ギリシャ悲劇と人間の尊厳――椿組『始まりのアンティゴネ』(瀬戸山美咲作・演出)/新野守広
椿組が上演した瀬戸山美咲作・演出『始まりのアンティゴネ』(下北沢ザ・スズナリ、2017年2月24日~3月5日)を見て、社会と向き合う演劇の力をあらためて実感した。この舞台は古代ギリシャ悲劇『アンティゴネ』(ソフォクレス作)を換骨奪胎して作られた現代の対話劇であり、同時代の日本社会が抱える問題を登場する人々の議論と対話を通して明らかにする特徴があった。私はとくに、主体的に生きることの社会的意義を訴えた作り手の姿勢に共感を覚えた。
小さな食品会社の経営にたずさわる親族とその社員たちの物語である。大黒柱である社長の方針にしたがっていた彼らは、親族の一人からあがった方針に反対する声にも理があることに気づく。ときに激しく意見を交わしながら、次第に自らの思いを吐露していく彼らの心の揺れが丁寧に演出されていた。古代ギリシャ悲劇の設定を現代の小さな家族経営の会社に置き換え、人間関係や慣習に阻まれて顕在化しにくい私たちの社会の問題に光を当てる秀作だった。
古代ギリシャ悲劇から現代日本の対話劇へ
古代の『アンティゴネ』は、国家の大義と人倫の情の対立を描いている。テーバイ王クレオンは、テーバイを守って戦死した甥エテオクレスを手厚く葬り、テーバイを攻撃して戦死したポリュネイケスの遺体を放置する。戦死した二人は兄弟であったため、二人の妹アンティゴネは叔父にあたるクレオンに抗議し、兄と同等の葬儀を弟ポリュネイケスにも要求する。しかしクレオンはいったん決めた自らの決定に固執し、彼女を岩屋へ幽閉した。その結果、閉じ込められたアンティゴネは首を吊ったばかりか、彼女の婚約者でクレオンの息子ハイモン、クレオンの妻エウリュディケが自ら命を絶つという悲劇的な結末を迎える。祖国に歯向かった者を弔うことはできないという国家の大義(クレオン)と、血を分けた兄弟は等しく弔われるべきだという人倫の情(アンティゴネ)が対立し、国家の大義が人倫の情を押し切ったために悲劇が起こる。古代ギリシャの作品だが、アヌイやブレヒトをはじめ、多くの現代作家が改作を世に送り出している。現代的に解釈された演出も多い。瀬戸山版『始まりのアンティゴネ』もこの系譜に属する。
2時間ほどの観劇の間、観客がおもに目にするのは、仕出し弁当からスタートした小さな食品会社の二代目社長の、自殺した次男啓介の死を病死とするかしないかをめぐり、通夜に集まった親族一同が社員とともに話し合う姿である。現社長で、創業者の長女江利子(水野あや)の夫是雄は、会社へのダメージを避けるため、啓介の自殺を病死と発表し、近親者のみの通夜を行う方針を決めた。これに対して創業家の長女あずみ(占部房子)は猛然と抗議する。というのも、長兄が亡くなったときは正式な葬儀を行ったのに、次兄のときには死因を偽り、正式な葬儀も行わないのは不当と感じたからである。是雄がクレオン、あずみがアンティゴネ。さらにあずみの妹伊織(永池南津子)がイスメネであることはいうまでもない。登場する人々が心の中のわだかまりを吐き出すように行われる話し合いの場面は、クレオンとアンティゴネの激論を踏まえている。とはいえ、冗談やだじゃれを飛ばし合ったり、悪意むき出しで赤裸々な内容を暴露したりしながら行われる話し合いはギリシャ悲劇とは別箇の対話劇になっていた。もちろん登場する18人の人物のほとんどは創業家、山城家、社員のいずれかに属し、それぞれオイディプスの一族、クレオンの一族、コロスというソフォクレスの原作に対応している。
18人のなかには古代の『アンティゴネ』に対応しない人物も創作されていた。なかでも、社長是雄の長男通(山森大輔)の恋人、葉月(浜野まどか)は、全体を悲劇から救う重要な役割を果たしているように思えた。東南アジアで通と知り合った葉月は、いわば外部からこの世界を訪れる存在であり、彼女の眼を通してムナカタ食品の人々の閉鎖性が観客に伝わる仕組みである。創業者の長女である江利子(水野あや)が息子俊(外波山琉太)を溺愛する様子をはじめ、江利子が社長である夫是雄とともに会社の恥を隠そうとヒステリックに狂騒する姿、是雄の不倫、さらには自殺した啓介が生前には引きこもりであり、会社の業務を妨害したとみなした現社長の指示で別荘に閉じ込めたられたこと、そしてあずみ以外の親族や社員の誰もが社長の決めた方針に異議を差しはさまず諾々としたがっていることなど、葉月には受け入れがたい事実が次々と明らかになる。
しかしこれらの事柄は、私たちが日常どこかで体験している事柄ではないか。会社のイメージを傷つける創業家のスキャンダルを隠してなぜいけないのか。会社の利益には生活がかかっているのだ。創業家と婿一家の家同士で醜聞があるとしても、それを世間に隠して何事もないように勤務に励むことがそんなに悪いことなのか。すべてを隠そうとする母親が息子たちを溺愛するのも肉親の情としてやむを得ないではないか。
このような主張が社長と大多数の親族と社員からなされ、啓介の葬儀を行うべきと主張するあずみと対立する。会社の社運を賭けた彼らの話し合いは、国家の存亡をかけた古代ギリシャ悲劇の現代日本版である。彼らの話し合いはいかなる結末をもたらすのだろう。
人間の尊厳に向けて:死と再生
結論から言うと、激しい議論を経ても社長の方針は変わらなかった。しかも古代ギリシャ悲劇の『アンティゴネ』とは異なり、結末で命を絶つ人物はいなかった。瀬戸山版は、すでに亡くなった啓介をめぐる、残された人々の物語なのだ。親族や社員一人ひとりが心の中に抱え込んできた思いが堰を切るように吐露された後、和解の感情が生まれ、自殺した啓介の思い出が語り出される。人々は改めて啓介への追悼の思いを確認し合い、通夜の席に向かう。古代の悲劇とは違って、対立は和解へと収束して終わることができるのである。心に抱いてきた鬱屈を人々がここぞとばかりに吐き出す場面は、最大の見どころだった。私も含めて多くの観客がカタルシス感を得たことは間違いない。
さらに『始まりのアンティゴネ』のすぐれたところは、登場人物たちに鬱屈した思いを吐露させて観客にカタルシスを与えるだけの芝居ではなかったという点にあった。瀬戸山版では死と再生がテーマになっていた。閉鎖的な集団が自らの過去を捉えなおして再スタートを切るためには、集団内部の誰かが死ぬことと、集団の外から他者が現れることの2つが必要である。作者はこのように考えて「始まりの」劇を構想したのではないだろうか。
ムナカタ食品の人々にとって、自殺した啓介はお荷物になっていたが、だからといって彼の死を会社の発展に好都合として片づけるわけにはいかなかった。むしろ啓介の死は、会社にどっぷり浸って過ごしてきた彼らに反省を迫るきっかけを与えた。この意味で彼の死は生贄になぞらえられる。
また、外部から来た葉月は、ムナカタ食品の親族が話し合いを行っているさなかに、自分の気持ちを抑えることができず発言する。彼女の発言をきっかけに、創業家の亡き長男の妻麗子(井上カオリ)をはじめ、社長の方針に批判的だった声が息を吹き返し、当初は考えを表に出さなかった親戚や社員が、死者は弔われるべきであると自分の意見を言い出す。こうして場の雰囲気は和解と人間の尊厳に対して開かれていく。社長自身にも判断の迷いがあり、話し合いの結果、独裁的な場は民主的になっていく。観客が体験した劇的感動には、主体的人間が生成する場に立ち会えたという喜びがあったと私は感じている。
アンティゴネ、ハイモン、そしてエウリュディケの3人が命を絶つ古代悲劇と異なり、瀬戸山版は悲劇的結末を迎えない。ここには「再生」への願いが込められてはいるだろう。先例や慣習の維持に汲々とするあまり人間の尊厳を忘れた社会への批判を込めて、新しい生を始めるきっかけを観客と共有しようという思いが作り手一同にはあったにちがいない。見る者の感情を揺すぶる理詰めの熱い情熱が舞台から発するのを感じたが、おそらくこれはこの社会の再生を願う思いから生じていたのではないだろうか。
演技にはやや張り切り過ぎる面もあったが、それぞれの人物の性格造形は的確で違和感はなかった。風太郎(外波山文明)をはじめ山城家の人々の世話物的な突っ込みは創業家の人々の深刻な性格と対照的で面白く、創業祭の準備には笑いが起こった。私が観劇した2月27日には是雄役佐藤誓は病気のため中田顕史郎が代わったが、急な代役を感じさせない見事な出来だった。舞台には常に一人の男(趙徳安)がいて、親族と社員が話し合う姿を見続けていた。この男は幕切れの直前、通夜の席に向かう葉月と視線を交わす。一瞬、死者と生者が意志を疎通させたかに思え、余韻を胸に劇場を後にした。