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絵師と亡霊

 安田雅弘は、亡霊に憑かれた演出家である。山の手事情社によって上演された作品の多くが、本来見えないはずの亡霊たちを見えるようにするために舞台化されていると言っても過言ではない。そのことはたとえば、『タイタス・アンドロニカス』がシェイクスピアとハイナー・ミュラーのテクストを自在に横断する原作には登場しない語り手を配することや、『女殺油地獄』が死者の標本を安置するかのような舞台装置に囲まれていること、そして『テンペスト』が大西洋の海底に横たわるアフリカ黒人奴隷の霊を招喚するかのような形象を随所に挟みこむことからも明らかだろう。『傾城反魂香』でも、死んだはずのみやが銀杏の前と対話し、元信に嫁いでくるという、劇中のクライマックスを形作る出来事がほかならぬ亡霊の現存によって果たされる。しかしこの戯曲がさらに興味深いのは、そのような亡霊の存在が、さまざまな絵師による表象の闘争と密接に関わっていることである。
 すでに挙げた場面だが、冒頭、それぞれ天満天神の夢のお告げに導かれて出会ったみやと元信は、みやが父親から伝授された「武隈の松」の形を教えてほしいという元信の要請にしたがって、雅楽之介に松をかたどらせ、それを元信が絵筆で描き出す。言うまでもなく〈亡霊〉とは、生者と死者との境界線に現出する記号、すなわち不在の存在である。存在しないものをあたかも存在するかのように描き出すことのできる絵師の筆の力が、この劇を根底から駆動するものであることが、最初から提示されているのだ。しかもここでは、まずみやという巫女的な存在が雅楽之介の肉体を使って松を模倣させ、それを元信が模写することで舞台上に「本物の」松が出現するという、複合的な表象伝達のプロセスが仕組まれている。
 この劇では〈亡霊〉というトポスが、松のような植物のモチーフだけでなく、虎のような動物や、手水鉢のような無機物、さらには襖絵にまで浸透する。すなわち、元信の出世をねたむ不破道犬(川村岳)たちに捕われた元信が、自分の肩を食い破って自らの血でふすまに描いた虎が飛び出し、彼はそれに乗って逃走する。同じ虎が田畑を踏み荒らして困っていると言う百姓(鯉渕翼・武藤知佳)の話を聞いた土佐将監(斉木和洋)の弟子、修理之介(浦弘毅)はこの虎が「すぐれた絵に魂がこもり、抜け出たものであろう」という将監の言葉から「絵の道の悟り」を開き、自身の筆先でこの虎をかき消してしまう。

「虎」の場面 不破道犬(川村岳) 撮影=平松俊之

そして、師匠の将監に見捨てられた吃りの又平(川村岳)が妻のおとく(大久保美智子)と自害して果てようと、手水鉢を墓石と思って自身の絵姿を描くと、その絵は「絵師の念力が通じたのか、厚さが一尺余りもある御影石の裏まで透ける」。言葉を人並みに発声しない吃音が持つ力が、亡霊を召還して非現実を現実とする不思議。この「裏まで透ける」絵の威力が如実に示すように、この劇は最初から最後まで、〈亡霊〉という不在の実在、裏と表が分かれながら合一した、彼岸と此岸の境に見え隠れする形象を現出する衝動に憑かれた芝居なのだ。さらにこの「石を透し」た筆の威力によって土佐光起との称号を将監から授かった又平が、不破伴左衛門(栗田直輝)らに追われる銀杏の前(越谷真美)を家にかくまうと、伴左衛門率いる軍兵百人あまりが押しよせてくる。すると又平が家で描いていた大津絵の中から、「人間ばかりか猿、猪、鷲、熊鷹」などさまざまな動物たちが飛び出してきて、軍兵たちをちりぢりに退散させる。ここで使われるのが《ルパム》大津絵だが、文字通り又平の家中の《四畳半》が内破して、《ルパム》として俳優全員が舞台を席巻するさまは、描かれた絵画と活躍する動物たちという表象と現象との関係を舞台上で具体化するのである。
 ここでもうひとつ注目しておくべきことは、安田演出に一貫している字幕へのこだわりである。『テンペスト』で十全に展開されている字幕の活用による表象権力への問いは、『傾城反魂香』でも継続して追及されている。舞台の冒頭で、浜辺を想起させる海鳥の声とともに、舞台背面に「越前、敦賀の気比の浜」という字幕が映し出されると、元信が登場して、片手を前方へと差し出し、重心をずらして腰を沈めた山の手事情社独特の所作で、この字幕を含む状況説明(歌舞伎台本の義太夫部分を現代語化したもの)を語り、「生まれは絵かきのほまれ高い家の、狩野四郎二郎元信」と名乗る。ここでは、場面転換とともに情景が字幕でト書きとして表明されるだけでなく、登場人物の台詞としても表明されることで、ト書きという場所や心の風景を表す文字と、それを音として表現した台詞とが交錯する。それによって、文字記号による表象と音声記号による表象という二つの作用が、互いの差異を明らかにしながら競合し、観客はそのような表象操作への醒めた意識を持ちながらも、近松の人情物の叙情世界のなかへと誘いこまれていくのだ。登場人物がト書きを語るということはまた、俳優たちの身体が舞台上のアイデンティティに応答して責任を引き受けるということにほかならない。さらに舞台の場所や時間が字幕で示されるだけでなく、「虎」のような肝要な形象が文字とともに絵でも表され、それが虎の絵図の描かれた幕をはためかす俳優たちの所作と連動することで、私たち観客はつねに舞台上の表象を記号として、すなわちシニフィアンとシニフィエとの恣意的な関係という記号の本質を見せつけられる。まるで字幕を読むように声を聞き、身体を聞くように声を見る――声が身体なのか、身体が声なのかを私たちにつねに問いかける仕掛けの一つが多用される字幕なのだ。
 私たちは日常生活において、言葉で物語や論理を受け取り、体の表現で心情や意味を理解する。演劇はそのような日常性を疑い、意識化することで、言葉が論理で身体が感情という二分法を脱構築する営みであり、あらゆる演劇的様式はそのためにこそ見出され、洗練され、受け継がれてきた。安田雅弘と山の手事情社による〈亡霊〉へのこだわりは、そのような疑問を解くための一つの身体的回路であり、彼らが舞台上に現出させる《四畳半》とはそのような亡霊たちの住処なのである。