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シディ・ラルビ・シェルカウイ & ダミアン・ジャレ『バベル BABEL(words)』 撮影:小川峻毅
シディ・ラルビ・シェルカウイ & ダミアン・ジャレ『バベル BABEL(words)』 撮影:小川峻毅

 シディ・ラルビ・シェルカウイとダミアン・ジャレの振付による『バベル BABEL(words)』が、東急シアターオーブで上演された(8月29〜31日)。この劇場は2012年に開場した客席数約2000を擁するファッショナブルな劇場で、東京でもっとも人が集まる駅の一つの渋谷駅につながっていながら、日常と切り離された異空間が作り出されている。ミュージカルのラインナップが多い劇場なので、ここに決まった時は驚かされたが、地上70メートルというもっとも高い場所(ヒカリエの11階から14階)での上演に違いなく、その意味ではもっともバベルに似合う劇場だったかもしれない。

 タイトルは、旧約聖書のバベルの塔の物語に由来する。天に届くほどの塔を作ろうとした人間の行為に怒った神が、再び人間同士が共謀しないようにと、元々一つの言葉を使っていた人間に異なる言葉を与えて混乱させたという物語だ。世界中に多くの言葉がある理由を語ると言われている。
 この作品には、西洋も中東も東洋もあれば、過去と現在と未来もある。マンガやロボット、TEDで話題を呼んだインド人脳科学者のミラーニューロンの話ある小説から引用した身振り言語の話、般若心経、和太鼓、イスラム風の音楽、ヨーロッパ中世風の音楽など、多文化由来の音楽が不思議に混ざり合う。それぞれの文化圏で独自に発展した音楽や思想が、この作品の中でかき混ぜられて、大きな野菜がそのままぼこぼこ入った具だくさんのシチューのように、形も素材の味もはっきり残したまま、違和感なく馴染んでハーモニーを響かせている。

 アントニー・ゴームリーによる5個の大きさの異なる直方体の枠組みを、ダンサー達が横にしたり、縦にしたり、重ねあわせたりしながら、様々に変容させていく光景はそれだけでも見ごたえがあった。ダンサーの体の延長のように動いたり、ダンサーを閉じ込める牢獄になったり、時にはプレートテクトニクスによる大陸の変化や、国境の変化など、大きな時間の流れにも見えてくる。細長い枠は、タイムトンネルになったり、入国審査所になったりもする。上へ上へと伸びていくと、摩天楼にもバベルの塔にもなる。枠が自分本来の姿を立ち現わしてきたかのようにも見えてくる。その変化それ自体がダンスになっていた。
 このゴームリーの枠は、作品のテーマを視覚化しながらも、途方もなく広大な想像をかきたてるトリガーにもなっている。シンプルな直方体の枠だけでできているとはとても思えないほど、饒舌で雄弁である一方、ダンサーの魅力を最大限にひきたて、後ろで控える寡黙な存在にもなる。

シディ・ラルビ・シェルカウイ & ダミアン・ジャレ『バベル BABEL(words)』 撮影:小川峻毅
シディ・ラルビ・シェルカウイ & ダミアン・ジャレ『バベル BABEL(words)』 撮影:小川峻毅

 この枠が次第にまた生き物のように主体性をもって姿を変えているように見え、この変遷を通じて見えてくるのは、バベルの塔を作ろうとする人間の欲望の存在だ。それは形を変えながらどの時代にも存在し、作られては壊され、壊されては作られ生き延びてきている。バベルの塔はいまも人間が打ち立てようとしている! 途方もない野望と探求心で邁進し、努力が重ねられていく。たとえば、英語がいかに世界一の言語か、アメリカ英語を話すダリル・ウッズが意気揚々と自慢するシーンがある。英語人口の多さ、英語が使われる分野の広さを得々と語り、多言語の時代から単一言語の時代に移ろうとしているのかと思わせられるほどだ。英語が世界を席巻したかに見えるが、終盤に彼は50セントを乞うほど落ちぶれる。英語を知る人が回りに誰もおらず、「誰か、イングリッシュ、誰か、イングリッシュ」と言う。言語の単一化そしてグローバリゼーションをもくろむバベルの塔も崩壊するだろうか。

 日本人ダンサー、上月一臣が延々と日本語でまくし立てるシーンがある。13カ国におよぶダンサーたちがそれぞれの言語で自慢し合い言い争うシーンである。彼の語る内容は他のダンサーたちにわからないにせよ、そのまくしたてる勢いと身ぶりに押されて全員が後方に移動するところに、この作品が提示する身ぶりの力が示されていた。

 終盤、今なお人と人とが争い続ける世界が枠の中にあり、すぐ脇では天使のような女性がそれを見つめながら崇高な歌を歌う(クリスティーヌ・ルブートゥ)。そこには、争いは仕方がないという諦念ではなく、平和な世界を作ろうという希望があり、さらにもっと力強い意志も感じることができた。いま私たちはどういう世界に生きているかという現実認識のベクトルと、どういう世界になってほしいのかという希望のベクトルがあり、それらがひとつの世界観を提示する果敢な試みだった。
 シェルカウイとジャレが作り出す世界は、ダンサーの個を掘り下げながら普遍的な世界観を切り出すピナ・バウシュやアラン・プラテルの手法の線上にあるが、よりいっそうパーソナルな興味や趣味へのこだわりや、多文化的広がりへの強い共感があり、現在の社会状況をはっきりと巻き込んだ世界観を出していく点に特徴がある。

 人間の歴史において、身ぶりで始まったコミュニケーションは、言語として発展するが、同時に言語によって分裂する。それぞれ言語で隔てられていても、歌でつながり、ミラーニューロンでつながり、ダンスでつながり、言語を超えたコミュニケーションでまた未来をつなぐ、といったもう一つの大きな物語が見えてきた。大きな感動を呼ぶ作品だった。

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