維新派『透視図』 撮影:井上嘉和
維新派『透視図』 撮影:井上嘉和

 「ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹……」大阪の夜のネオンを川面に映した安治川を借景にして、三十六メートル四方の巨大な野外舞台が広がる。その上に一辺約五・五メートルの正方形の「浮島」が四行×四列で等間隔に並べられており、いつものようにお揃いの制服に身を包んで登場した少年少女たちがその浮島の上で、祭文とも詩句ともつかぬ短いフレーズをテンポよく唱えながら、規則的な動きを繰り返す。十月末にしてはめずらしく暖かい夜、維新派の新作『透視図』(構成・演出=松本雄吉)を見ながら、私はその約一か月前に東京芸術劇場で上演された藤田貴大演出による野田秀樹『小指の思い出』を思い出していた。
 『透視図』と『小指の思い出』との共通点は、人を現実から眠りへ、夢へと誘う「ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹……」という呪文がどちらの作品でも唱えられる、というだけではない。あるいは、どちらも少年たちが主人公だ、というだけでない。大阪では十年ぶりの野外劇という『透視図』は、俳優たちが広い舞台を所狭しと走り回る、という点で、『小指の思い出』を初演(1983年)した、かつての夢の遊眠社の舞台を思い起こさせる。そして何よりも、言葉の意味以上に音の響きを重視して台詞が発せられるという点で、今回の藤田貴大演出とよく似ていた。

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 松本雄吉の生み出す維新派作品は、ヂャンヂャン☆オペラと称しはじめた九〇年代初頭すでに、唯一無二の様式をもったものとして認識されていた。けれども、他の集団・個人の追随を許さないような独自性と同時に、日本近代演劇が歌舞劇として再生するしかなかった運命を見事に体現しているという意味で、維新派の作品は他の集団・個人が見習うべき「手本」ともなってきた。
 「踊るな動け。歌ふな語れ」という小山内薫の「絶叫」以来九〇年近く経っても、日本近代演劇はその言葉に呪縛され、感覚や感情ではなく意味や論理の伝達に重きを置く形態の演劇、一定の長さの時間の持続を舞台に表象し、その持続の感覚を観客に共有させることを目的とする形態の演劇を模索し続けてきた。「近代劇」「リアリズム」という符牒の与えられたその種の演劇は、一九五〇年代に広汎な観客の支持を得て、日本の演劇文化に定着したかに思われた。だがその普及には、数々の俳優たちの名人芸によるところが大きかった。杉村春子、滝沢修、小沢栄太郎といった名優たちが死んだり、舞台から去ると、再び「新劇」はその勢いを失った。
 それと相前後して登場したアングラ演劇は、いったんは小山内の呪いから自由になったように思われた。台詞はふたたび抑揚をつけて歌われるようになり、それ自体断片的・複数的な物語が語られるようになるとともに、はじめ ─ 中 ─ 終わりという一貫性を時間表象として舞台上に提出することにこだわらないようになった。劇中で使われる既製の音楽は、観客の情動を直接──つまり、台詞や他の舞台表象を介さず──刺激するようになった。公共に向かって開かれた言語よりも、私的で閉じられた言語のほうが好まれるようになった。
 とはいえ、アングラ演劇の「主流」は「意味の専制」をひそかに支持しており、その傾向は八〇年代以降の小劇場演劇にも受け継がれた。唐十郎は特権的肉体論を唱える一方で、緻密に構成された戯曲を書き、戯曲の言葉が伝える意味を役者の身体が具現化することに心を砕いた。唐の作品はしばしば「わけがわからない」ほど筋が入り組んでいるし、ナンセンスな言葉遊びはふんだんにあるが、物語を語ることに唐の情熱が捧げられていることは明らかだった。明確で誰にでも分かるような意味はそこにはなかったが、全体として何かを言っているのだ、ということを観客は感知したし、観劇の間集中して観客が探し求めたものも「意味」だった。八〇年代小劇場演劇の寵児となった野田秀樹もまた、唐十郎の影響のもと、複雑な筋を詩的言語で通じて語ることで意味を求める観客を幻惑し、魅了した。
 だが野田が唐と違っていたのは、観客を煙に巻き、もっと「意味」を理解したいがそうできない、という一種の欲求不満の状態に置くことで観客の支持を集めていると知りつつも、必要以上に思わせぶりな態度をとらなかったことだ。むしろ野田は、自分が紡ぎ出す物語の意味を観客にもっと理解してもらいたいと考え、商業演劇と見紛うばかりの「ベタ」な演出を作品に施した。野田作品はよく笑いが多い、と言われるが、野田の笑いは筋のわかりにくさを観客に必要以上に意識させない仕掛けとして使われていたことも見逃してはならない。「わけがわからない」けれど「面白い」「笑える」。八〇年代にはすでに「わけのわからなさ」は「けれど」という逆接の接続詞とともに使われるようになっていた。わかりやすい「意味」を求めるのは作り手だけだけではなく、観客の意向でもあった。
 その結果、意味と非意味、台詞劇と歌舞劇、時間の持続と断絶、という両極に引き裂かれ、そのどちらでもない「中途半端さ」を八〇年代以降の日本の(小劇場演劇に限らず)現代演劇は抱え込むことになっていった。対照的に、維新派は——といっても私がはじめて見たのは、汐留・旧国鉄コンテナヤードで上演した『少年街』(1991)だが——「動く、話す」台詞劇ではなく、「踊り、歌う」歌舞劇をその初期から追求し、今日に至るまでその姿勢はぶれていない。

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維新派『透視図』 撮影:井上嘉和
維新派『透視図』 撮影:井上嘉和

 今回の『透視図』もまた、何か統一した意味や物語を求めても無駄に終わる。なるほど、参考文献に挙げられた『通天閣』の著者・酒井隆史が幻視する、大阪という土地の古層の掘り起こしは作品全体を貫く主題として機能している。

「ほら、あの四軒長屋、端から二番目が私の生まれた家です。右隣は車引きのターさん、人力車です。フィリピンから帰って車引きをはじめた人で、フィリピンのベンゲットで道路や橋を作った話をよくしてくれました。おおきいなったらフィリピンへ行けと、幼い私に云ってました。左隣は大工のマサさん。将棋を教えてもらいました。その隣はダンスの先生、タイさん。タイさんはもとは落語家でしたが、ある日突然呂律が回らなくなり、落語を話せなくなりました。みんなの心配をよそに、タイさんは羽織を脱ぎ、洋服を着て、ダンスの先生になりました……」

 中盤で語られる男の思い出話は、高度成長以前の前近代的な匂いを色濃く残す大阪の姿を提示する。
 大阪の歴史を背負っているのはこの無名の男だけではない。主人公の少年はガタロ、すなわち川底の金屑拾い、と呼ばれている。明治期以降、近代工業都市として発展してきた大阪をその最下層から仰ぎ見る立場にいるのがガタロだ。また、ガタロという商売が大阪で成り立ったのは、浪華八百八橋という言葉が残るように河川や橋が多かったからであることを考えれば、近世以降、河川交通による交易で富を蓄えた商業都市としての大阪も浮き彫りになる。
 同様に、もう一人の主人公である少女ヒツジは祖母が語ってくれた話を繰り返す。

「ワタシがおじいさんと出会ったのは、泥の川。おじいさんはその頃、浚渫船に乗っていた。浚渫船というのは運河の底にたまった泥を、大きなクレーンで浚い上げる船のこと。泥がたまりすぎると船が行き来できなくなるからね。浚渫船が作業を始めると、川が濁ってたちまち泥の川になる。濁った泥の川でおじいさんたちが働くのをワタシは飽きずに堤防から見ていた……」

 そして「島から出てきたウチナーチュ」である祖母はヤマトンチューのおじいさんと「国際結婚」をする。1951年から1972年までアメリカの施政権下にあった沖縄は文字通り「異国」であったから、「国際結婚」はたんなる比喩以上のものであったかもしれない。いずれにせよ、これらのエピソードが語られることで、今や覆い隠されて見えない都市の古層が露わになる。
 歴史と共存するかたちで、現在も描かれる。ヒツジは、二六〇万人の人口を抱え繁栄する現在の大都市大阪を高層ビルの屋上から鳥瞰する。少年は通り魔に刺されて病院に運ばれ、病室の窓から眼下に広がる大阪を眺める。上からの視線と下からの視線、過去と現在が同時に存在し、交錯する「夢の時間」、過去でも現在でもない時空間が舞台に現出する。
 けれどもこうして断片的に提出されるいくつかの意味は、圧倒的な多さの非意味の「ノイズ」にかき消される。「今里ナウマンゾウ」「桃谷類人猿」「道頓堀サウルス」「新世界のゴジラ」少年たちが虚実とりまぜた動物の名前を、化石が発掘された場所にちなんで名づけられたかのように叫ぶ。「高層ビル」「オフィス街」「裁判所」「造幣局」「公会堂」「放送局」「パラボラアンテナ」「高速道路」少女たちが現在の大阪のランドマークを羅列してみせる。
 あるいはこれらの台詞を言ったあとに俳優たちが浮島の間にある溝を走って跳び越え、浮島から浮島へと移動していくときの圧倒的な運動量もまた意味を凌駕する。かつて夢の遊眠社の舞台もそうだった。運動選手同様、俳優が肉体をその限界まで酷使しているのを目の当たりにすると、私たち観客はそれが何を意味しているかなどと考えることをせずにただ心を動かされる。俳優たちが動き続けるのは、彼らを突き動かす物語があるからだとわかってはいるが、運動を見守ることが大事であり、その物語を想像することは不純に思えてしまう。
 だから『透視図』全体から受ける印象は、維新派の他の作品同様「わけのわからない」ものになる。約二時間の上演時間が七場に区切られていることもあって、何かの意味や物語が一貫して語られていると観客は受け取れない。いちばん近いのはコンテンポラリー・ダンスだろう。精密で力強い振付・動きや、舞台で起きていることからほどよい距離をとった内橋和久の音楽は、これがコンテンポラリー・ダンスだったとしても遜色はないことを示している。だが言葉は語られ、台詞は歌われる。そこにわかりやすい意味はないと理解していても、観客は台詞があれば、何かがある、と思いたくなるものだ。だがその願いはかなえられない。
 結局のところ、維新派は能のような、あるいは歌舞伎舞踊のような、歌舞劇なのだ。意味の強度で人を圧倒するのではなく、形の美しさでまず魅せる演劇。終盤から幕切れにかけての展開は圧巻である。浮島と浮島の間にある溝に水が満ちていき、背後の安治川の借景と一体化する。ヒツジの祖母が十三歳のとき大阪にやってきて、酉島、四貫島、桜島と移り住み、「都会の島めぐり」をしたとヒツジが語る台詞を覚えていれば、十六個の浮島が並ぶ舞台は川によって区切られた大阪という都市そのものを表しているのだ、と思い当たる観客もいるだろう。だがそんな「意味」も、水しぶきを跳ね上げながら「川」の中を歩いたり走ったりして移動する俳優たちの姿を見ているとどうでもよくなる。「川を見つけて川を上ろう/川を見つけて川を下ろう」と声を揃えて台詞を唱えながら、彼らが動き回るさまに息を呑む。
 幕切れ近く、少年たち、少女たち、男たち、女たちは、一人一人、高さ約六メートルの丸太が立ち並ぶ舞台最後部に向かって「川を渡」っていく。三十九人の俳優が、最後列に並ぶ四つの浮島を取り囲むように立ち並ぶと、それぞれポーズをとって静止し、客席を向いたり、 また背を向けて安治川を見やったりする。数えた限りでは百灯余りと、決して多いとはいえない照明機材が作り出す明暗対照法(キアロスクーロ)の効果とあいまって、絵のように美しく、緊張感がある。

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東京芸術劇場『小指の思い出』 撮影:園田昭彦
東京芸術劇場『小指の思い出』 撮影:園田昭彦

 藤田貴大の演出による『小指の思い出』は、維新派が歩んできた道に野田秀樹作品を再び引きずり込もうとする試みだった。ただでさえ「わかりにくい」物語を丁寧に語ることを藤田は二重の意味で拒絶した。第一に、藤田は物語を五つのプロローグ、十のチャプター、五つのエピローグに分割した。原作戯曲がかろうじて保っていた時間的因果関係は断ち切られ、さらに藤田の自作ではお馴染みのリフレインが挿入されるので、原作戯曲を知らない者にとっては、そもそも『小指の思い出』がどんな物語すら分からないものになってしまった。たしかに、各プロローグ、各チャプター、各エピローグの冒頭には、「羊」「正体不明」「世界地図」のように、ブレヒト劇であればプラカードといわれるだろう「小見出し」が舞台の壁に投影されたが、それらは事前に上演内容を十全に説明するものというより、落語の演題同様、作品を見てはじめてわかる符牒に近いものだった。それは歌舞伎の見取り上演のようなもので、各場面は独立して演じられ、それぞれ見所はあるのだが、全体を通して一つの物語を思い浮かべるのは至難の業だった。また夢の遊眠社版では野田秀樹が女装して演じた、主役の粕羽聖子を飴屋法水と青柳いづみの二人で演じたことで、登場人物の性格を理解することが困難になったということもあるだろう。
 第二に藤田は、各々十分程度の長さに分割された場面とともに音楽を演奏することで、意味よりも感覚を伝達することに関心があることを示した。初日から数日間は、演奏にかき消されて台詞がよく聞こえないという不満を抱いた観客もいたようで、その後は音響も「改善」され聴き取りやすくなったという。それでもいったんバラバラに解体されてしまった物語を組み立てるのは難しかっただろう。
 物語を語り、意味を伝達することを拒否した藤田がかわりに目指したのは、『小指の思い出』を二十曲入りの一枚のCDに見立て「演奏」することだった。日本語戯曲として屈指の美しさを誇る夢の遊眠社時代の野田の台詞を楽曲の歌詞のように考えて、詩的言語が本来もつ音楽性を最大限に引き出し、ミュージカルのナンバーのように意味でもありメロディでもあるようなものに変えてしまうことだった。
 もちろん、夢の遊眠社時代の野田もまた、自分の書いた台詞を歌った。粕羽聖子は1960年代日本の当たり屋であるが、中世のニュルンベルクで魔女と指弾されて火あぶりの刑を宣告された女でもある。十字架に吊るされ、火にあぶられながら粕羽聖子の言う台詞「朝から雪降りつもるニュールンベルグの町の下からどうしようもなく現実の町が湧きでてくる。だから、中世の衣を被るのはそろそろよしにしようじゃありませんか」は、この作品の主題である、現実と妄想の対立、そして妄想の敗北を意味している。だが、当時の観客にとってそんな意味はどうでもよかった。今でも耳に残る野田のしゃがれた声が抑揚をつけてその台詞を語るのを聴くと、私たちはただその美しさに、心地よさに涙した。観客の情動に直接訴えかけるという点で歌舞伎の数々の名台詞に匹敵する、声を張った野田の名調子を当時の観客はまず聞きにいったのであり、その声に溢れる切実さを自らの身体の情動へと変貌せしめてはじめて、妄想に耽る少年時代は終わり「大人」として苛酷な現実に立ち向かわなければならない、という野田の紡ぎ出す物語が「腑に落ちた」のだった。
 藤田は『小指の思い出』のビデオを高校時代繰り返し見たと語っている。だから藤田にとっても夢の遊眠社時代の野田作品の魅力は、役者・野田秀樹が作り出す「音楽」であり、その戯曲の台詞に潜む音楽性だったのだろう。そしてこの作品の意味や物語の内容は、『小指の思い出』をよく知っている人間にとっては分かりすぎるほど分かっている。だから藤田は今更物語を語り直したくなかったのだ。ただその美しい音楽と詩の部分を取り上げて、それ以外の「余分な」要素をできるだけ排除したかったのだ。
 藤田が演出したのが誰でもその筋を知っているような「名作」であれば、藤田が自らの美的感覚に忠実に従って作品を再構成した舞台はもっと評価されてしかるべきだったろう。だが『小指の思い出』は「忘れられた名作」であり、その真価を知る観客はごくわずかだった。なぜそれが忘れられたかというと、野田秀樹本人がもっと単純でわかりやすい物語を、「意味」を志向するようになり、歌舞劇の傑作としての過去の戯曲の再演をせず、詩的興趣溢れる台詞を紡ぎ出すことをやめてしまったからだ。そしてそれは八十年代以降、日本の小劇場演劇がたどった、どっちつかずの中途半端さを象徴するものだった。
 野田はその才能の最良の部分を犠牲にすることと引き換えに広汎な観客の支持を得た。劇詩人として同等かそれ以上の才能のある唐十郎は、野田ほど「ベタな」演出をせず、物語を語ることに情熱を傾けながら、自らにとっての美の造形にこだわったゆえに、野田ほど広汎な支持を得られなかった。今回の藤田演出は、唐の自作演出にも似て、観客に物語をわかりやすく提出することを殆ど念頭に置かず、自分が愛する作品を自分の愛し方とともに示すことにこだわった。

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 観客はいつの時代も意味や物語を求めるものだし、所詮演劇は客が求めるものに応じる興行だ。だから唐十郎の「マイナー路線」を賞揚し、野田秀樹の「メジャー路線」を批判しても仕方ない。日本の演劇が歌舞劇に立ち戻っていかざるを得ないことを承知しつつ、それでも申し訳程度の意味や物語は必要だと割り切った平田オリザたちは、そのどちらでもない第三の道をとっていたりもする。けれども愚直にも——というより、ただ自分の美的感覚にひたすら忠実であろうとしただけかもしれないが——歌舞劇の上演を追求してきた松本雄吉の『透視図』を見て、さらに若さゆえに自分の美的感覚だけを信じて「無理筋の」演出を施した藤田貴大の『小指の思い出』を思い出すことになって、日本演劇史はこれまでとはほんの少しだけ違う道を歩くことになるのではないか、という「希望」を私は抱くようになった。意味や論理ではなく感覚や感情が伝達されるのを楽しみ、息詰まるような持続する時間ではなく、途切れに途切れになった時間を愛でるのも演劇の正しい鑑賞のしかただ、とはっきりと意識する観客が増えれば。『透視図』や藤田演出『小指の思い出』の面白さは原理的には言葉にできないものであり、だがそれゆえに記憶から消し去るのではなく、ただ面白かった、という記憶さえ持続すればこれらの作品を愛したことになるのだ、と考えられる観客が増えれば。歌舞劇である伝統演劇との対抗上、近代演劇は台詞劇として意味や物語を追求しなければならないと考えた小山内薫の呪縛が解ければ。「ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹……」という呪文のかわりに、そんなことを唱えて、私は『透視図』の会場となった中之島GATEサウスピアからホテルへの帰途についた。