クリスチャン・ルパの演劇――2009年欧州演劇賞イベントで上演された三本から/野田学
『ファクトリー2』
『ファクトリー2』(2008年)は8時間の大作だ。2008年初演時に二日に分けて上演されたが、ヨーロッパ演劇賞行事用上演では午後4時からの一回上演だった。
『ファクトリー2』は、1960年代中葉においてアメリカン・ポップアートの発信地となったアンディ・ウォーホールの「ファクトリー」を舞台とする、ルパのオリジナル作品である。しかしこの舞台は、ウォーホールと彼等を取り巻く「スーパースター」たちの綿密な研究に基づいているものの、あくまで歴史にはこだわらない虚構として作られている。プログラムの登場人物名リストには、彼等のファーストネームだけが並んでいる。この作品は、アンディ・ウォーホール、彼のシルバー・ファクトリー、そしてファクトリー神話の一部となりその構築に貢献した人々をめぐる、あくまでインプロビゼーション主体の幻想なのだ。
それまで主に中欧の小説を舞台化してきたスタイルをすてて、ビデオカメラを多用する作品に仕立てた『ファクトリー2』。43年生まれの巨匠が若者のおもちゃに手を出したかと皮肉な見方もされたが、授賞に合わせて出版されたルパのインタビュー集によると、これはウォーホールに啓発された「俳優の状況に関する問いであり、演技という冒険のしばしば乱雑に散らばった未知の諸相にかんする問い」なのであるという(Krystian Lupa, ‘Rozmowy/Conversations,’ Notatnik Teatralny, 54-55 [Wrocław, 2009], p. 357. このインタビューは2007年のものである)。
ウォーホールは映画を撮るにあたって、俳優を、キャラクター表象のための演技者としてではなく、「パーソナリティ」として捉えた。彼の『チェルシー・ガールズ』のような映画は、物語を語らないし、俳優がキャラクターに完全没入することもない。ほとんどのウォーホール映画において実名で登場する「スーパースター」達が行う行為は、彼等の「生」ではなく、あくまで「パーソナリティ」にしたがうものである(同p. 358)。映画の専門家でもあり、学生時代に映画を志したこともあるルパだけに、ウォーホールのファクトリーでの芸術活動に材をとった『ファクトリー2』は、演劇の中核である俳優の存在を問い直す実験となりえたのである。
『ファクトリー2』の幕開けはウォーホールの16ミリ白黒映画『ブロージョブ』 (1964) のファクトリーにおける試写会の場面である。ウォーホール・スーパースター達が一堂に会して、沈黙のうちにスクリーンを見つめる。そのまなざしを、観客も映画を観ることで共有するわけだ。スクリーンにはスチルフレームの中、肩から上しか映っていない美男が、題名の示唆する行為中、何度も恍惚のうちに目を閉じる。とめどなき射精である。映写が終わると、長い沈黙の後、参加者達が感想を述べ始める。
ルパはこの作品の14ヶ月にわたる創作過程において、ウォーホールが固定カメラで行った行為を自分も実験したという。彼は実際に部屋に閉じこめられ、カメラという窃視圧力に晒された自分の俳優達をビデオに撮り、そのビデオを作品中で用いることで、「演技」を介在させない俳優達の「パーソナリティ」の露出狂的かつ刹那的表出の仕方を探ったのである。
この窃視圧力とは、光景の最中にありながら、ひたすら受動的で浮遊する視線のことである。それはウォーホールその人であり、また現代のリアリティTVの文脈でいえば視聴者のことだろう。『ファクトリー2』では、ウォーホール・スーパースターの一人であるヴィヴァは、あらゆるレッテルを拒むようなウォーホールの浮遊する受動性にいらだっている。ある時、ヴィヴァは、一度部屋を出ると、アンディ・ウォーホール風の男装をして舞い戻ってくる。それを見たアンディは、自分も部屋を出ると、しばらくしてマリリン・モンロー風の女装をして舞い戻ってくる。ファクトリーでは男装のヴィヴァと女装のアンディが対峙する。ヴィヴァは目を伏せる。アンディはあくまで自己を定位することを拒むのである。
二度目のインターバルの直前の場面では、アンディがボーダーシャツにブリーフという姿で電話をとる。電話の向こうのブリジッド・バーリン(イヴォーナ・ビエルスカ)の姿がスクリーン上には大写しになっている。彼女が際限なく自分の掃除癖の話をしている間(書類は切り刻んでトイレで流すことまでするという)、アンディは奇妙な格好のままで朝食のトーストを食べ、突然絵を描き始める。あたかもとめどなき排泄のようなブリジッドの独白が、アンディのポップアート魂を刺激するのである。
二度のインターバルを挟んだ『ファクトリー2』を三部構成とみなして、そこにある図式を見てとることはできるかもしれない。第一部冒頭の「ブロージョブ」試写会はとめどない、そして不毛な射精である。これをあてどない生産と考えようか。第二部の終わりのブリジッドの告白は、強迫症的消費であり、やむことをしらない排泄である。第三部、つまり映画の撮影後、ウォーホールと取り巻き達が集合写真を撮るのだが、幕切れではそこに三発の銃声が聞こえてくる。ウォーホールに対して向けられた銃声だが、彼のことを少しでも知っていれば、ここでウォーホールが死なないことは観客にもわかっている。よってこれは先延ばしにされる死である。あてどない生産。やむことをしらない排泄としての強迫症的消費。そして先延ばしにされる死。これこそ資本主義の過程であると論じることができそうである。
ポップアートをこの過程において論じるということは、カメラの前で露出狂的に自らを晒すリアリティTV的状況における発信者と受信者を論じることでもある。極端に受動的で捉えどころのない(時に寝ているときさえある)ウォーホールとは、現代のTV視聴者の謂いなのかもしれない。ルパは演技というものの現代的特質を探求するために、ウォーホールを取り上げたのである。