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勅使川原三郎『睡眠-Sleep-』 撮影:上田茂
勅使川原三郎『睡眠-Sleep-』 撮影:上田茂

  パリ・オペラ座バレエ団エトワ-ルのオ-レリ-・デュポン(来年5月に引退公演を予定)を迎え、勅使川原三郎の振付・出演で、KARASの佐東利穂子らが出演した『睡眠-Sleep-』。8月14日から東京芸術劇場 プレイハウスで5回の公演後、愛知県芸術文化センター、兵庫県立芸術文化センタ-を巡回した。これは、やはり事件である。
 勅使川原は、2003年『エア』でパリ・オペラ座バレエ団に振付デビュ-。その時、「(バレエ・ダンサ-達に)これまで培った身体技をすべて一度忘れてもらい、私が考案した身体メソッドを一から教える」と話した。それは私の理解によれば、「身体の現前」に戻り、技ではなく「身体感覚」を耕して「ダンスを作る」メソッドである。
 『睡眠-Sleep-』の冒頭は、柔らかいオルガン曲。菱型の大きなガラス状のモビ-ルが、高い位置で廻る。上手の手前に、瀟洒なパイプ製の長机。その下で、一人の女が睡眠中だ。やがて出現した勅使川原と、花のようなデュポン。髪を上げ、薄手の白いカッタ-シャツと、黒いパンツに靴という姿のデュポンは、多くを削ぎ落とした「素」の姿であった。
 この始まりは、私に勅使川原の名言(フランスで販売のDVDより:注1)「自己防衛しなくてよい状態からダンスは生まれる」「下手で弱くて上手く行きにくいという所から始めると、常に現実感を伴う」を思い出させた。後者は、防衛意識を剥いだ下にある謙虚さのことであろう。まさに牡蠣の殻を開き、生命の内部をいきなり露出させたような美しさ。デュポンの探求心と勇気も、賞賛に値する。
 やがて雷が轟き、小さな正方形を重ねたモビ-ルがスピ-ディ-に上下する。空中と床上に、パイプ椅子・長机と、正方形が並んで見えるオブジェがある。その後は、ダンサ-達とオブジェの位置取りに、絶え間ない変容と照明効果により、ニュ-トンの「時間/空間」(ポストモダン・ダンスの祖のマース・カニングハムが重視した概念)の法則を超えた後の、アインシュタインの「宇宙の膨張/成長」へと意識を拡大した相対性理論の世界を感じさせた。いずれの世界観でも「重力」(浮遊もこれを土台とする)が基点だが、勅使川原のダンスが同様なのも周知の通りだ。
 勅使川原のダンスの切れ、鋭さ、流麗、浮遊、空気との戯れ、人間味、機能性、存在感、物質性などのすべてが出演者達に現れ、レオニ-ド・マシ-ン賞受賞の佐東のダンスも健在。ただし、勅使川原には「自らを包む場の摂理と、自身の生命体としての摂理の一体感」を、佐東には「意志」を、デュポンには「開け渡した柔軟さ」を感じた。また鰐川枝里のソロの、皮膚や体面で風を切る新鮮さ。最後は、夢の底のような白い世界に、佐東が横たわる。ピアノ、歌曲、水音、弦楽器、ノイズなどが記念碑的な共演の場を支えた。

 札幌国際芸術祭2014で上演後、東京でも8月29から3日間、東急シアタ-オ-ブで上演したベルギ-のシディ・ラルビ・シェルカウイとダミアン・ジャレ振付『バベル BABEL(words)』(2010年初演)。『神話 Myth』(07年にウィ-ン「インプルス・タンツ」で所見)、アクラム・カ-ンとの『ゼロ度 zero degrees』、『アポクリフ』『テ ヅカ TeZukA 』とシェルカウイの作品を見たが、最近になるほど力の増幅を感じるものの、『信仰 Foi』『神話 Myth』に続く3部作の最終作にあたる本作には、『神話 Myth』の印象が窮屈だっただけに懐疑もあったが、全くの杞憂であった。
 坂本龍一の推薦、というだけのことはある。トルコや日本の旋律や和太鼓を含む生演奏の豊かな音楽性、ジャズ・ダンスやヒップホップも一早く取り入れたシェルカウイ達の下に集結した肌の色の違う13カ国13人のダンサ-達による鋭さ・存在感・ユ-モアが溢れるダンス・シ-ン、英国の彫刻家アントニー・ゴ-ムリ-製作のサイズの違うパイプ製の大型長方体オブジェの移動や置き位置の変容を伴う巧みな舞台転換。
 バベルの塔の建立が神の怒りに触れ、言語分断に至ったとは『旧約聖書』(=『コーラン』および『新約聖書』の源泉的な位置にある)の物語だが、13カ国のダンサ-達が、口々に自国語で言い合う場面のリアリティの鮮烈さ。冒頭と終わり、背高のロボットのような女性ダンサ-が現れて、「言葉以前の時代、相手に掌をかざすだけで謝罪を意味した」と語る。平和への願いが込み上げる。
 モロッコ出身の父を持ち、アントワープで生まれ育ったシェルカウイは、少年時にはコーランの学校へも通学。『アポクリフ』では、「聖書外典とコーランに類似の話がある」、と一神教の世界観では受容されにくい現実に言及した。イスラム教徒とキリスト教徒の混血者として生まれ育ったマイノリティを自認するシェルカウイの願いは、本作のような地球規模の融和であろう。
 なお本作の振付家2人は、ユ-ゴスラビア出身の過激な美術家兼パフォ-マ-として知られるマリ-ナ・アブラモヴィッチを伴い、2011年にはパリ・オペラ座バレエ団に『ボレロ』を振付けて、好評を得た。

 9月12日~10月5日には「Dance New Air―ダンスの明日」を青山円形劇場、スパイラルホ-ル、シアタ-・イメ-ジフォ-ラム他で開催。「ダンスビエンナ-レト-キョ-2002」以来、04年、06年、09年、2012年、今年と、6回の国際ダンスフェスティバルを重ねたが、青山円形劇場(&青山劇場)は、惜しまれる中で来年3月に閉館予定。
 1985年に開館した青山の劇場は、コンテンポラリ-・ダンスを始発から支えた。青山円形劇場の海外からのダンス初招聘は1989年、ヌ-ヴェル・ダンスの中でも思い切り飛んでるレジ-ヌ・ショピノによるボクシングを模した『K.O.K』だった。私的な立場からは、シンプルな円形空間とマッチした岩下徹の無音・即興・60分の『放下』シリ-ズも懐かしい。
 夜のフィルム上映、多彩なト-クセッション、ワ-クショップなどの他、今年は劇場前ピロティで、10校の大学によるパフォ-マンス。モントリオ-ルのポ-ル=アンドレ・フォルティエ構想・振付『15×AT NIGHT』(15日間の夜に無音で約30分踊る)では、マヌエル・ロックが踊った。後者は、06年からフォルティエが、世界8カ国(06年は山口情報芸術センタ-「YCAM」でも)で450回上演した30分のソロを30日続けた企画の姉妹編。劇場外でも観客はダンスを、ダンサ-は観客の顔が見られるとフォルティエは言う。

 開幕公演は『赤い靴』(小野寺修二=演出・出演/青山円形劇場/9月12~15日)だったが、伊藤郁女の演出・振付・出演『ASOBI』(スパイラルホール/9月13~15日)からを見た。伊藤は、フィリップ・ドゥクフレ、アラン・プラテルらの作品に出演し、2009年のフランスの振付コンク-ル「(Re)connaissance」初回の第1位入賞者(受賞作『Island of No Memories-記憶のない島』は、2010年に彩の国さいたま芸術劇場 小ホールで上演)。
 『ASOBI』では、背景一面に長方形の鏡を上下2段に並べて立てた。出演は、伊藤を含めた男女各2人の計4人。始めはヒ-ルで、ドレスをケ-プのように纏って登場。その下はスリップ、男性ダンサ-達の服装もこれに準じる。伊藤は本来、ダンスやヨガ的な身体技も豊かだが、本作の振付はアメリカの1960年代のポストモダン・ダンス期に始まり、90年代前後に欧州にも広がった「ノン・ダンス」系。後半に「動き」で綴る各々のソロもあるが、基本的には、観客に〈強い眼差し〉を向け、あるいは鏡を通して観客を見据え、〈神経を濃密に何層にも重ねたような身体性〉で、出没を繰り返しながら、始めに靴とドレスを、その後はスリップ姿などで展開し、最後には下着も取ってダンサ-達は全裸を曝した。
 客席に隠れる肌身を鏡に映し、最後には男に抱きつき、ヒンドゥ-教に伝わるカ-マ・ス-トラ(男女神結合)に似たポ-ズを取るなどのエロティックな〈遊び〉もあるが、私が思い出すのは、ポストモダン・ダンスの母と呼ばれるアンナ・ハルプリンが、1965年にサンフランシスコの美術館で初演した『パレ-ドとチェンジ』の中の、「ドレッシング・アンド・アンドレッシング」という有名な場面だ。
 ハルプリンは、感情をダンスで表現するアメリカン・モダンのマーサ・グレアムなどへの追従に抵抗し、「行為」で場面をつなぐ即興を始めた。後に、ゲシュタルト療法の創始者のフリッツ・パ-ルズに影響を受け、「内部(体感・感情)/中間層(判断・思考・イメ-ジ)/外部(五感を通して感知する世界)」への各「気づき」を拡大・持続させれば、演技や舞踊をせずとも「立っている」あるいは「行為」や「動き」だけで人前で充分にパフォ-マンスとして成立すると認知。件の場面では、そのような状態で全員が黙々と服を脱ぎ、再び服を着た。
 『ASOBI』の出演者達の強い眼差しは、外部への視覚による「気づき」の行為の延長にも見える。ポストモダンのジャドソン教会での〈バウハウス系コンセプチュアル+近代自我に対抗的な東洋・禅的なエネルギ-一定のニュートラル=僧侶が無の境地で作務に集中する際のような身体性や、舞踊的な抑揚や躍動を伴わないミニマルな「動き」の身体性〉とハルプリンは別で、即興的な作品・場面やワークショップでは感情の噴出も扱った。
 コンテンポラリ-の時代になり、「ノン・ダンス」系の「行為」や「動き」と「リビド-(エロス〈情熱〉を含む本能的な生命エネルギ-):従来は表現主義などで重視された」が混在するパフォ-マンスも、自在に出現。ジャドソン・スタイルからの解放を見る思いだが、本作も「ノン・ダンス」系でありながら、客席から見えない肌身を鏡に映すエロティシズム、存在感のあるダンサー達の佇まい、眼差しの強さ、全裸での男女抱合のエロティックなポーズなどから、そのような流れを感じた。

Dance New Air 2014『そこに書いてある』 構成・演出・振付・出演:山下残 2014年9月、スパイラルホール 撮影=塚田洋一
Dance New Air 2014『そこに書いてある』 構成・演出・振付・出演:山下残 2014年9月、スパイラルホール 撮影=塚田洋一

 山下残が構成・演出・振付・出演した代表作『そこに書いてある』(共同製作=アン・エスン・ダンスカンパニ-他/スパイラルホール/22~23日)では、さらに欧州のコンセプチュアルな「ノン・ダンス」系のリーダー格の一人、ジェローム ・ベルと類似のテイストを感じた。観客は、100ペ-ジもの大型冊子を渡され、1ペ-ジ目からマイクの前に立つ山下や共演者が読み上げる言葉やフレ-ズを追ってペ-ジをめくり、女性ダンサ-達がペ-ジ毎に、舞踊身体を用いない「動きや行為」を行なう。ユーモアも混じるが、指示的でコンセプチャルだ。
 ところが後半、韓国のミュ-ジシャンの語りと演奏、山下が指揮した女性達の手話でのコ-ラス辺りから変調を見た。そして、ジョン・レノンが「原初の叫び療法」体験後に創作した『マザー Mother』が流れ、山下が母への思いを絶叫する(リビドーの放出)と、まるで表現主義になる。最後は、女性歌手のほのぼのとしたフォ-クギタ-の弾き語り。
 「ノン・ダンス」でダンサ-達が指示により「動き」を演じる手法は、ベルの曲ごとに指示がある『ザ・ショ-・マスト・ゴ-・オン』を私に思い出させた。2011年の彩の国さいたま芸術劇場 大ホール公演では、やはり後半のレノンの楽曲『イマジン』の場面で、観客は3・11の震災を悼む黙想を捧げたが、06年にウィ-ンで見た時には、それまでの抑制を跳ね返すかのように、観客達は通路に溢れて合唱し、ペン・ライトがわりに携帯電話を掲げて踊った(リビドーの放出)。
 パリでも同様であったと聞く。舞台下のダンサーが観客を多少は誘導した感もあったが、欧州のコンテンポラリー・シーンでは、このように明確に「ノン・ダンス」系で始めたとしても、そこだけでは収まり切れない傾向と、これがこの系統の国際スタンダードになりつつある感を私は得ている。また、それが伊藤と山下の作品が国際性を持つ要因の一つであると考える。

 『談ス』(22~23日/青山円形劇場)は、大植真太郎、森山未來、平原慎太郎の出演者3人による共同作品。これも、いわゆる舞踊身体を用いない「ノン・ダンス」系で、「動き」とセリフを伴う筋のない演劇タッチ。逸脱度やユ-モアも程よく、円形劇場での上演が生きていた。評判のダンサ-達だが、特に身体解体度が見事な平原は、コンドルズにも出演し、笑いを取るのも上手い。その能力は、「今ここで」の感覚を掴むコンテンポラリ-な資質と重なって感じられる。

 『Project Pinwheel』(18~19日/青山円形劇場)は、ウィ-ンを拠点にレジデンスで初演後、京都芸術センタ-を経て東京へ巡回したプロジェクト。エスタ-・バルフェ(英)、関西の北村成美、チョン・ヨンドゥ(韓)が、「家族・子供」をテ-マに各々のソロを上演。
 バルフェの『VOID 空虚』は、ブランコ、蛍光灯、衣装掛けのある空間で、やはり動作や動きだけの「ノン・ダンス」で始めた。今回のフェスティバルでは、「ノン・ダンス」系の隆盛を感じた。だが祖母の遺品の靴を意識した後半は、Sheを用いて祖母と娘にミックス・イメ-ジで言及するセリフを伴い、解体的で入り組んだ興味深いダンスのボーダーにも触れる「動き」になった。
 セリフは、「感情」を伴わない「タスク」として行ったそうだが、その用語の使い方自体がポストモダンの時代の発祥で、歴史的には1979年のトリシャ・ブラウンの『アキュムレーション・ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター』(注2)の映像などが意識される。だがバルフェの後半は、血脈を意識した分、思い出の領域に突入して舞台の空気が重厚さを増し、動きも興味深くなった。日本では、1970年代に市川雅がポストモダンを紹介して知られたが、ポストモダンをやるのなら倣わなければという意識が高かったように感じられる。そして市川が特に意識したのは、ハルプリンを超えて一時は最前衛を自認したニューヨークのジャドソン教会系のダンス・パフォーマンスである。だが、欧州では、それらを取り入れながらも自在さが自然とミックスされるようで心地よく思う。
 北村の『蝸牛の庭』は、ソロと言っても子供も登場。衣装や表情などショ-・アップしたテイストだが、伸びやかな感性。子供を連れてツア-をする現実や生活感も取り入れて、逞しい。
 ヨンドゥの『報復』は、元役者なので基本が「動き」なのだが、無音で観客の目を30分以上も釘付けにする存在感のある静謐な集中力。身体への「気づき」を積み上げるように刻々と変容する「動き」は、かえってダンス的である。特に手指の動きなど、日本人にはない発想も興味深かった。仲睦ましさだけでは済まない、家族の深い葛藤や思いを浮上させた。

 ナセラ・ベラザは、前回の12年と同様、褐色の肌が闇に見紛うばかりの照明の中で、柔らかな動きの繰返しを伴う高い精神性のダンスを振付けて演じた。ベラザは、アルジェリアに生まれて渡仏。6月にモンペリエで初演の『Les Oiseaux(鳥)』と、9月にリヨンで初演の『La Traversée(渡洋)』の2作品(27~28日/青山円形劇場)。前者は女性2人で鳥の体のうごめきを繰り返した後、やがてその場で回転を始め、互いの距離や腕の角度などで微細な変容を見せる。
 後者は、男性を加えて3人。各々が自ら回転しつつスパイラルを描き続けるが、足取りや描く軌線の微妙な変化も見事である。最後には、トルソの角度が傾く。音響は、かすかな音のみ。ス-フィ-・ダンスや、ポストモダンのロ-ラ・ディ-ンの回転もあるが、要は「回転が身体に与える影響により、高い精神性に導かれる」という摂理が生きている。

 最終演目は、フランスのフランソワ・シェニョ-とセシリア・ベンゴレアの『altered natives’ Say Yes To Another Excess-TWERK ダンス・イン・クラブナイト』(10月4~5日/スパイラルホール)。2人は美しい女性達に見えるが、ジェンダ-・フリ-を嗜好する者達だ。ロンドンのDJ、ニュ-ヨ-クやブラジルのジェンダー・フリーのダンサ-達と、パワフルで弾けたコンテンポラリ-なショ-を展開した。シェニョ-は、バレエの本格的な素養を持つ。また09年にウィ-ンで見た時には、2人が黒いシ-トに包まれ、男女の区別も不明、というような作品を上演していた。

 他に、最近はインドネシアの武術の習得に熱心なことをトークで語った北村明子が振付け、当地のドラマトゥルクのユディ・アフマド・タジュディンとダンサ-達、日本の川合ロンらと共に出演した『To Belong/Suwung』(10月3~5日/青山円形劇場)があったが、見逃してしまった。たとえ会場は代われども、今後もフェスティバルの続行を願いたい。

 フランスのグル-プ・アントルスの『[àut]』 (9月18~20日/シアタ-トラム)を見た。振付・出演は、ベルギ-のピ-ピング・トムやプラテルの作品にも出演歴のあるサミュエル・ルフ-ヴルと、メイタル・ブラナル。カンパニ-は07年に、ルフ-ヴルとラファエル・ラティ-ニが結成。ラティ-ニは、グラフィック・デザイン、ヴィデオ・ア-ト、舞台美術も手がける。本作では、もう一人と共にDJも務めた。
 騙し絵のように、舞台奥に角がある三角部屋に見える舞台設営。普段着の男女2人のダンサ-が繰り広げるのは、床に磁場があり、終始そこへ体が引き付けられてしまうイメ-ジのフェイクな「動き」の連続で淡々と繋いで行く。しかし、架空の空間における「動き」は鋭く、かつスロ-で「間」がよく生かされ、目を引きつけた。

 小林洋壱(東京シティ・バレエ団)と、エレクト-ンの菊地友夏、サックスの丹沢誠二、バレエ団の男女14人が共演の「TEWLVE」(10月4~5日/ヤマハエレクト-ンシティ渋谷)は、小林の振付・出演『HOTARU』 『PLAY BACH』と、ベテランの石井清子が1984年に初演した『ボレロ』。小林の柔らかな感性には今後も期待したく、石井の振付でダンサ-達が発するバレエとモダンが混在する身体エネルギ-は、舞踊の醍醐味を強く発散した。

 最後は、櫻井郁也ダンスソロ『CHILD OF TREE』(10月11~12日/plan B/光・音=櫻井郁也)。美術・衣装の櫻井恵美子は、茶色のマットを3枚重ねて後方に斜めに置き、何カ所かに塩のオブジェを作った。衣装は、薄い自然素材の上下である。舞踏系の「動き」は、ウソのない体を探り、拒絶、拮抗、死、誕生、挨拶などの幾重もの身体コミュニケ-ションと、内部の葛藤の層を見せる。十数年のソロ公演を経て、新たな見るべきソロ・ダンサ-の誕生を見た。

*注1/エリザベス・コロネル監督の映像作品『Saburo Teshigawara,danser L`invisible』2005年/2007年にパリでCNCよりDVDとして発売。
*注2/DVD『トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979 日本版』2006年PROCESSARTより