「演劇が直面している危機とは何か──東京デスロック『CEREMONY セレモニー』」──藤原央登
かねてより、多田淳之介が主宰する東京デスロックは、<演劇らしくない>舞台を創ってきた。劇を駆動するのは、大枠としてしつらえられた、音楽やダンス、ゲームといったシステムである。俳優にとってそれらは枷として機能する。制約に基いて動かされ、やがて疲弊してゆく身体。システムと俳優との関係に劇性を見出すのが、東京デスロックの作品の特徴であった。『MORATORIUM モラトリアム』(2012年5月)からは<らしくない>が舞台内に留まらず、空間構成全体に及んでいる。観客が各々、床に座って観劇する形態は、舞台と客席の境界を溶解させ、演者と観客を同一平面上に存在せしめる。そのような空間にいることによって、観客は劇を見ることそのものへの内省が促される。そして、演者や観客同士のコミュニケーションを促す仕掛けを通して、人や社会について話し合い、一人ひとりが主体的に考える個人へと到達すること。自立した人間の在り方を模索することが、近年の作風となっている。
平田オリザ『東京ノート』(2013年1月)の上演からは、東京公演も再開した。東京での上演に際して掲げた宣言は「地域密着、拠点日本」。これは、多田が富士見市民文化会館 キラリ☆ふじみの芸術監督であり、また、韓国で仕事を行っていることも関係しているはずだ。地方における演劇の役割、さらに枠を広げてアジアの中での日本の位置を問うことは、情勢が緊迫する現況下ますます重要性を帯びる。一極集中型の上意下達の社会モデルから、各地域が連動するグローバル社会へのシフトは不可避だ。だが、そのような世界を生き抜くのは困難である。流動性が増す社会では固定的な秩序を見出すことが難しく、何事も自己責任的に再帰してしまうからだ。そのための処方箋を、多田は演劇で考えようとする。『MORATORIUM モラトリアム』『REHABILITATION リハビリテーション』(2012年8月)『COUNSELING カウンセリング』 (2012年9月)といった題名が示す通り、東京デスロックの作品は我々と社会を今一度見つめ直し、対話する場だ。そのためには、演者と観客との間の敷居は限りなく低い方が良い。
例えば『東京ノート』では、様々な地から東京にやってきて、そこで生活するということ自体が問題となる。韓国の俳優が出演した『シンポジウム SYMPOSIUM』(2013年7月)では、日韓の齟齬と共通点がより直接的に討議されることになる。自国のルーツを知った上で、他者(=韓国)と建設的なコミュニケーションを行うとは何か。劇空間をそのような命題のための共同討議の場に仕立て上げ、体験すること。なおかつ、決して堅苦しいものではなく、ポップでかつ楽しいものであること。そこから浮かび上がるのは、アゴラ=広場を形成する力を、演劇は有しているという信頼と希望である。これは、かつて「演劇LOVE」を標榜してから一貫する多田の気質だ。そういう意味では、上演形態は変質してはいるが、多田は演劇によって人々が幸福になれることを信じる演劇人なのである。
「挨拶の儀」から始まって、様々な儀式を執りおこなう『CEREMONY セレモニー』も、演者と観客が場を共有し交流する中から、我々の根拠を問う意図が孕まれている。観客同士が対面する格好で設置された客席、演者も交えての簡単なダンスといった、トリッキーな空間と観客参加の仕掛けがほどこされている。とはいえ、適度な緊張感を与えつつ、ストレスを過度に感じない程度の配慮がなされている。
儀式、ミサという形式にのっとって進行する本作の特徴は、まさにそのような空間が危機に陥っていることに踏み入ることにある。それは、この舞台で最も長いセクションである「演劇の儀」において表現される。このセクションはさらに、演劇の誕生、演出の誕生、演劇の現在に分節化される。見立てや擬態といった要素を含みながら進行する、女優3人による他愛のない主婦のやり取り。ここでは、俳優と観客の存在が演劇の条件であることが示される。演出の誕生では、入社式の祝辞を練習するサラリーマン(夏目慎也)が、妻(=演出家)からダメ出しを受けながら練習するスケッチが展開される。これら演劇史を分かりやすく表現した上で、問題の演劇の現在が描かれる。演出の誕生から引き続き、夏目が一人で祝辞の練習を続ける。曰く、社会人は学生と違い、テストのように答えのない問題を解決しなければならない。その点で大きな責任と困難を伴うが、上司や仲間を信頼し、助けを借りながら一歩一歩前へ進み、壁を乗り越えて欲しい。このような有り体の言葉を述べながら、夏目は平台を自身の背中に乗せたり、スクワットの状態で熱弁を振るう。重圧を受ける俳優の姿。そこに、演劇の現在の文字が投影される。グローバル社会下に置かれる企業の厳しい立場を自覚させ鼓舞する言葉に、演劇が重ね合わされている。つまり、現在の演劇は困難を極めているが、みんなで協力して壁を乗り越えようと我々に訴えているのだ。この社会を生きる方法を考え、処方箋を与える演劇が危機に陥れば、我々はむき出しの現実に放り出されるしかない。演劇に携わる者にできることは、演劇の停滞を突破することにまい進することだ。演劇の持つ力を信じ、愛する多田はそのように真剣に考えている。だからこそ、非日常を共有する儀式の困難が、日本の危機へと接続されるのである。そのような主張について異論はない。
それでもなお、発される主張が「がんばろう日本」的な説教のように感じてしまう。その理由は、多田自身が演劇の何が問題なのかを提示しきれていないからであろう。夏目慎也に負荷をかけるのは、東京デスロック公演ではお馴染みの光景である。「舞踊の儀」では、俳優がおよそ十数分間、激しく踊って身体を疲労させる。俳優の身体を酷使してなまの肉体を露呈させる手法も、『再生』(2006年初演)以来繰り返されている。定着した手法に左右される俳優の身体から、私は何事かを感得することはできなかった。だから、空間は微温的な優しさで覆われるだけになってしまった。観客参加を促すために、無理なくできる配慮は重要である。だが、新奇で楽しいだけでは、趣向はそれ以上のものへと昇華されない。祝祭には禁忌とエロスも必要である。演劇の根本を見直し力を引き出すには、それに類するものをどのように設定するのかが肝であろう。そこに、現在の劇形態へ至らねばできない創り手の問題意識が滲み出るではないか。そうでなければ、対面型の<演劇らしい>舞台との根本的な違いが見出せない。
多田はゼロ年代の観客参加、アート方面の牽引者の一人である。そんな彼が演劇の困難を訴えることは、自己相対化を試みることに等しい。日本の状況と接続される演劇への危機感は何だと考え、どのように乗り越えようとしているのか。それを明確に発信しなければ、演劇の危機の枠内に多田も絡め取られてしまう。(7月7日ソワレ、STスポット)