©JUN ISHIKAWA フェスティバル/トーキョー 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』作・演出・美術・衣裳:アンジェリ力・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)、東京芸術劇場プレイハウス
©JUN ISHIKAWA フェスティバル/トーキョー 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』作・演出・美術・衣裳:アンジェリ力・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)、東京芸術劇場プレイハウス

過激なものが観たい、という欲望を私たちは抑えがたく持っている。その過激さが究極的に行きつくところは死である、ということを知りながらも、その一線の手前で行われるパフォーマーとの駆け引きに魅了されるのだ。同時に、私たちはしばしば、その過激さを賭してどのようなメッセージが伝えられていようとしているのかを見落としがちである。とりわけ「母/性」の否定という、フェミニスト達が何十年にもわたり繰り返し声を挙げてきた主張を前にしては、聞き飽きたメッセージよりも、その表現方法がよりエスカレートする様を見たくなる。では、パフォーマンスばかりが激しくなっていくのに、なぜ数えきれないほど訴えられ続けてきた主張は変わることがないのだろう。

昨秋、初来日を果たしたスペインの女性パフォーマー、アンジェリカ・リデルによる『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』はそのジレンマの板挟みにある作品だった。いくら叫んでもその主張が聞き取られることのないことへの怒りと、それにもかかわらず叫ぶことでしか自らのメッセージを表現しようがないことへの苛立ちに舞台が支配されていた。

©JUN ISHIKAWA フェスティバル/トーキョー 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』作・演出・美術・衣裳:アンジェリ力・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)、東京芸術劇場プレイハウス
©JUN ISHIKAWA フェスティバル/トーキョー 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』作・演出・美術・衣裳:アンジェリ力・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)、東京芸術劇場プレイハウス

本作は大きく二部構成を取る。前半部では、J.M.バリーの有名な児童文学『ピーターパンとウェンディ』を中心的なモチーフとし、時にフィクショナルな、時にドキュメンタルな数々の登場人物たちが現れる。作品冒頭、ウェンディの衣装を纏うリデルは、舞台上でひとり自慰行為を行う。ドレスをはだけさせ半裸で股間に手を伸ばす彼女の姿に、目撃の瞬間こそ驚きを覚える。だが、煽情的に人に見せつけるわけでも、当人が何らかの満足感を得ようとする風でもなく、だらだらと続くその行為に、快感も不快感をも見出すことは難しく、やがて当初のショックに慣れていく。

区切りがついた、とでも言いたげに彼女が行為を終える頃、他の登場人物も舞台に現れだす。『ピーターパン』で描かれる姿よりずいぶん年を取った風貌のウェンディとピーター、ウトヤの猟奇殺人事件の被害者と思しき少女、リデルの上海滞在の経験について問う中国人の女性、リデルと上海で出会ったという老年の社交ダンスの踊り手。それぞれの断片的なナラティブが交錯しながら、しかしどの語りも強い印象を残すことはない。前半部最後は社交ダンスのペアによるワルツで締めくくられる。二人の踊りはチャーミングでこそあれ別段上手いわけではなく、生演奏の音楽を背景にぼんやりとダンスを眺める時間は冗長だ。その退屈さは、リデルの自慰行為が終わるのを待つ時間にひどく似ていた。幕開きに感じた束の間の衝撃が、たかだか90分足らずの間にすっかり消え去ってしまったことに、そのショックに対する感覚の鈍る早さに、私は自分が次から次へとより過激なパフォーマンスを期待していることを知る。

後半部へ移り、リデルがひとり舞台に残されたときから、作品のトーンは一変する[i]。ウェンディの衣装を脱ぎ下着姿となったリデルが、マイクを片手に語り続けるソロパフォーマンスが始まる。彼女は執拗に母を憎悪し、母になることを拒絶し、母性なるものを強く否定する。それは副題である「ウェンディ・シンドローム」の由来になるウェンディが『ピーターパン』の中で、ピーターやネヴァーランドの子ども達から期待される母親的役割に過剰適応することへの非難である。

彼女は次第に、他者の期待に応えることそれ自体を攻撃する。愛情や敬意、善意を躊躇なくその身に受ける女、つまり自身の承認欲求と引き換えに男性中心的社会を是認する存在への憎しみの吐露は、ピーターの期待を拒絶できなかったために、娘も孫娘も自らと同じ成長の過程をたどらせることになる、ウェンディへの糾弾でもある。そして何より、作品世界におけるウェンディ役としても、舞台上での過激な欲求に応えるパフォーマーとしても、リデル自身が今そのような女を演じていることへの、矛盾に満ちた強烈な自己否定である。客席をにらみつけながら喉を潰すほどの大声で喚き、舞台に敷かれた泥を舐めてはえずきながら、ついにはおおよそ人間性と呼びうるもの全てを呪う姿は、所与のものとされる尊厳を拒絶することで初めて、生きる資格を得たと言わんばかりである。語りの終盤でリデルは、ウトヤの虐殺死体に囲まれ立ち尽くす情景を想起する。自身を激しく嫌悪し拒絶し、死んでいるも同然の存在とみなしながらも、犠牲者たちのようには死ぬことのできない自分にただ絶望するのだ。

もし冒頭の自慰行為のパフォーマンスが、さらなる性的欲望や暴力的な痛みを煽るようなやり方で展開されれば、その行為の快、不快感は――少なくとも観客あるいはパフォーマーが新たな刺激に慣れるその時までは――劇的なショックとして機能しうるだろう。もはやありふれた表現と流されてしまうその行為の深刻さは、リデルのソロパフォーマンスの身を挺した訴えによって初めて暴かれる。そのような過激さによってでしか、ウェンディの、そしてリデルの絶望を共有することは出来ないのだろうか。彼女がそのような表現にすがりたくなるほどに観客は鈍感で、世の中はいまだ絶望的なのかもしれない。

自らの尊厳を否定し、一切の希望を手放すことでしか、女であり、生きることを肯定できないという彼女の叫びには圧倒される。だが、文字通りに彼女の身体が痛めつけられ、その存在が否定されることを「表現」として称揚し続けることは、究極的には一人のパフォーマーの死を期待することではないだろうか。彼女の叫びに耳を傾けない限り、それはただ観客のスキャンダルへの欲望に過ぎない。翻案元となった『ピーターパン』初版からすでに100年以上経ってなお、いまだに絶えることのない母性信仰に対するリデルの絶望が聞き届けられなければ、ウェンディの亡霊は自らの絶望を伝え得る、新たなパフォーマーを探し続けるだろう。私たちが求めるべきは、このようなパフォーマンスを必要としなくなる時であり、さらなる過激さを期待するのではなく、彼女のメッセージが古びる時を待ち望むべきなのだ。

ソロパフォーマンスが始まって少し経つところで、リデルは上海の地に降り立ったときのことを回顧する。異国の地で外国人として、この「地上に広がる青空」を謳歌するとき、その足元にアジア対ヨーロッパ、白人対黄色人種という、性別とは異なる抑圧の存在が広がっていることを感じながら、彼女はこれ以上ない解放感に包まれている。彼女が絶望の淵を一瞬だけ越える救いが、この言葉に込められている。その皮肉な喜びには決して寄り添うことは出来ない。だが、せめてそのあとに続く激しい絶望は共有したいと願う。

(2015年11月21日観劇)


 

[i] 私の観劇した回では、出版戯曲には掲載されていないスピーチが後半部冒頭に加わっていた。字幕はなく、アドリブで挿入されたものだと思われる。スペイン語に通じていないため語られた内容の詳細はわからないが、おそらく日本公演の前週に起こったパリの連続テロ事件への言及ではないかと推察される。