宝塚歌劇団雪組東京特別公演『アル・カポネ』 ©宝塚歌劇団
宝塚歌劇団雪組東京特別公演『アル・カポネ』 ©宝塚歌劇団 禁無断転載

 宝塚歌劇雪組公演、原田諒作・演出の「アル・カポネ—スカーフェイスに秘められた真実」は、アメリカの禁酒法時代シカゴに君臨した名高いギャングを描く作品である。2015年5—6月に大阪のシアター・ドラマシティと東京の赤坂ACTシアターで上演された。
 宝塚という芸能は「男役の美学」を売りにしている。この美学は歌舞伎でいう立役(正義派)の美学で、敵役の「悪の美」とは違う。
 なぜ宝塚の主演男役は正義派でなければならないのか。男役とは単に異性装をして舞台に立つ女性ではない。そこには歌劇団の歴史が秘められていて、歌劇団の女子生徒が仮に男の記号を身にまといつつ社会に立ち向かっていく姿を言う。戦前のレビュー時代に、勇気ある生徒が世間の顰蹙にあらがいつつ断髪して、男役という役柄を確立させた時以来、「男役の美学」は社会の女性解放の機運と平仄を合わせて、成長してきた。
 演出家が反社会的なギャングを主人公にしたのは、「悪の魅力」に惹かれたためではなく、こうした男役のありかたを利用するためにほかならない。現実の男アル・カポネは悪役だった。これを第一レベルのドラマとすれば、男役によって演じられる時、主人公は逆転して輝き始め、そこに第二レベルの宝塚のドラマが生まれる。すなわちこの作品はメタ・ドラマであり、「宝塚の男役」論である。
 第一のレベルのドラマは映画によってよく知られている。舞台はこれを下敷きに使う。
 最初に1932年のハリウッド映画「スカーフェイス」(邦題は「暗黒街の顔役」)が引用される。映画はトニー・カモンテ(ポール・ムニ)という情け無用のギャングが縄張りを広げていく姿を描き、部分的にはカポネの犯罪歴を下敷きにしているが、実録物ではない。ことに主人公が妹に寄せる近親相姦的愛情は、イタリア・ルネサンス期に権謀術数をほしいままにしたチェーザレ・ボルジアが妹ルクレツィアに示した愛情を借用している。
 最後にギャングは妹の恋人を殺し、警察に包囲されて2人共に射殺される。これは一種の兄妹心中で、ますますアル・カポネとは関係ない。しかし題名に言うスカーフェイス(傷のある顔)はカポネの仇名なので、実録物のような印象をかもしだす。

 雪組の舞台は1929年のニュージャージー州・アトランティックシティ刑務所から始まる。アル・カポネはここに収監中の身ながら、特別室の独房に蓄音機を持ち込み、ナポリ民謡「カタリ・カタリ」を聴きつつ、禁止されているはずのバーボンを悠々と飲んでいる。ナポリは父祖の故郷。カポネは移民の子として、ニューヨークの下町ブルックリンで生まれた。
 子分たちがシナリオライターのベン・ヘクトを連れてくる。彼が「スカーフェイス」の台本すなわち第一レベルのドラマを書いた。獄中のカポネは、自分をモデルにした映画が作られると聞き、台本を入手していて読んでいた。シナリオライターは身の危険に怯えるが、ギャングの親分は意外に穏やかにバーボンを勧めつつ自分の半生を語って聞かせる。このようにして第二レベルのドラマが始まり、望海風斗が男役の魅力をつくして立役のカポネを演じる。
 若き日のカポネはブルックリンのクラブで働き、イーストリバーの向こうに摩天楼をつらねるマンハッタンに憧れて、「この国に生きて」を歌う。

俺はこの国に生きる
この自由の国で
I will be American
I will be American
いつかきっと

 このナンバーが作品の核心を語っている。演出家は、裏街道に生きて死んだ一人のギャングの野望ではなく、自由の国に夢と希望を託した一人のアメリカ人の夢の行方を追う。それはアメリカの歴史そのものを問い直すことに他ならない。同じ問題意識を鋭く提起したのは1920年代のアメリカ文学だった。
 17世紀の初め新大陸の東海岸に渡ってきた人びとは,西へ向かって開拓を進めたが、19世紀の末に至ってフロンティアは消滅してしまう。それと共に、本来はフロンティアに理想の国を建設しようとする夢を指した「アメリカンドリーム」という言葉が、物質文明にまみれた東部の都市における「成功の夢」に変質していく。20年代のアメリカ文学を代表するスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」がこの間の事情を描いて余すところがない。
 ギャツビーはアメリカ社会の本流のアングロサクソンではなく、傍流のドイツ系だった。彼の成功も酒の密売に関わるいかがわしいものだったが、そのことを初恋のデイジーには隠し、彼女に対してはあたかも「アメリカンドリーム」時代の騎士のように振る舞い、その時代錯誤によって身を滅ぼす。
 アル・カポネはギャツビーと同時代人で、さらに傍流のイタリア系だった。“I will be American”という叫びには、希望のかない難いことを知る者の苦い味が秘められている。
 彼はアメリカという国の可能性に向かって、貧しい境遇から抜け出すことを夢見たものの、結局マンハッタンにではなく、シカゴへ行くことになる。
 ブルックリンではイタリア系とアイルランド系のマフィアが抗争をくりかえしていた。カポネはイタリア系組織の末端のクラブで働いていた。それがこの男の生きる現実である。同じ店で働いているアイルランド移民の娘メアリー(大湖せしる)は死んだ父親の借金返済をアイルランド系組織に迫られていた。彼は体を張って彼女を庇い、その度胸を見込まれて、シカゴ・マフィアの幹部ジョニー・トーリオ(夏美よう)の片腕になった。メアリーも行動を共にしてカポネの妻になる。
 彼は商才に長け、酒の密売ルートを巧みに組織化する。そのこと自体は資本主義社会の美徳で、咎められることではない。ただしここは裏社会。ファミリーのトップが利益を独占するためにトーリオと自分を陥れようとしたので射殺し、ついに自分がファミリーのトップに立つ。
 政治的・軍事的センスにも長けていた。カポネ伝説として名高い「バレンタインデーの大虐殺」では、敵対するファミリーの機先を制してマシンガンで相手を急襲して皆殺しにする。この「ヤクザ戦争」は全米を震撼させ、市民の反発が激しくなるのを見ると、警察に自首して収監される。警察との取り引きで、罪名は「銃の不当所持」。刑期はわずか10カ月だった。
 こうしてアトランティックシティ刑務所に「避難」しながら映画の台本を読み、シナリオを書いたベン・ヘクトを子分に連れてこさせた。ヘクトを前に自分の半生を語り、シナリオの誤りをひとつひとつ指摘したうえで、意外にも彼は映画製作にクレームをつけない。
 「事実はひとつだ。だが、その捉え方は人の数だけある。だから、あんたが思うように書けばいいさ」  シナリオに書かれていることは、人びとがギャング一般に対して抱く幻想だ。俺の真実の姿は違うから、そんなことでは傷つかない。

宝塚歌劇団雪組東京特別公演『アル・カポネ』 ©宝塚歌劇団
宝塚歌劇団雪組東京特別公演『アル・カポネ』 ©宝塚歌劇団 禁無断転載

 ベン・ヘクトが命拾いをして退場すると、入れ違いにエリオット・ネスが登場し、「スカーフェイス」に替わって同じアメリカ映画、1987年の「アンタッチャブル」が、第一レベルのドラマを担う。
 10カ月の刑期を終えて出所したカポネが見たのは、折からアメリカを襲った大恐慌のため、家と職とパンを失った人びとの群れだった。彼は義侠心に駆られ、路上で市民に食料を配る。ネスはそこへやってくる。
 「善人面して配給なんかしたところで何の意味もない。今までお前たちが市民たちにどれだけの迷惑をかけてきたと思ってる。みんな辛抱してたんだ。それが今になってボランティアか。それも元はと言えば人の金だ。義賊を気取るのもいい加減にしろ」。
 映画のエリオット・ネス(ケヴィン・コスナー)は、強面の連邦政府財務省酒類取締局の捜査官で、アル・カポネ(ロバート・デ・ニーロ)が悪役であることに変わりはない。
 「あんたの言うとおりだ。だがな、この国を思う気持ちは誰にも負けはしない」  カポネはネスを自宅に連れて行く。ネスは偽名を遣い、正体を隠しているが、2人は不思議な友情を抱く。このあたりの展開は映画からは予想もつかない。
 舞台でエリオット・ネスを演じるのは若手の月城かなと。伝説の「美人の67期」と肩を並べる「花の95期」の逸材である。
 カポネは社会の表街道を歩みたかったと思う。本来の意味における「アメリカンドリーム」を実現することができたらどんなに良かったか。ネスにもその真情はよく分かる。彼はカポネの起訴をためらいさえするが、連邦政府財務長官アンドリュー・メロン(夏美よう2役)に、指示に従わなければ担当を外すとまで脅されて起訴に持ち込み、有罪の判決が下される。
 終幕はシカゴ・ユニオン駅である。アトランタ刑務所へ収監されることになったカポネが、警官にかこまれて現れる。ネスが近づき、公開された映画「スカーフェイス」のパンフレットを差し出す。
 「僕からの餞別だ」  「結局見ずじまいだよ」  「人間だれしも表に見えるものだけが真実ではない。そう思わせてくれた映画だよ」  ネスは悪逆非道なスクリーン上のギャングの向こうに、自宅で己の夢を語った素顔のカポネを見た。
 カポネは駅のコンコースに高くかかげられた星条旗に向かって、「この国に生きて」をリプライズする。

この国に生きている
この自由の国で
I will be American
I will be American
いつかきっと

これは遅れてきた青年がアメリカに寄せる切ないまでの片想いのドラマに他ならない。
 映画「スカーフェイス」「アンタッチャブル」はアメリカ社会の病巣を突いている。病巣は摘出可能である。宝塚の「アル・カポネ」は、「アメリカンドリーム」の成り立ちを問うことによって、アメリカ社会そのものに進行する回復不可能な病理を描いている。
 アメリカの病理を主題にする作品が、今の日本社会でどういう意味を持ちうるのか。男役がその問いに答える。
 女子生徒が仮に男装してアル・カポネを、しかも立役肚で演じる時、男役が男社会に対して切り結んできた希望と挫折の長い片想いの歴史が、カポネの夢の行方と重ね合わせてそこにふとよみがえる。