俳優という存在の、なにものにも代えがたい魅力――演劇集団ア・ラ・プラスの『かもめ』――/新野守広
演劇集団ア・ラ・プラスがチェーホフの『かもめ』を上演した(構成・演出:杉山剛志、2016年8月1日~7日、東演パラータにて)。ア・ラ・プラス(a la place)とはフランス語で「その代わり」を意味するという。このような名前を持つ彼らの『かもめ』を体験した私は、俳優たちが戯曲の忠実な再現という束縛から離れ、自分たちの感覚を頼りに伸び伸びと演じた姿を忘れることができなかった。終演後、余韻が長く残った。
原作を大胆に解釈しながら、自己流の解釈をむやみに強調する演出でもなかった。俳優が演出家の駒になることもなく、イメージの記号として動くわけでもない。いわんや映像によりかかる演出でもない。チェーホフの原作をもとに俳優と観客との共感覚の場を作り、舞台と客席をつなぐ瞬間を持続しようとしていた。近代劇の古典をここまで現代の感覚で上演して成功したと思える例はそれほど多くない。この集団には経験に裏打ちされた技法があることが想像された。
以下、客席からの視点で彼らの『かもめ』について述べてみたい。
1.音楽・秩序・感情解放
会場となった東演パラータは客席数70ほどの小規模な空間で、上演スペースのほぼ平面全体を占めるほど大きなテーブルが置かれている(美術:加藤ちか)。すでに開演前から俳優たちが食器を並べ、パーティーの準備をしている。
突如、ブラスバンド演奏の音楽がスピーカーから流れ出すと、俳優たちは歓声を上げてテーブルの奥に集まり、けたたましくクラッカーを鳴らしてパーティーが始まる。これからトレープレフとニーナのお芝居が始まるのだ(この劇中劇はパンク調である)。ブラスバンド演奏の音楽については、ア・ラ・プラスが2014年11月に『バルカンのスパイ』を上演したことと関係がありそうだ。作者のドゥシャン・コバチェビッチは、エミール・クストリッツァ監督の映画『アンダーグラウンド』(1995)の脚本を手掛けたセルビアの劇作家・演出家である。ブラスバンド演奏の音楽が聞こえると、芝居好きの一家の破滅という19世紀末のチェーホフの物語にユーゴスラビア解体後という冷戦後の文脈が重なって感じられる。
すぐにマーシャ(安藤繭子)とメドヴェージェンコ(友野翔太)がテーブルに上がり、第1幕が始まる。メドヴェージェンコがマーシャに恋心を告白するが、マーシャの方は冷静に彼の性格や将来性を品定めする。ア・ラ・プラスはこのような原作の設定を踏まえて、マーシャがメドヴェージェンコに馬乗りなったり、足で踏みつけたり、たばこの煙を高慢に吹きかけたりするという具合に身体の動きを取り入れ、マーシャのサド的性格とメドヴェージェンコのマゾ的性格を強調していた。台詞から読み解いた人物相互の関係を、俳優の動きでも示そうというのだ。
同時に、テーブルの奥で陽気に騒ぐアルカージナ(蔡恵美)たちが、マーシャとメドヴェージェンコの会話を嘲笑するようにひどく大きな笑い声を何度も立てる。やや騒がしいが、混乱した印象はない。複数の場所で人々の声が同時に聞こえつつ、音楽、俳優たちの表情と動作、立ち位置に応じての人物同士の関係、照明などが刻々と変化しながら場面が進むのだが、単声と多声、高低と強弱、音の発する場所が巧みに計算されており、音楽性が維持されているからだ。祝祭性を示す場面ではかなり騒がしくなる舞台だが、秩序感覚に貫かれている点に特色がある。
さらに特筆すべきは、俳優の感情表現だろう。彼らの語る言葉は、新潮文庫の神西清訳『かもめ』(1967年初版発行)とはだいぶ違う。現代の話し言葉で直に語り合い、感情をぶつけ合っているのである。普段使う話し言葉に乗せて、原作の台詞の感情を解放し、身体の動きとともに感情を強く表現しようとしている。
感情を解放する彼らのやり方を紹介する資料として、2015年1月21日に劇評サイト「ワンダーランド」にアップされた演出の杉山剛志と俳優の蔡恵美のインタビューが大変役に立つ(聞き手:片山幹生)。ア・ラ・プラスの舞台に惹かれた片山の司会に沿って、杉山と蔡がそれぞれの来歴や稽古のやり方、集団の方針などを素直に語っている興味深いインタビューだが、ここでは杉山が、美術を担当した加藤ちかがア・ラ・プラスの稽古について語った印象を紹介している部分を引きたい。加藤によれば、ほぼすべての日本の劇団では、稽古初日には台詞が「入って」おり、外面的に完成されたイメージに向かって稽古が進む。それは「調整していく感じ」だという。一方、ア・ラ・プラスの場合は、稽古をはじめたときには、誰も「台詞が入っていない」。「議論、仮説、即興を通しての検証を繰り返し、それぞれの意見を戦わせたりしながら、徐々に形を作っていく。その過程で台詞が自然に入っていき、最後に形になる」という。
この対比は面白い。舞台に関わる者のなかで、「議論、仮説、即興を通して」意見を戦わせたりしながら徐々に形を作り、「台詞が自然に入ってい」く稽古をしたいと思わない者はいない。しかし現実には厳しい制作条件下、時間は限られている。マニュアルがあるわけでもない。皆、手探りで試行錯誤を積み重ねているのが実情だ。一方、ア・ラ・プラスの稽古では、他の舞台制作の現場でできないことが実現しているという。もちろん杉山は自説に引寄せて加藤を引いているのかもしれないが、そうであっても彼らの『かもめ』を見た者は、「台詞が自然に入ってい」るという言い方がけっして誇張ではない舞台を体験するのだ。
この「ワンダーランド」のインタビューによると、杉山と蔡は、ワダユタカ氏の演劇学校「ほんとに役立つ演劇教室」でスタニスラフスキー・システムに基づく俳優養成プログラムを学んだ後、ワダ氏の劇団「AT21(21世紀演劇行動社)に参加し、同劇団が解散した後、演劇集団ア・ラ・プラスを立ち上げたという。さらに杉山はモスクワで演出を学ぶ機会もあった。おそらく彼はモスクワで方法意識をもとに演出するやり方を実地に獲得したのだろう。それは経験に裏打ちされた技法であり、彼らの『かもめ』に他の舞台と一線を画する魅力があるのは、この技法が共有されているためであると思う。
2.祝祭性、すれ違い、そして大胆な幕切れ
『かもめ』の舞台に戻ろう。
はっとする場面が多かった。たとえば第2幕は、原作のト書きでは、照りつける太陽の下、炎暑のクロケットのコートである。ここでア・ラ・プラスの俳優たちは、テーブルに上がると歓声を上げて服を脱ぎ、水着姿になって日光浴をする。ダンス・ミュージックが流れるなか、アルカージナはマーシャの服を無理やり脱がして水着にすると、自分の若さを誇るため、強引に相撲を取ってマーシャに勝ち、高らかに笑う。このような祝祭性は、死のイメージに覆われる暗い後半との対比を際立たせていて、興味深い。
この第2幕には、女優志望の若いニーナ(東ケ崎恵美)が中年の作家トリゴーリン(西村清孝)に話しかける場面がある。著名な作家に会えた喜びで有頂天なニーナに向かって、トリゴーリンが作家としての悩みを語り出す印象的な場面だが、ア・ラ・プラスの舞台では、ひとりの中年男が自分に興味を持った若い女を目の前にして、下心丸出しの作家気取りをしているのに、有名人との知遇をきっかけに女優としてのキャリアを手に入れたい一心の女は男の欲情に気づかないという風に見える。しかし同時に、中年男はまったくのでたらめを話して若い女をたぶらかしているのではなく、その悩みには真実があり、若さと世間知らずゆえに女は作家の悩みを言葉の表面でしか理解していないという風にも見える。
こうして会話は途切れなく進むのに、二人はすれ違う。人は誰も自分の主観を語っているに過ぎず、相手を本当に理解する/されることなどないというチェーホフの主題が、話し言葉をもとに互いの感情をぶつけ合う俳優たちの演技を通して、喜劇として客席に届く。俳優たちが真実の感情(もちろん虚構上の真実なのだか)を投げ合うほどに、かえって意思疎通の不可能性が際立つところに喜劇が生まれている。
喜劇の痛ましい例は、アルカージナとトレープレフ(松田崇)だ。この母と息子は表面的には互いを近親相姦的に憎み合っているが、心底では和解を望んでいる。たとえば第3幕には、息子が母に包帯を取り換えるように頼む場面がある。このとき母が鳩ポッポの歌を口ずさみながら包帯を長々と引き延ばして遊びはじめる。やがて二人は「どけち」、「厚化粧」、「ニート」といった神西訳とは異なる現在の言葉でののしり合う。遊戯性が高まるこの場面の直後、母は息子に許しを請い、感情の階梯を一気に駆け降りるように号泣する。激しい心の振幅を表現する蔡恵美の見事な演技と内向的な息子を演ずる松田の好演は、この先の痛ましい結末を予想させるに十分だ。
そして最後の第4幕になると、ソーリン家の人々の動き硬くなる。自由無き死の世界を暗示しているのだろう。照明もひどく暗い。トレープレフを例外として、彼らは皆黒系の衣装を着て、顔にも黒い塗料を塗り、集団(コロス)となる。そこへ、やはり全身黒の衣装でニーナが登場し、すれっからしの態度で荒々しい言葉をトレープレフにぶつけ始める。しかし、すぐに黒い衣装を脱いで白い衣装になり、温和な態度で過去の思い出を語る。その彼女に俳優たちは水をかけ、いわば水葬を行う。
こうして死が舞台を覆い、終幕に向かうが、幕切れを期待する観客の気持ちをややはぐらかすようにカーテンコールとなった。第4幕全体で死を暗示する大胆な解釈を受け止めることができるかどうか、休憩なしの2時間20分を経て、観客も試されたと感じた。
3.全体的な経験を取り戻すために――俳優の存在
以上で言及したいくつかの場面は、『かもめ』のごく一部に過ぎない。全体的に登場人物一人一人の造形が鮮やかで、演じる俳優の生き生きとした姿が記憶に残った。翻訳劇では、いわゆる翻訳調の台詞が俳優の感情表現をわざとらしくすることがあるが、この舞台にはそういう場面はほとんどない。俳優という、感情を自在にコントロールする虚構の存在を目の前にしたときの、なにものにも代えがたい喜びが観客の心を満たすのである。
表層的で断片的な映像に囲まれ、端末を通じてさまざまな情報を得ながら、それらの全体像をつかむ時間を奪われている私たちにとって、演劇という集中的で集約的な集団制作の価値を体験するために劇場に足を運ぶには、俳優の存在が切り札になる。ア・ラ・プラスの舞台は、近代劇の古典を現代的に上演する試みにまだ無数の宝があることを実感させてくれた。
演劇集団ア・ラ・プラス 第13回公演『かもめ』
2016年8月1日~7日
下北沢 東演パラータ
作 アントン・チェーホフ
訳 神西清
演出・構成 杉山剛志
アルカージナ 蔡恵美
マーシャ 安藤繭子
シャムラーエフ 江前陽平
ソーリン 小篠一成
ポリーナ 志賀澤子
ニーナ 東ケ崎恵美
メドヴェージェンコ 友野翔太
トリゴーリン 西村清孝
ドールン 服部晃大
トレープレフ 松田崇