9月の歌舞伎は、東京では歌舞伎座(1〜25日)のみ。圧巻は夜の部「絵本太功記」、中村吉右衛門22年ぶりの武智光秀である。今月はこれ一役を書く。

 「絵本太功記」十段目、略して「太十(たいじゅう)」。人形浄瑠璃文楽でも屈指の名曲大曲として知られ、12月の国立小劇場でも上演が予定されている。明智光秀の三日天下を一日一段の趣向で描き、10日目にあたる「十段目」は、(劇中では「武智」)光秀の謀叛に怒った母皐月が家出した先の、尼ヶ崎の閑居が舞台となる。実在の明智光秀がどうであったかは諸説あろうが、「絵本太功記」の光秀は内省の人で、決然と謀叛に立ち上がっておきながら、以前も以後も、己の行動について悩みに悩み続ける。

 山崎合戦を前に、僧に身をやつした真柴久吉(羽柴秀吉にあたる)を、それと見破った光秀が跡を追う。久吉は旅僧と偽ったまま、尼ヶ崎の老婆の宅へ一夜の宿を借りて入り込むが、それこそが光秀の母皐月の閑居。上方落語に「軒付け」という、義太夫に心奪われた素人たちの狂態を描く一編がある。「太十」はそこで語られる中でも横綱格で、「夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀」と蛮声を張り上げる男が出て来る。この光秀の出が、まずは役の印象を決定するが、22年前の吉右衛門は、義太夫の三味線にあわせて顔を覆っている笠をそのまま上にあげて顔を見せた。今回は、初代吉右衛門(血縁上は祖父であり、戸籍上は父である先代。昭和29年没)の型に近づけるとのことで、初代が七代目市川団蔵(天保7年〜明治44年)から学んだところに由来するのであろう。門口で、「間違いなく久吉がいるな」という心持ちで一つ大きくうなずくと、少し下手へ歩み、そこで笠を少し下げて顔をのぞかせ、そこから後ろへ大きく回すようにして頭上に掲げる。現れた顔は、悪の性根を示す藍の隈取が、近年通例のこの役の扮装より(22年前の吉右衛門自身よりも)も濃い。つまり、動きも扮装も大時代で、歌舞伎座の広い間口を征服するような力感に満ちている。かつて大阪中座の狭い間口で、大人数がひしめきあう「太十」の面白さを見たこともあるが、一人で劇場を征服するのが本来の達成だろう。

 今回の吉右衛門の特徴は、この「大時代」である。心情描写の巧い吉右衛門のこと、現代人も共感できるドラマとして描く人間光秀になるかという予想を覆し、その人間光秀的な部分を核に持ちながら、その上に歌舞伎芝居の様式を上塗りしてみせた。22年前には、まだその大時代の感覚を保ちきれず、より写実的な、世話がかった作品にこそ縦横無尽の人間描写を見せたものだったが、ようやく芸境の最終コーナーにさしかかったというべきなのだろう。

 家の奥に潜む久吉を狙うため、竹槍を作る。下手へ向けて歩み、竹を選びながら、上手を振り返って、気づかれていないか家の中の様子をハッとうかがう。こうした刹那のサスペンスを醸成する巧さはそのままに、竹を選んで枝をスパッと切り落とすと、義太夫の旋律に合わせて、小刀の峰を肘に挟むようにして拭い上げる。これまでも、いかにも千軍万馬の中をくぐり抜けてきた職業軍人の身体性を感じさせるところだったが、今回はより派手に、大きな動きに変わって濃厚な味わいを強調している。

 この緊迫感を持続したまま、巨大な鎧武者が抜き足差し足、竹槍で突いた先にはなんと、自分の母親がいた。文楽なら「残念至極とばかりにて」という「残念」の語り方ひとつで、母を殺めたことより久吉を取り逃がしたことを悔やむ光秀像を描く。吉右衛門は、母の傷口を縛って介抱してから、おのれ逃げたなとばかり、揚幕の向こうを睨み、すぐに母の重体に心が行き、その双方で揺れる心情を、義太夫を従えるように体ごと大きく描いた。

 光秀という役は大役だが、歌舞伎でも文楽でも、それを得意としたように思われる名人たちが、「しどころが少なく、実は嫌い」ともらすことの多い役でもある。20年以上も手を出さなかった吉右衛門もその一人かもしれない。妻の嘆き、戦場で重傷を負った息子の帰還、息子の死、母の死と、周囲に引き起こされる出来事は、元をただせば光秀の行動によるもの。じっと堪えるように舞台上に盤踞する吉右衛門が、目を光らせて怒りに震えたのは、息子十次郎の戦況報告で真柴方が口にした「逆賊武智」という言葉に反応した時だった。まことに勘所をつかまえている、というべきで、周囲に様々な役柄を従えても、光秀を頂点とした劇構成は揺るがない。22年前に比べれば、周囲は子どもや孫世代に移っている。それを層の薄さとみるかもしれないが、光秀個人に即してみれば、その孤独を際立たせるという面もあった。

 先にも言うとおり、「太十」は素人義太夫にも愛好される名曲である。いわばカラオケでおなじみの曲をプロで聞くようなもので、筋も音楽も先刻承知の客席が、十分のみ込んでいるせりふや義太夫を楽しんできた芝居である。そのような客席の環境が払拭されて、上演頻度は昭和40年代以降、ぐんぐんと落ちた。それでも、まだ、これほどの光秀がある。終末部は、花道から六方で本舞台に戻り、物見の松から向こうを見やり、体力的にも手一杯の大働きである。久吉と佐藤正清に挟まれて、刀を右肩にかついで見得をする(吉右衛門は睨み方が巧い)光秀が幕に隠れてゆく。これを上越す光秀を、私が生きている内に見ることは、おそらくないだろう。かつてある雑誌の吉右衛門論に「絶後の人」というタイトルをつけて、それだけは変えてくれと頼まれた。だが、義太夫狂言時代物では、この先40歳代以下の若手が死にものぐるいの努力を続けぬかぎり、その魅力の大きな部分で、吉右衛門がしんがりとなるであろう。今月はあらためてその事を考えさせられた。