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維新派『透視図』 撮影:井上嘉和
維新派『透視図』 撮影:井上嘉和

 木枯し一号が吹いた10月27日、維新派『透視図』を見た。松本雄吉構成・演出、内橋和久音楽による、大阪では10年ぶりの野外公演。場所は大阪湾にほど近い、安治川沿いの中之島GATEサウスピア。パイプと丸太で組まれた劇場に入り、まず目の前に広がるのは緩やかにうねる川の流れと遠くに林立する梅田ビル群の夜景だ。舞台は4×4に配された16の「島」から成る。私には、江戸期大坂に造られた島の数々、あるいは運河で碁盤状に仕切られた工場街にも見えた。
 その島と島を結ぶ黒い溝を少年たちが走る、走る。彼等は、次から次へとさまざまなステップを踏み、切れ切れの大阪弁を発しながら、走り去っては、また現れる。その動きは水の流れに似てじつになめらかで、重力を感じさせない。その集団の走りにこちらが少々飽いたころ、軸となる少年少女が登場し、物語は動きはじめる。祖母が朝鮮半島から大阪に渡ってきたという少女(「ヒツジ」)は、東京からこの町にやってくる。大阪に住む少年は通りすがりの若者に刺され、瀕死の床で繰り返し「羊」の夢を見る。誰のものとも分からぬ夢の中で、「羊」を縁に二人は出会い、言葉を交わす。そこでは川の浚渫作業の労働者(「がたろ」)や沖縄出身者、在阪韓国・朝鮮人の姿が、現代の無差別殺人と隣り合わせに、いわば新旧の大阪が混然一体となったかたちで描かれる。近現代の大阪の歴史を俯瞰して、通時的に見るまなざしには、熊本天草に生まれ大阪四貫島で育った松本雄吉の個人史が、大きく係わっているのだろう。そしてこのことが、ともすれば洗練や叙情に傾きがちな作品を、「現実」に引きとめる太い杭となっている。またこうした物語の合間に、「あかんねん」「あかんねん」と連呼するナンセンスでとぼけたシーンが挟まれるのも、維新派らしいおおらかさだ。
 前作『MAREBITO』(2013年10月 岡山・犬島)の古代日本からアジアにおよぶ壮大な構想、夕闇に浮かぶ瀬戸内海の島々を借景としたスケールから比べると、今回の舞台は総じて小ぶりな印象を与える。とはいえ寒風吹きすさぶなか、水を湛えた舞台の溝を少年たちがゆっくりと歩み、舞台奥に消えてゆくラストは、彼等がそのまま安治川の闇に吸い込まれていくようで、一瞬胸がつまった。

HMPシアターカンパニー『アラビアの夜』photo:Kohrogi Tomoka
HMPシアターカンパニー『アラビアの夜』photo:興梠友香

 エイチエムピー・シアターカンパニー『アラビアの夜』は、まずその上演スタイルに驚かされた(11月9日、伊丹アイ・ホール)。Aチームは1967年生まれのドイツ人劇作家ローラント・シンメルプフェニヒの戯曲の翻訳版(大塚直・訳)を、休憩を挟んでBチームが、ベルリンから大阪に場所を換えた翻案版を上演した。ストーリー展開はほぼ同じで、しかし台本演出の大きく異なるA・Bの舞台が、あわせて2時間半にまとめられていた。いままでこうした連続上演に出会ったことがなく、こんな手もあったのかと、その「コロンブスの卵」的思いつきに感心した。
 とあるマンションの8階の一室、二人の若い女性が暮している。一人は仕事から戻ると記憶を失うようにソファで眠り続ける。もう一人は毎晩彼氏の訪れを待っている。ところがある日、マンションの水道が故障。中年の管理人が修理を始めるが、うまくいかない。彼氏の乗るエレベーターが途中で停まり、彼は閉じ込められる。階下に彼氏を探しにいった女は、マンションの鍵を忘れ、外に締め出される。そして眠り続ける女を、向かいのマンションから何度も盗み見ていた男が、女に会おうとその部屋を訪れる。続いて彼氏も、管理人も、外から戻った女も部屋に入る──。こんな5人の登場人物の行動や心理がそれぞれモノローグで語られ、ほとんど会話らしいシーンはない。なのに、それがバラバラでいて不思議に絡み合い、さらに眠り続ける女の「アラビアの夜」の夢の中で混じりあって、ついに夢現の境目で「惨劇」が起こる。現代版「語りの演劇」の面白さがあり、奇妙でどこか切迫したストーリーは、現代に生きる多くの人々の生き辛さを、一つの寓話の形で言い当てている。演出・舞台美術の笠井友仁は、Aチームでは戯曲をあまりいじらず、スタイリッシュな感覚を生かしてシャープに造形した。
 その上でBチームでは場所や人物を一挙に現代ベルリンから、現代大阪に移した。この変換を成り立たせるには、原作のコニャックを「チョーヤの梅酒」に置き換えるだけでは足りず、大阪弁や大阪人といったまったく別のファクターを、作品にそっと織り込まねばならない。今回はその入念な翻案作業のおかげで(ドラマトゥルク・くるみざわしん)、多国籍の外国人が雑居するマンション、あるいは突然の暴力シーンも、大阪という街の出来事で何の違和感もなかった。いわば世界に広がる共時的リアリティをもって、現代大阪の一面が描き出せたのではないか。大阪弁に大分弁や共通語が入り混じり、二人の女を演じた高安美帆と水谷有希はまるで「ボケとツッコミ」の間柄に見え、ごまのはえ(客演)のお気楽でだらしない彼氏も、お隣りの関西人のようにぐっと身近に感じられた。
 演技陣や演出にまだばらつきはあるものの、この連続上演によって、旧hmp時代のストレートな前衛志向とは一味違う、「笑えて、痛い」大人の前衛劇を彼等は作り上げた。今回の試みは劇団にとって、きっと貴重な財産となるにちがいない。

 良くも悪くも八方破れのエネルギーを放ってきた大阪は、いまゆっくりとしかし確実に衰えてゆく。その街のすがたを、両作はちょうどタテとヨコの視点から、鮮やかに切り取って見せた。芝居を見る楽しみの一つが、その土地でなければ見られない何かを味わうことだとすれば、まだまだ関西演劇も捨てたものではない。そう思わせる二本の芝居だった。