笑えるイヨネスコ ── 札幌座『瀕死の王さま』 ── 藤原央登
札幌の劇団、札幌座がイヨネスコの『瀕死の王さま』(翻訳=大久保輝臣、演出・出演=斎藤歩)を上演した。この集団は1996年、北海道演劇財団の付属集団として誕生。TPS(シアタープロジェクトさっぽろ)の名称で活動し、2001年に劇団化。2012年に札幌座に改名した。専属劇団員に加え、他劇団の演劇人をディレクターとして招聘している。第一王妃・マルグリットを演じた橋口幸絵と外科医を演じた弦巻啓太であり、それぞれ劇団千年王國、弦巻楽団と自らのカンパニーを主宰している。札幌座は、北海道の演劇の相互交流と演劇人教育の側面を併せ持った公共的な集団と言えよう。そのあたりは、財団が母体となった劇団ならではの社会貢献をうかがわせる。
本作はTPS時代の2009年に初演された。その後2012年に再演。このたびの東京を含むツアーで三演目となった。ベランジェ一世を演じた斎藤歩をはじめ、紛れもなく役者が支えた好舞台に仕上がった。第一王妃と外科医から「このお芝居が終わればあなたは死ぬんですよ」と宣告を受けた王。はじめはその言葉を相手にしない王も、刻々と過ぎる上演時間の間に、身体はしだいに衰弱してゆく。それに合わせ、激しく抵抗し怒っていた王も、ついには死を受け入れ生への執着から解かれる。飄々としながらも、立て板に水を流すような語り口の斎藤は、王の身体的、心理的な変化を捉える堂に入った演技。瀕死という死の間際を描写した人間のあり様を我々に提示した。彼は2008年のあうるすぽっとプロデュース、佐藤信演出の『瀕死の王』に衛兵役で出演もしている。演出も担当する斎藤はこの出演歴も踏まえ、着実に上演を重ねてきたのだろう。集団の転換点にも上演された本作が、レパートリーであることが十二分に伝わってくる。
原作を踏まえつつも、遊びもきらりと光る。衰弱に合わせて権威も減滅した王は、命令しても臣下を動かすことができない。代わって主導権を握ったマルグリットが、第二王妃・マリー(坂本祐以=劇団千年王國)の動きを封じ込め、操り人形のごとく動かすシーン。床に座り込む王の前に動かされたマリーが、マルグリットからの「親孝行して」の指示を受ける。すると、マリーは王の肩を揉みながら「お父さん、あたし演劇やめる」の一言。老いた父と娘の関係に見立てているのだ。このように自然に笑えるシーンが随所にある。イヨネスコの芝居は面白いのだ。それはつまり、札幌座がイヨネスコをよく消化してみせたということである。
だがこの舞台は、単に笑わせるだけの作品で終わっていない。48年前に書かれた戯曲に、しっかりと今日性が見出せる。死に向かう瀕死の王が、行き着いた人類の進歩の謂いに見えてくる点がそれだ。王宮の壁にひび割れが走る。国境線がだんだんと狭くなり国土が縮小、大地は枯れ、人口が減少してゆく。疲弊してゆく国家は、茶色の布切れを繋ぎ合わせただけのカーテン、板木で組み立てたみすぼらしい玉座で示される。王という個人の疲弊は他人を動かす力を失うだけでなく、国土そのものの荒廃へとつながっているのだ。衛兵(佐藤健一)によって水や太陽をはじめ、自動車や電話を生み出してきたと王の業績が述べられてゆくが、それはこれまでの人類の歩みそのものであろう。その中に、原発(元訳では「核分裂の装置」)という言葉が飛び出したことで、非常なリアリティを帯びはじめる。原発を作った王が人類の謂いであるとするならば、48年を経て、我々は只今、死ぬ寸前の状態にあるのではないか。そのようなことを考えさせられずにはいられない。「瀕死」というタイトルはあまりにも示唆的である。
訳者・大久保輝臣の解説(『イヨネスコ戯曲全集 3』1969年、白水社)には、前衛芸術についての以下のような記述がある。
前衛芸術が存在するためには、社会が二つの歴史的条件、すなわち一方では画一的傾向の芸術が支配力をふるっていること、同時にまた社会体制が相対的にリベラルであること、という条件を満たしていなければならない。換言すれば、挑発行為の理由と自由とが必要(286-287頁)
北海道には、2012年に運転を停止している泊原発がある。周辺市町村が再稼動に反対しており、北海道にとって差し迫った問題になっている。本作の創り手が泊原発を意識しているのかは分からない。だが少なくとも、ベケットと並んで前衛劇の古典といういささか矛盾した地位を与えられたイヨネスコの作品に、今日にも「挑発行為」が孕まれていることは感得できる。状況という発火装置によって前衛へと躍り出る。古典とはそのような潜在的な力を有しているのだ。
もうひと台詞。マルグリットの「よけいなものは脱ぎ捨てて、さっさと身軽になりなさい」。死に怯える王へかけるこの言葉は、個人の臨終の際の問題であると同時に、国民を瀕死に追い込むまでの発展と開発を続けてきた国の指針が限界に来ていることを言い表しているようで耳に残った。
個人がいかに死を引き受けるかという問題から、現代の社会状況をも射程に置いた上演。それは、大いに観客を笑わせるまでにイヨネスコを身体に通した俳優の試みがなければ出来しなかっただろう。大上段から堅苦しく「前衛」「不条理」を伝達するのではなく、楽しそうに演じている創り手に、観客は自然に感染したのだ。その創り手の姿勢を通して、場に関わる者があらゆる思想や問題について考えを巡らせること。演劇の醍醐味は、この辺にある。(2014年9月7日マチネ、こまばアゴラ劇場)