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みつわ会第18回公演『万太郎と松太郎』より「遊女夕霧」
みつわ会第18回公演『万太郎と松太郎』より「遊女夕霧」

 川口松太郎が好きだ。
 作品もさることながら、作品からうかがわれる、その正直な人となりが好きだ。
 嘘をつくまい、正直に生きよう、と思って生きているというより、そういう倫理的な判断をするまえに、ついなんでも素直に言ってしまう、そしてそれが習い性となった、川口の生きかたを好ましく思う。
 打算の働かないお人よしではない。つこうと思えば巧妙な嘘をつく。
 (そもそも、六十になるまで三人も妾を囲っていたのだから、嘘つきでなかったはずがない。『人情話 松太郎』で高峰秀子は「嘘のつけない川口先生」とも書くが、いっとう最初に「自分に真ッ正直で」と形容している。自分に嘘はつけないけれど、必要に応じて他人には嘘をつける川口の本性を鋭く言い当てている。)
 ただ、そういう狡さや目端の利くところがときどき見えても、それを笑って許せてしまうような子どものような素直さが川口にはある。
 そして意識家の川口は、そういう自分の正直さが作家としての強みになることも知っていた。腹蔵なくものを語るとき、その言葉はもっとも強く人の心を打つものだと体験上わかっていた。
 もっとも、そこまでの人なら、作家や芸術家でいくらでもいる。むしろそうでないクリエイター──体面や見栄のために人や自分に嘘をついても、素晴らしい作品を作り続けられる人──のほうがめずらしいぐらいだ。
 川口が特異なのは、意識家であっても自意識の合わせ鏡地獄に嵌まり込まなかったところだ。
 自分の正直さが売り物になる、とわかったアーティストは、誠実であろうとして、嘘をつかないことを自分に課そうとする。自分は正直だ、と宣言した途端、その言葉に嘘がないか検証をはじめる。あるいは、自分は嘘つきだ、と偽悪家ぶる。
 いずれにせよ、そこに無理が生じ、「自分」ではなくなる。
 川口は正直者であったけれど、正直であり続けることにこだわらなかった。自分を枉げてまで正直になろうとしない素直さがあった。
 今ふうの言葉でいえば「自然体を貫き通した」川口の言葉は、作家である以上当然自意識に裏打ちされているものだけれど、自意識にともなう強ばりや緊張があまり感じられない。
 それは戯曲の言葉としては「弱い」ともいえる。劇とは、まずもって自意識にまつわる劇を描ききろうとする劇作家の強い意志から生まれるものだからだ。意地を立てる。虚勢を張る。そういう人間が関わるとき、人生も芝居も劇的になるのであり、川口のようにできるだけ自分に正直でいようとする人間は本来劇には向かない。
 そうは言っても、ある時期の新派を文字通り背負った人間だから、川口はどんな状況が劇的であるかを熟知している。ごく普通の人間が、意地を張らざるを得ないような、強がりを言わざるを得ないような状況をうまく拵えて、劇をきっちり作ってみせる。そして新派らしく、主人公は死にはしないが、ある已みがたい思いを強いて諦めるところで終わらせ、観客の──何かを断念して生き続けることがときには死よりつらいことを知っている人生の達人たちの──涙を絞らせる。たとえば『鶴八鶴次郎』はそういう作品だった。
 だが傑作の名高い『鶴八鶴次郎』に私は川口の「無理」を感じてしまう。無理をしないのが身上の川口だと書いたばかりではないか、と論難されれば、無理ではなく、原作小説発表当時三十代半ばの川口の気負いを感じてしまう、と言い直してもいい。新派とはこうあるべきものだ、と固く信じて、自分の本来の性向に合わないものを力づくで作り上げてる感じがする。
 同じ一九三五年第一回直木賞受賞作の三作のなかでいえば、私はハッピーエンドで終わる『風流深川唄』がもっとも好きだ。板前の長蔵と門前仲町の深川亭の娘おせつが、紆余曲折あって結ばれる──人手に渡りかけた老舗料理屋を残そうと、意に沿わぬ男に嫁ごうとするおせつが乗った人力車を長蔵が襲っておせつを奪うのだから、日本版の、それも本家より三十年以上前に作られた『卒業』だ──という筋立ては、川口が老年になるにつれ隠さないようになった「我慢せずに欲しいものを手に入れようと努力する」というその健全なものの考えかた──現実的ではあるけれど、劇的とは決して言えない態度──をよく表しているように思えるからだ。
 あるいは、ほぼ省みられることのない最後の戯曲『地震』(一九八四年)をとってもよい。功成り名を遂げた四十代の洋画家江口甚平と、その二十九才の姪で駆け出しの洋画家畑中よし子の、同棲からはじまる二十数年間の奇妙な恋愛関係を描いたこの四幕物の喜劇は、男女同権に拘るよし子が籍を入れるのを拒否し、二人の間にできた息子・弘一の父親として甚平を認知させない、という状況を唯一の劇的対立の軸として描く。だがこの緊張は、甚平に文化勲章が授与されることとなり、親授式に夫妻として出席して天皇に会いたいというよし子の願いと、「お前が何時までも馬鹿な事いってるから鯰が怒ってるんだ」と度重なる地震にかこつけて、それでも葛藤するよし子を説得しようとする甚平の思惑が一致し、あっけなく解決してしまう。フェミニズムの伸張に一定の理解を示しながらも、地震と天皇という「超越的」存在によって男にとって都合のよい現在の社会を最終的に肯定するこの作品は、『魔薬』(一〇八〇年)からはじまる川口の最晩年における新劇の試みの一つとして位置づけられるとはいえ、新派の作劇術からは天と地とも隔たりがあり、『明治一代女』『鶴八鶴次郎』などの作者川口松太郎から想像もつかないものとなっている。だが案外これも、川口の非・劇的な率直さの表現かもしれず、そうだとすれば『風流深川唄』から通底するものは変わっていない、とも言えるのだ。

 前置きがすっかり長くなった。第十八回みつわ会公演は、「二人の東京人 万太郎と松太郎」と題して、川口松太郎「遊女夕霧」二場と、久保田万太郎「舵」一場の上演だった。みつわ会は一九九七年、演劇集団円の大原真理子・片岡静香・岡本瑞恵の三人によって結成された。久保田万太郎の直接薫陶を受けた文学座の龍岡晋のもとに大原らが集まって一九八〇年から開始した万太郎の勉強会が母体となっており、旗揚げ以降、文学座や新派の俳優も加わり、一年に一回のペースで万太郎作品の上演を行ってきた。演出は新派の大場正昭が担当することが多く、舞台美術は万太郎門下の中嶋八郎が本年二〇一四年四月に逝去するまで担当した(今回公演も中嶋名義)。一方で、文学座有志による「久保田万太郎の世界」と題する公演も二〇〇五年から行われるようになり、みつわ会とあわせて、万太郎作品の上演に立ち会うことは多くなった。
 だが川口松太郎作品は本家の新派でも公演されることが少なくなった。今年は一月に『明治一代女』、十一月に『鶴八鶴次郎』と二本も松太郎作品が上演され、来年一月には『寒菊寒牡丹』の上演も控えているが、これは異例といえるだろう。そして今度はみつわ会が「遊女夕霧」を上演すると知り、楽しみに会場の六行会ホールに赴いた。
 「遊女夕霧」は『小説新潮』一九五四年一月から十二月にかけて連載された連作短篇集『人情馬鹿物語』のうち、第三話「遊女夕霧」を作者自ら劇化したものである。百五十本を超える戯曲を執筆した川口は意図して戯曲集を残さなかったが、七回忌に遺族が編んだ私家版『追善七回忌 川口松太郎戯曲選』があり、「遊女夕霧」『明治一代女』『鶴八鶴次郎』など七本が収録されている。また松竹大谷図書館では上演台本も閲覧することができる。
 「遊女夕霧」の劇化にあたり、川口は原作小説にはない第一場をつけ加えた。主人公である遊女の夕霧は、当時の吉原の慣習で、売れっ子の花魁たちが競い合うようにして披露した積夜具をしたところだ。店先に飾る豪勢な新品寝具は、馴染みの呉服屋の番頭・与之助(小説では世之介)が恋人の夕霧のために買い与えたものだが、その費用を捻出するため与之助は奉公先の名前を借りて顧客に反物の予約を募り、半金を入れさせて騙しとった。長年の夢であった積夜具をかなえてくれた与之助が、自分のもとにやってきて浮かない顔をしているのを見た夕霧は与之助を問い質し、店の金に手をつけたと告白を引き出したところで第一場は終わる。そして、与之助から金を騙し取られた客の一人である悟道軒円玉のところに夕霧がやってくるという、小説で描かれた場面が第二場となる。
 演出の大場正昭は第一場をカットし、そのかわり『人情馬鹿物語』第一話「紅梅振袖」の冒頭部分を、第二場に登場する講釈師・桃山如燕を演じる菅野菜保之に朗読させる。

私はよく人から「君は江戸ッ子だな」といわれる。私の言語動作が東京人の特長を沢山持っているらしい。「江戸ッ子」の代名詞も、大正の末年まではなかなか羽振りのきいたものだが、近年では「江戸ッ子」を誇示する馬鹿者も殆どいなくなった。大正年代までの東京人は、「江戸ッ子」と呼ばれるのを得意にし、気前が好くて、任侠精神があって、人情の機微が判って──等々、好い事づくめの褒め言葉が並んだものだ。「江戸ッ子」の反対が田舎者で、田舎っぺと呼ばれるのが最大の侮蔑であったのも、「江戸ッ子」が尊敬される証拠であった。……が然し、「江戸ッ子」が物判りが好く、「田舎者」の愚昧な時世は三十年前に消えてしまって、今ではもう正統な意味の「江戸ッ子」がいなくなった。気前が好いのではなく、愚かな無駄使いが多いので、任侠といえば聞えは好いが、その実はお節介なおちょこちょい……私なぞも、二十歳前後には江戸ッ子らしく振舞う事に優越感を覚え、いくら寒くっても、メリヤスのシャツを着ずに我慢したり、そろばん玉の白木綿の三尺を乙に気取って朝湯に行き、手のつけられないような熱い湯の中へ我慢して入り、ゆで鮹のように赤くなって、
「江戸ッ子でえ」
と、やせ我慢を張ったものだ。どの一つを思い出しても、知性にもとづく行動はない。馬鹿々々しい見栄とやせ我慢に終始している。……

 ところどころ省略して引用したが、川口が作者として直接読者に話しかけていることがわかるだろう。菅野の役どころも「私」となっている。流れるような筆致で文意はとりにくいが、どうやら(一)三十年前と違い、現在の「江戸ッ子」は「正統」ではないこと(二)かつて「江戸ッ子」の内実を構成していた特質は、今や似て非なるものに変質していること(三)だから「私」は自分が「江戸ッ子」と呼ばれても得意にはなれないこと、の三点が述べられているようだ。だがこの後に続く箇所を読むと、冒頭部分にはもう少し深い意味が込められていることがわかってくる。この後川口は

地方から笈を負うて上京する田舎者の生活力の逞しさが、見栄坊の江戸ッ子人種を蹴飛ばし、地方人のねばりが人生の常道になって、脆弱な都会人は悉く失敗してしまった。私の恩人悟道軒円玉が深川の森下に住んでいたのは大正十二年の地震までで、震災後は浅草の三筋町に移って、悟道軒の面影はなくなってしまったが、その森下時代こそ、江戸ッ子の中の江戸ッ子らしい生活の最後の名残りといっても好かったであろう。

 と続け、講釈師を廃業して講談速記をはじめた悟道軒円玉のことを紹介する。「私は確かまだ二十一二歳であったと思う」と述べ、円玉の住み込みの助手として働くようになった自伝的作品であることを読者に示唆する。
 つまり、悟道軒円玉と周囲の人々の暮らしぶりを「江戸ッ子の中の江戸ッ子らしい生活の最後の名残り」として描き出すにあたって、調べた資料にもとづいて想像するのではなく、自分の目で見てきたものを写すのだ、と川口は主張していることになる。だから冒頭部分の「自分は正統な江戸ッ子ではない」という自嘲に思えた告白も、じつは「だが自分は正統な江戸ッ子を知っている」と誇り、自分の語りに説得力を持たせるものであったわけだ。

みつわ会第18回公演『万太郎と松太郎』より『遊女夕霧』
みつわ会第18回公演『万太郎と松太郎』より『遊女夕霧』

 演出の大場が第一場をカットした理由は二つあるだろう。第一に、費用と時間の節約。第一場では夕霧のほかに三人の遊女が登場し、女優も余計に必要だし、衣裳にも金がかかる。第二に、第一場そのものの出来の悪さ。第二場が地味過ぎるので、人の出入りも多く派手な芝居のできる第一場を川口がつけ加えたのは明らかだが、豪華な衣裳を見に来るかつての商業演劇の観客ならともかく、今の観客には二つの場の雰囲気が違いすぎて不統一感がより強く感じられるはずだ。妹分の遊女に花魁が意見する、という設定も、自作『明治一代女』と同じ、花井お梅ものである伊原青々園作・真山青果脚色『假名屋小梅』第一幕第二場(「小梅と一重」として独立して演じられる)と似ていて、二つの作品を知っている観客には興ざめということもある。
 その代わりに「紅梅振袖」の冒頭部分を新たに挿入したことで、二つの効果があげられた。第一に、この「前置き」で第二場の世界がもっと深く掘り下げられる。悟道軒円玉が実在の人物であり、かつ作者川口松太郎の直接の知己であったことを示し、小説同様、現実とフィクションの世界が地続きであると示唆する。平凡な日常生活を営む円玉の周囲に集まる人々の非凡なドラマを描くという小説の趣向がより生かされる。第二に、おそらく大場は意図していなかったことだが、菅野菜保之演じる「私」の、ねっとりと絡みつくような語りによって、作者・川口独特の──新派の作劇術が依拠する、「強ばり」の自意識とは異なった──自意識がこの物語の枠組みを形作っていることが観客に示される。

 「遊女夕霧」における川口の自意識は、自分の表現している世界への違和感として表現される。典型的な新派の世界を作り上げることへの躊躇いや照れのようなものが見え隠れする。第二場では、円玉の家を訪れる夕霧は「荒い縞お召に紫縮緬の羽織、素人らしく作っているが、吉原の遊女を隠しきれない感じ」とト書きで書かれる。小説ではもっとはっきりと「堅気ではない姿や形が、人目でわかる格好」「白粉焼けした顔が、玄人らしく光っている」と書かれ、また「その頃の花魁は、郭の外へ出て歩くには、警察の許可が必要だった」とも説明される。吉原という異界からやってきた花魁が、「素人」の──つまり一般人の──格好をして、芸人上がりとはいえ堅気の家にいきなりやってくる不思議さ、不気味さ。しかも彼女は「初めてお目にかかります。私は、佐藤と申しまして、ご迷惑をおかけしました木村芳次郎の縁続きでございます」と挨拶する。佐藤は夕霧の本名であり、木村芳次郎は呉服屋番頭・与之助の本名なのだが、そういう「芸名」を持っている人々がいきなり本名を名乗ると人々は戸惑うものだ。円玉ならずとも「え、話が見えねえよ」と言いたくなる。
 これが第二場におけるもっとも巧妙な演劇的仕掛であることは説明を要しないだろう。遊女が一般人に「なりきった」と思い込んでそう演技するのだが、傍から見れば遊女であることが見え見えという面白さ。現代でいえば、芸能人がサングラスをかけて一般人の出入りするレストランに入ってくるとかえって悪目立ちするようなものだ。しかも夕霧の正体は、素人娘とは到底思えぬその言動ゆえにすぐに明らかになる。愛人の与之助は詐欺の未決囚として収監されているが、夕霧が自分のせいだから自分を罰してくれと検事に泣いて頼んだため、可哀想に思った検事から、前取り金の被害者十七人全員から借用証をとってこい、金を騙し取られたのではなく十七人全員が与之助に金を貸したのだという証明をすれば、起訴猶予にしてやると言われ、一軒一軒回っていることを夕霧は説明する。話を聞いた途端、罪をごまかそうとするのかと激怒する円玉も、夕霧の泣き落としと、一転しての脅迫に気を呑まれ、老妻お峯の仲介もあって借用証を書いてやることになる。「先生、もし与之助が罪に陥ちたら、改めて御挨拶に伺います」「御挨拶とは何だ」「可愛い男を罪に陥としたお礼にです」という夕霧と円玉のやりとりを聞くと、正体を見破られた弁天小僧の啖呵を聞いたとき同様、胸がすく思いがする。
 だがその一方でこの演劇的仕掛が「演技すること」と「素に戻ること」との劇的緊張関係の上に成り立つものであること、すなわちメタシアトリカルなものであることを考えると、はたしてこれは新派なのだろうか、という疑問が起きる。歌舞伎にはこのようなメタシアトリカルな仕掛はある。だが新派とはよくも悪くももっと「ベタな」もの、つまり「演技をしている自分」を疑うような瞬間が微塵もあってはならないものではなかったか。女形をはじめとするさまざまな「芝居の嘘」を徹底して信じるのが新派の面白さであるとすれば、夕霧の「素人お嬢さんコスプレ」を相対化するこの場の面白さは、もっと別のものの面白さではないのか。
 そしてそれこそが川口戯曲の面白さなのだ。「壮士芝居」「書生芝居」と言われた初期新派は措くとして、大正期以降の新派の殆どの作品は「少し前」の時代を舞台にする。登場人物も「今と違って」貧しかったり、無学だったりする。そこには「芝居じみた」嘘があり、無理がある。その嘘を力づくで、強引に成立させるところに新派の魅力はあり、その人工性にこそ観客は熱中したのだ。だが川口松太郎はそういう「無理」が本当は苦手だった。新派の美学とは、今は永遠に失われてしまったものを「芝居の嘘」の力でこの場この時だけ復活させてみせることにある、と川口にはよくわかっており、その美学に則った作品を作り上げることができていても、どこかで「そういう『芝居の嘘』はもういいよ」と呟くのが川口戯曲(とくに第二次世界大戦以降の作品。川口じしん、それ以前の作品を「古典新派」と区別して呼んでいる)なのだ。
 「紅梅振袖」の「私」の語りを入れることで、大場はこういう川口の自意識の存在を観客にはっきりと意識させてくれた。「江戸ッ子」をめぐる論議は、「正統」とされるものに対する川口の両義的な態度を明らかにする。(一)自分自身は「正統」ではないが(二)自分ほど「正統」を知っているものはいない。ここで「正統」を「新派の美学」と置き換えても同じことだ。だから川口は自分の表現している世界に違和感を覚え、それを作品内でメタシアトリカルなコメントとして表現する。大場演出は「遊女夕霧」の世界を的確に、深く表現することと同時に、川口の「素直さ」ゆえのその世界の反発も同時に共存させていた。

 夕霧を演じた大鳥れいは大場の(おそらくは)手取り足取りの演出に忠実に従い、好演していた。ただ大鳥には遊女らしいところがなかった。夕霧と違って、良家の子女のふりをして円玉の家にやってくると、ただ良家の子女のようにしか見えなかった。大鳥の持って生まれた品のよさが災いして、この作品のメタシアトリカルな仕掛はその大本のところで作動しなかった。大場はそのこともよくわかっていたので、第一場にかえて「前置き」を入れたのだろう。夕霧が「袂からピンク・ジョーゼットのハンカチを出して涙を押え」て「与之さんのお蔭で、生まれて初めて裁判所へも行きました」と語りはじめるところで、大鳥はピンク・ジョーゼットのハンカチを出さなかった。ピンク・ジョーゼット、すなわち桃縮緬のハンカチは夕霧が「玄人」であることをはっきりと示す記号であり、彼女がそれを取り出したとき、観客の夕霧の「コスプレ」に感じる違和感は最大になるはずなのだが、大場が川口の指定を無視したのは、大島にそれをやらせればメタシアトリカルな仕掛の不作動がさらに目立ってしまうからだった。今の座組でできることとできないことをしっかり見きわめ、できる範囲で新派の美学を施し、そうすることで川口の反新派性を引き出す大場演出は近ごろに珍しい知的な演出だった。