す。ここでの時間は歴史のように一方向に流れるものではなく、波紋や盆踊りの輪が示す絶え間ない運動性と円環構造を持つものとなるのだ。この円環構造のなかで死者は、ムーバーもスピーカーもコロスも、アンティゴネもクレオンもハイモンもイスメネも、「死ねば皆同じ」に盆踊りの輪に溶け込む。輪のなかにはかつてポリュネイケスやエテオクレスであった人物の姿も見えるが、カツラを外し手に何も持たない彼らはすでにそれが誰であったかの遠い彼方にいる。
 本論も冒頭に戻り、「誰がアンティゴネを弔うのか?」という問いに迫ろう。すでに見てきたようにSPAC版『アンティゴネ』では、アンティゴネも彼女を死へと追い詰めたクレオンも同列に盆踊りの輪のなかで踊り、すでにその人物たちが〈誰か〉かは曖昧である。ではアンティゴネは誰によって弔われるのか?
 昨年話題となった國分功一郎の著書『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院、2017年)は、古典ギリシア語などに見られる中動態という態を通じて、意志や責任の所在について考察するものだが、依存症の人々との出会いから出発したという本書は身体と行為の関係において大きな示唆を与えてくれる。本書によると、能動態と受動態、つまり「する」「される」という動詞は意志を前景化し行為の帰属先(行為者)を問うが、中動態では行為者を指示することなく動作や出来事を表せるという。宮城の演出が今回の『アンティゴネ』で示したのは、まさしくこの行為者に帰属しない行為というものではないだろうか。クレオンがアンティゴネに問うたのは弔う行為が誰に帰属するのかということであり(そしてクレオンにとっては当然、統治者である自分に帰属するものである)、アンティゴネが答えるのは、弔うという行為に帰属先は不要であるということだ。なぜならアンティゴネの依拠する「神々の掟」は誰かに帰属できるものではないからだ。
 『アンティゴネ』という作品では、アンティゴネが禁令を破り弔いを行ったことに注目が集まるが、アンティゴネ自身の提起は〈誰が〉弔いを行うかにはなく、誰であれ〈弔われる〉べきだと説いているのではないか。この舞台でアンティゴネがポリュネイケスの弔いのためにその手にすくった水は、舞台に落ちて水面の水と混ざり合いポリュネイケスを弔う。アンティゴネからポリュネイケスへとそそがれる水は二人を直接結びつけず、水という媒介を通じ、しかもその媒介が弔いの水そのものとなるがゆえに、この兄の弔いという個別の行為が普遍の弔いとなる。弔うための水、それをすくう手、弔いの行われる場――これこそが行為者に帰属することのない弔いである。かくしてSPAC版『アンティゴネ』によって「誰がアンティゴネを弔うのか?」という問いそのものに潜む問題が明らかとなるのだ。弔われるのはアンティゴネだけでなく、クレオンもハイモンもイスメネも、すべての死者たちが等しく弔われ、そしてその弔いの行為は誰のものでもないのだから。
 現在、世界中で繰り広げられる暴力や復讐の連鎖は、言うなれば「する」と「される」間の往還構造の出口のなさによるものだろう。二人一役という自分自身を所有しない演劇手法によるSPAC版『アンティゴネ』は、盆踊りといういつでも誰でも出入りができる開かれた円環構造を示すことで、復讐が連鎖する世界に新たな視座を与える。国家、政党、イデオロギー、国境、宗教、血族など、多くの壁によって隔てられている今日、アヴィニョン法王庁の圧倒的な壁の前で上演されたこの劇は、壁の存在を無視することによってでも、壁を破壊することによってでもなく、運動により、壁というものを帰属のない石にまで還元する。そのことによって今現在の世界をあらたな結晶化の可能性へと開く。この世界の状況では、愛や希望を語るのは躊躇されることである。しかし宮城は愛や希望を語ることを恐れない。そもそも弔いとは「所詮死すべき身」である人間にとって唯一等しく訪れる出来事だからこそ、弔いを通じて見出される希望とは人が人であることの最後の証となる。この舞台では壁や水が感光剤となり日常では不可視の波動や粒子を映し出したように、宮城にとっての希望とはまだ気づかれていない波動や粒子のようなものなのかもしれない。
 アヴィニョン法王庁という広壮な空間にもかかわらず、宮城がいっさい力業で押し切ることなく、まるで粒子を相手にするかのような細やかさをもって作品を作り上げたことの意味をいまこそ考えるべきではないか。戦争や暴力の連鎖をどうやって断ち切るのか? SPAC版『アンティゴネ』はこの問いに対する一つの答えである。

 波紋や光や影がこれほどまでの効果をもたらす舞台もないが、裏を返せば俳優の一挙手一投足が通常の舞台では考えられないほどの作用を及ぼすということだ。俳優たちは極度の集中力を必要とし、スタッフはかなりの精密さが求められたに違いない。この作品に携わった人々にとって、西洋演劇2500年の歴史とアヴィニョン演劇祭70年の歴史に対峙する今回の上演に際しての意気込みは相当なものだったろう。もしかしたら勝負を挑むような気持ちで臨んだのではないか? けれどアンティゴネは法王庁の亡霊たちを力で捻じ伏せることはせず、彼女自身が死に場所である岩屋から盆踊りの輪に加わったように、亡霊たちもアンティゴネの弔いによって鎮められ、法王庁からようやく解放されたのでは? 結果、法王庁はこの静岡からの『アンティゴネ』一行を受け入れ、天候も風も壁さえも、外的条件がことごとく作品に共鳴することで、アヴィニョン演劇祭における歴史的な快挙を超えた、比類のない時間の流れる空間へと結実したのである。

最後の盆踊りの場面 撮影=新良太