©宇壽山貴久子 『God Bless Baseball』作・演出:岡田利規、あうるすぽっと
©宇壽山貴久子
『God Bless Baseball』作・演出:岡田利規、あうるすぽっと

筆者は1年前、フェスティバル/トーキョー(以下「F/T」)14の総評を書いた。そしてその結び近くで、「F/Tはおそらく、今後しばらくは、西洋よりも、主として東アジア・東南アジアを視野に入れたものになる」と、また「今後のF/Tで発表される、日本に拠点を置く作り手の作品が、国外でも公演を果たすとして、その主な行先はおそらく、西洋よりもアジアの国々になる」と記した。さらに「そのさいには、行先の国と日本、双方で一定の反響を得ることを前提に作品が制作されるかもしれない」とも付け加えた。

この予測は当たらずとも遠からず、だったように思われる。今回のF/T15では、「東アジア・東南アジアを視野に入れた」点で、『ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン』の上演や、中国やマレーシアの同時代演劇シーンを扱った「F/Tトーク」があった。あるいは、「アジアの国々」を「行き先の国」とし、当地と日本の「双方で一定の反響を得ることを前提に」した作品として、韓国の人々との協働作業である『God Bless Baseball』(岡田利規作・演出)や『颱風奇譚』(ソン・ギウン作、多田淳之介演出)があった。

ただ、1年前はさすがに予測不可能だったことがある。いくつかの政治的事件だ。F/T15の会期中に起きたこれらの事件が、制作者たちの意図とは関係なく、今回のF/Tを少なからず色づけていた。

以下、各公演の詳細については他の書き手に譲り(たとえば徳永京子・藤原ちから両氏による簡にして要を得た報告がある。註1参照)、むしろ本稿では、いわばF/T15のランドスケープを振り返ることにしたい。

 

【ヨーロッパでの事件】

F/T15の会期は2015年10月31日から12月6日までの1カ月強。演目についてみると、公共劇場によるものとしてSPAC(静岡県舞台芸術センター)の『真夏の夜の夢』(宮城總演出)やパリ市立劇場の『犀』(ドゥマルシー=モタ演出)があり、劇団によるものして、地点×空間現代の『ミステリヤ・ブッフ』(マヤコフスキー作、三浦基演出、空間現代音楽)があった。一方、演目の大半を占めていたのはそれ以外の、フェスティバルでこそ観られる類の一連の上演だった。またこれらにくわえ、アートフェスティバルを主題にしたシンポジウムや、ポーランド・中国・マレーシアをそれぞれテーマとした複数の「F/Tトーク」が開催された。このように、制作主体・作り手の拠点や出自、協働作業のチーム構成ほかがヴァラエティに富んでいた点で、ラインナップは充実していた。

ただ会期が折り返しにさしかかったころ、フェスティバルの運営や内容に相当の影響を及ぼすある事件が発生した。11月13日のパリ同時多発テロである。まさにそのパリから市立劇場の『犀』が招かれており、F/Tでの公演はテロの約一週間後に実現されたが、ちょうどパリで開催中だったフェスティヴァル・ドートンヌの芸術監督でもあったドゥマルシー=モタは現地にとどまらざるを得ず、予定されていた来日を果たせなかった。また『犀』の公演自体は実にオーソドックスな演出で大きな驚きに乏しかったものの、事件によって現在のフランスが、また同国の極右の動きが大きく注目を集めたことにより、一定の時局性を得ていたように思われた。

 

©Arnold Groeschel パリ市立劇場『犀(サイ)』作:ウジェーヌ・イヨネスコ、演出:エマニュエル・ドゥマルシー=モタ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール
©Arnold Groeschel パリ市立劇場『犀(サイ)』作:ウジェーヌ・イヨネスコ、演出:エマニュエル・ドゥマルシー=モタ、彩の国さいたま芸術劇場大ホール

同じく影響を受けたのがアンジェリカ・リデル作・演出・美術・衣裳の『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』だ。これは上記のフェスティヴァル・ドートンヌで公演予定だったが中止され、その経緯にリデルは東京公演の冒頭、アドリブで触れていたように思われた。同作ではスペイン語の原題『Todo el Cielo Sobre la Tierra』(英語では『All the Sky Above the Earth』)が暗示する通り、「大空」(男性名詞cielo)を飛翔するピーター・パンを「大地」(女性名詞tierra)から仰ぐばかりのウェンディに光が当てられる。女性の生の悲哀がウェンディのそれを典型としてつきつけられるとともにリデル自身が自分の生もさらけ出し、最後には彼女の長大な独白が観る者を圧倒した。一方、ネバーランドと重ね合わせられる、また多数の若者が過激思想の人物に射殺されたことで知られるノルウェイ・ウトヤ島をめぐる経緯のさいは、同じ無差別殺人事件の起きた直近のパリを思い起こさざるを得なかった。

©JUN ISHIKAWA フェスティバル/トーキョー 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』作・演出・美術・衣裳:アンジェリ力・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)、東京芸術劇場プレイハウス
©JUN ISHIKAWA  フェスティバル/トーキョー 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』 作・演出・美術・衣裳:アンジェリ力・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)、東京芸術劇場プレイハウス

あるいは『God Bless Baseball』の作・演出を手掛けた岡田利規が主宰するチェルフィッチュはちょうど別公演の海外ツアー中だったが、あろうことか、客演先だったベイルートとパリ、双方の都市で連続してテロが起き、メンバーらはまさにその間近にいた。岡田はF/T15での制作中、彼らの安否を繰り返し気にかけざるを得なかったに違いない。

 

【アジアでの事件】

一方、この11月上旬にはアジアでもある大きな出来事が起きていた。ミャンマーでの総選挙と、アウン・サン・スー・チー率いるNLDの圧勝である。奇しくも同国への世の関心が集まったその直後、『ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン』は上演された。筆者が訪ねたターソーによる音楽公演は、伝統音楽の要素を取り入れた電子音楽と伝統舞踊を組み合わせ、オールスタンディングで聴衆をともに踊らせるもので、実に晴れやかであり、困難を克服して自由な国を目指す人々がいま思い描く明るい未来が重なるように思われた。二本立てのもう一方だった演劇公演は残念ながら未見だが、作・演出のティーモーナインはあわせて開催された映画上映会で上映された映画のひとつの監督でもあり、概要を読む限り、前年F/T14のモ・サ『彼は言った/彼女は言った』のように、ミャンマーの現代史と今後の展開について観る者を考えさせる内容だったと推察される。

©片岡陽太 アジアシリーズ vol.2 ミャンマー特集『ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン』 [Bプログラム]ターソー(音楽ライブ)アサヒ・アートスクエア
©片岡陽太 アジアシリーズ vol.2 ミャンマー特集『ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン』 [Bプログラム]ターソー(音楽ライブ)アサヒ・アートスクエア

 

この『ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン』は「アジアシリーズ vol.2」として上演されたが、これに先立つF/T14での初回では韓国の「多元(ダウォン)芸術」が特集されていた。そして1年前の稿で筆者が記した通りなら、シリーズ第3回で扱われる国はマレーシアだ。つまり同国の現代演劇シーンをテーマとした今回の「F/Tトーク」は、その予告編と位置づけられるものだったかもしれない。あいにくこのトークを筆者は訪ねられなかったが、同国の芸術には少なからず当局からの影響が及んでいる印象だ。だから次のF/Tではもしかすると、今回のミャンマーの場合に似て、同時代マレーシアの政治の動向を反映する(ように思われる)公演を観ることになるのかもしれない。

また先述のとおり、いわゆるアジア関連での今回の演目としてはさらに『God Bless Baseball』と『颱風奇譚』があった。ともに日本と韓国の作り手たちによる国際協働作業であり、両者とも相当に踏み込んだ政治性を伴っていた点で注目された(前者は現代に、後者は過去により軸足を置き、観衆に日韓史を振り返らせ、確認させ、考えさせる点で共通していた)。またあわせて見過ごせなかったのが、岡田・多田両氏の呼びかけで急遽開催された緊急イヴェント『韓国の検閲』である(堤広志氏による詳細な記録がウェブ上にある。註2参照)。韓国からチョン・ヨンドゥとコ・ジュヨン両氏が参加した計4名のやりとりからは、最近の韓国での舞台関係者に対する政治的圧力について語られた。一例はセウォル号沈没事件を想起させる劇場ロビーでの小規模パフォーマンスの上演禁止だが、アレゴリーが検閲対象にされたことが岡田には相当のショックだったようだ。またF/T14の「アジアシリーズ」初回で特集された多元芸術は公的助成の対象ジャンルから外されたともいう。韓国でのこうした一連の出来事はじゅうぶん「アジアでの事件」といっていい。

©鏡田伸幸 『颱風奇譚』作:ソン・ギウン、演出:多田淳之介、東京芸術劇場シアターイースト
©鏡田伸幸
『颱風奇譚』作:ソン・ギウン、演出:多田淳之介、東京芸術劇場シアターイースト

そして日本もまたアジアの国である。「アジアでの事件」ということでいえば、なお進行中のそれとして、福島原発事故をめぐる一連の出来事がある。東日本大震災から4年半強、福島と東京の人々の暮らしの差を再認識させる『ブルーシート』再演(飴屋法水作・演出)では、2013年初演時に高校生だったメンバーの一人がすでに母となり、避難先の仮設住宅で暮らすさまが映像出演の形で示された。これ以上ないほどに胸が締めつけられる思いがした。

©YosukeTakeda 『ブルーシート』作・演出:飴屋法水、豊島区旧第十中学校グラウンド
©YosukeTakeda
『ブルーシート』作・演出:飴屋法水、豊島区旧第十中学校グラウンド

 

【政治性の前景化? アジアの舞台芸術ハブとしての役割を増すF/T?】

ところで、今回F/T15のスローガンは「融解する境界」だった。また前回F/T14のそれは「境界線上で、あそぶ」だった。双方とも「境界」をキーワードとしており、その背景にはおそらく、国や文化圏、あるいはジャンルの境界をこえた制作が多く行われていたことがある。ジャンルの境界をまたいだ制作としては今回、たとえば安野太郎コンセプト・作曲、渡邊未帆ドラマトゥルク、危口統之美術による『ゾンビオペラ 死の舞踏』があった。ただやはりより強い印象を残したのは、作り手の出自やテーマの点で国や文化圏の境界を「融解」しようとする試みだった。そして興味深いことに、F/T15では期せずして、現実に世界各地で起きたばかりの事件と公演作品との境界もある意味で「融解」していたように思われた。

別の言い方をしよう。1年前の稿と同様、フィッシャー=リヒテのキータームを引くが、今回のF/T15では「再現の秩序」に対置される「現前の秩序」が、日本を含む世界各地でリアルタイムに展開する政治的・社会的事件を図らずも反映する形で支配的だった。すなわち、虚構の物語や過去の出来事が舞台上で再現されることよりも、むしろ作り手・演じ手がみずからの身体そのものによって、上演時に上演場所とは別の場所でまさに展開されている数々の事件を生々しく伝えているように思われたことが印象的だった。

また1年前、筆者はF/T13と14を比べたさいの全体的方針の変化として、いわゆる西洋からアジアへの地政学的シフトを指摘したが、今回F/T15の上記のようなランドスケープに鑑みると、一定の政治性が今後はさらに前面に出てこざるを得ないように思う。たとえばF/T15が幕を下ろして間もなくの12月末、日韓両政府のあいだでの従軍慰安婦問題「解決」が報じられ――米国がここで一定の役割を演じたが、この構図を『God Bless Baseball』はまるで先取りして示していた観がある――、年明けには北朝鮮による水爆実験や「人工衛星を積んだロケット」の発射、インドネシア・ジャカルタでのテロについてのニュースが続いた。日本の主なメディアで日々伝えられるこうした事件の数々のラインナップは、現在の日本に暮らす人々の多くが世界のどの場所での政治・経済・社会の展開に向けてアンテナを張っているかを示している。これらの地域での動きを、従来注視してきた欧米でのそれとならんで(あるいはそれ以上に)、いまの日本は気にかけざるを得ない。そしてこうした流れを今後のF/Tは反映して、アジアの舞台芸術――多かれ少なかれ政治的・社会的メッセージを伴った――のハブとしての使命をより負っていくのではないだろうか。

 


註1:「演劇最強論-ing:ひとつだけ」(http://www.engekisaikyoron.net/hitotsudake_f_201511/)、「演劇最強論-ing:マンスリー・プレイバック」(http://www.engekisaikyoron.net/playback201511/)。

註2:「SPICE:韓国の検閲」(http://spice.eplus.jp/articles/27036)。