歌舞伎の現代劇化を目指す木ノ下歌舞伎(木ノ下裕一主宰)は、劇団設立10周年を記念して、2016年から「木ノ下“大”歌舞伎」に取り組んでいる。これは、過去に好評だった演目の連続再演企画である。こまばアゴラ劇場で上演された「『隅田川』『娘道成寺』」(2017年1月)もその一環だ。現代化した歌舞伎舞踊を、日本を代表するコンテンポラリーダンスの振付家・ダンサーであるきたまり(KIKIKIKIKIKI)と白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)が二本立てでソロ作品を上演した。

きたまり「娘道成寺」

 きたまり演出・振付・出演による「娘道成寺」は、極めて高い完成度でコンテンポラリーダンスの奥深さを見せつけた。きたまりの「娘道成寺」は2008年初演、木ノ下歌舞伎の代表的演目として再演ごとに演出・振付を変えて上演され、今回で4回目となる。歌舞伎の長唄をほぼ全曲まるごと使用し、上演時間もこれまでの30分から60分と倍に延ばした今度の上演は、「決定版」と言ってよいだろう。

「娘道成寺」 演出・振付・出演=きたまり(KIKIKIKIKIKI) 撮影=東直子

 歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」は、道成寺を舞台とした安珍・清姫伝説の後日譚ということになっている。桜満開の紀州道成寺。清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は長らく女人禁制となっていた。以来寺には鐘がなかったが、この度新たな鐘がようやく奉納されることとなる。そこに、花子という美しい白拍子がやってくる。修行中の若い僧は、その美しさに彼女の入山を許してしまう。それが清姫の化身だったことに気づいたときにはすでに手遅れ、彼女が鐘の中に飛び込むと、鐘の上に大蛇が現れる。
 壮絶な物語だが、歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」は、女形の歌舞伎役者それぞれの華やかさや芸を楽しむレビュー的な要素の強い演目となっている。特に最近は人気演目であり、坂東玉三郎と尾上菊之助による「京鹿子娘二人道成寺」は「シネマ歌舞伎」として映像化されているほど、ショー的要素としてのスペクタクル性が全面に押し出された演目なのだ。その分、謡曲「道成寺」が持っていた蛇身に成り果てる女の怨念の要素は背景に退いている。
 きたまりの「娘道成寺」は、2008年初演時において、すでに見所あるソロダンスだった。しかし清姫の安珍にむけられた嫉妬の狂気が見えてこず、亀田真司・伊藤栄治らによるフリージャズ風の生演奏音楽もオリジナルの長唄伴奏の風味を消してしまっていた。そのため歌舞伎色が薄くなり、木ノ下歌舞伎が標榜する「歌舞伎の現代劇化」としては若干の不満が残ったのも事実である。2012年の再演では、歌舞伎の長唄を使ったことで「京鹿子娘道成寺」本来の姿に近付いたものの、その分ダンス作品としてのハードルが高くなり、発展途上の観があった。
 今回(2017年)の上演におけるきたまりは、コンテンポラリーダンスの技法を活かしながらも、歌舞伎版「京鹿子娘道成寺」と正面から対峙した現代版「娘道成寺」をみせてくれた。紅白の幕以外舞台装置や小道具はいっさい使わず、「身一つ」で長唄「娘道成寺」に立ち向かう姿がすがすがしい。前半の動きはゆっくりと抑えている。顔は能面のように無表情であり、その上顔が見えないように手で隠したり下を向いたりと工夫されている。面白いのは、そういう抑えた動きのところどころで、腕から手、そして指先のちょっとした動きが、「蛇身」を垣間見せていくところである。
 抑制された動きには、舞踏の影響が感じられる。ただ、それはきたまり独りの舞踏でしかない。彼女は白虎社出身の由良部正美、土方巽直系の大谷燠(アートシアターdb主宰)、そして京都造形芸術大学教授(当時)だった山田せつ子(笠井叡門下)と岩下徹(山海塾)らに学んでいる。単独の師匠のもとで修行したのではないという点で、これはきわめて珍しい経歴である。そのためきたまりの動きは、舞踏の流れを受け継ぎながらも、まったく独自のものとなっているのである。
 きたまり版「娘道成寺」が行き着いた境地は、歌舞伎舞踊の振り付けとは異質でありながら、日本舞踊的の本質を見せてくれるものだった。日本舞踊の踊り手が見てさえ、長唄と一緒に動きをみていると、その色合いが感じられるものとなっていたという。しかも歌舞伎舞踊で使われる鞠や扇などの小道具をいっさい使わないで、これを実現させているのだ。圧倒的だったのは、後半部分で見せる「睨み」、目つきひとつで舞台の空気を豹変させる支配力である。舞台上で屹立する力としてはH・アール・カオスの白河直子、SPACなどに出演する美加理、ひいては早稲田小劇場時代の白石加代子に匹敵するのではないか。きたまりの野望としては、「娘道成寺」を演じ続け、いつかは京都の歌舞練場で生演奏の長唄を前に演じてみたいとのがあるという。

白神ももこ「隅田川」

 一方、二本立てのもう一本は白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)のソロダンス作品「隅田川」だった。再演企画である「木ノ下“大”歌舞伎」だが、「隅田川」は初演である。「娘道成寺」はこれまで男性ダンサー三人による「三番叟」との二本立てで上演されてきたが、今回は女性ソロによりともに女の情念を見せていく「狂女もの」「鬼女もの」の2本立てとなっているのだ。

「隅田川」 振付・出演=白神ももこ、共同演出=白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)・杉原邦生(KUNIO)・木ノ下裕一、監修・補綴=木ノ下裕一、美術=杉原邦生 撮影=東直子

 「隅田川」も「道成寺」と同様に謡曲をもとにしている。人買いに子をさらわれ悲嘆にくれる母親の物語である「隅田川」は、恋のもの狂いになる「娘道成寺」と方向性は異なっていても、思いの深さではかわらない。ところが、こうした観客の予測をはぐらかすように、冒頭の場面があっからかんと展開していく。船に見立てた箱のような装置に乗って出てくる白神。その箱を動かす黒子二人。ジャズ風に編曲された「隅田川」の軽快なメロディーに乗せて、隅田川の水上バスガイドのように、浅草寺、アサヒビールタワーとスーパードライホール、そして東京スカイツリーと、隅田川周辺の観光名所が紹介されていく。最後に白神は、段ボールのスカイツリーに開いた穴から顔を出して、笑顔さえ見せる。これは謡曲や歌舞伎の「隅田川」ものにある、狂おしいまでの母の嘆きから甚だしく離れている。
 やがて、マイクを持っての歌謡ショーとなる。それまでの明るい調子は一変し、息子の梅若丸を人買いにさらわれて、必死になって探す母の有様が歌われる。梅若丸の死が観客に分かる頃、白神は、息子を失った母の絶望を全面に押し出し始める。両腕を広げて羽ばたく仕草がせつない。鳥になって息子のもとに一刻も早く飛んでいきたいということか、それとも息子がなくなり、魂が鳥のように飛んでいったということなのか。
 白神としては、圧倒的域に入りつつあるきたまりの「娘道成寺」と正面から対決したい思いがあっただろう。しかしきめ細かさと密度という点で、今回ばかりは分が悪い。白神の「隅田川」はこれが初演なので、それもしかたないことだ。だが白神が、自身のとぼけた持ち味を、母親の哀しみとカプリングした戦術は評価すべきだろう。「隅田川」単独で観れば軽いと感じられようが、今回の二本立てでは白神の軽みが効いていたのである。
 木ノ下歌舞伎による「隅田川」「娘道成寺」の二本立ては今回が初演である。固定化された上演に固守せず、演出や演技に毎回新たな工夫を加えながら、番組の工夫で演じ続けていくというのが木ノ下歌舞伎の本来あるべき姿だろう。今後この作品がどのように成長を遂げていくか。楽しみでならない。