Print Friendly, PDF & Email

 世田谷パブリックシアター(東京)でワジディ・ムワワド作『みんな鳥になって(原題=Tous des oiseaux)』が上演された。パリの国立コリーヌ劇場が2017年にムワワド本人の演出で初演した舞台の翻訳上演である(翻訳=藤井慎太郎、演出=上村聡史)。

 これまで世田谷パブリックシアターが制作したワジディ・ムワワド作品の翻訳上演は『炎 アンサンディ』(2014年、2017再演)、『岸 リトラル』(2018年)、『森 フォレ』(2021年)の3作品あり(数字は日本における上演年)、いずれも藤井・上村の翻訳・演出で舞台化された。すべてに出演した岡本健一や美術の長田佳代子など、継続的に参加した俳優・スタッフも多い。

 3作品共通の特徴は、現実と夢や幻想の境を登場人物が行き来する壮大な物語と詩的で力強い台詞にあった。作中人物が自分の出自を尋ねてカナダから中東に旅をする物語も共通していたが、これは1968年にレバノンのベイルートに生まれ、75年に内戦を逃れてフランスへ亡命、そしてカナダへ移住して90年代に演劇界で頭角をあらわした後、2016年からフランス・パリの国立コリーヌ劇場で芸術監督を務めるムワワド自身の個人史とも重なった。複数の現実の閾を越えて幾筋もの物語と時空間が絡み合い、歴史、神話、記憶、トラウマ、アイデンティティなどのテーマが複合的に組み合わされて展開する彼の作品は、紛争が続く現実に対抗する果敢な芸術的挑戦であると思われた。

 今回の『みんな鳥になって』も中東への旅を描いていたが、挑戦の度合いは格段に増していた。アラブ系のムワワドがイスラエル社会と正面から向き合ったからである。しかも彼は両者の間に芸術表現としての橋を架けようとしていた。世田谷の翻訳上演は、細部のニュアンスを生かす翻訳と丁寧な演出、そして俳優陣の力演を通して、ムワワドの挑戦の意義を日本の観客に十二分に感じさせる力作だった。

 とはいえ今は2025年である。ガザ地区の非人道的状況やヨルダン川西岸地区でのユダヤ人入植者の暴力行為をメディアで目にしない日はない。私は観劇中、アラブ系の女性ワヒダの存在にもっと光を当ててほしいと思わざるをなかった。欧米では公の場でイスラエル社会を批判すれば、反ユダヤ主義の烙印を押される。そこまで厳しい状況にない日本での翻訳上演であれば、反ユダヤ主義とは一線を画したイスラエル批判を前面に出してもよかったのではないだろうか。

 いや、上演の素晴らしさと俳優・スタッフの情熱に異を唱えるつもりはない。作品自体にイスラエルを批判的にまなざす力がある。今、アラブとイスラエルの問題と向き合う作品を翻訳上演すること自体、勇気ある行為である。

世田谷パブリックシアター『みんな鳥になって』
作=ワジディ・ムワワド、翻訳=藤井慎太郎、演出=上村聡史
2025年6月28日(土)~7月21日(月・祝)/世田谷パブリックシアター
東京公演のほか、兵庫、愛知、岡山、福岡公演あり
撮影=細野晋司

 

1.始まりは恋愛小説

 舞台はニューヨークの図書館の閲覧室からはじまった。頭部に白いターバンを巻いた青衣の男性(伊達暁)がゆっくりと現れ、舞台中央の大きな閲覧テーブルに分厚い古書を置いて立ち去る。すると、赤い服を着たワヒダ(岡本玲)がテーブルに座り、この古書を開く。そこに、図書館通いが日課の若い男性エイタン(中島裕翔)が現れ、これまで誰も手に取ることのなかった古書を利用しているワヒダに興味を抱いて声をかける。

 二人は恋に落ちる。エイタンは遺伝学を研究するユダヤ系ドイツ人。ワヒダは16世紀に北アフリカを旅して見聞録を著したハサン・イブン・モハメド・アル=ワザーンについての博士論文をコロンビア大学で執筆中のアラブ系アメリカ人という設定である。ちなみに冒頭の白ターバンの男はこのワザーンなのだろうと推測がついた。エイタンとワヒドは、モンタギュー家とキャピュレット家の対立に巻き込まれたロミオとジュリエットのように、敵対するアラブとユダヤに属している。エイタンは過ぎ越しの祭りを利用してベルリン在住の両親(ダヴィッド=岡本健一、ノラ=那須佐代子)と祖父(エトガール=相島一之)をニューヨークに招き、レストランで×ワヒド○ワヒダを紹介しようとするが、ユダヤ系の両親は息子がアラブ系の女性と付き合うことに激しく反発し、常軌を逸するほど激昂する……。

 『ロミオとジュリエット』を思わせる男女の恋愛を発端に、アラブとユダヤが対立する現実が家族の物語として描かれる。父が祖父と血がつながっていないことを確証したエイタンは、ワヒダとともにイスラエルを訪れ、祖母レア(麻実れい)を訪ねる。イスラエル在住の祖母に会って、父の出自を直接確かめようというのだ。その後、エイタンとワヒダは自爆テロに巻き込まれ、エイタンは入院する。ベッドで眠り続けるエイタンの病室に、ベルリンから駆けつけた両親と祖父エトガール、祖母レア、ワヒダ、そしてワヒダを検問所で取り調べた女性兵士エデン(松岡依都美)が姿を見せる。エデンの存在はイスラエル軍のなかに良心にしたがう兵士が存在することを示していて、イスラエルへの間接的な批判になっている。エイタンが目覚めると、イスラエル軍が過去に行った一連の軍事行動と登場人物たちの関係が明らかになり、目が離せなくなる。

 エトガールから秘密を知らされたダヴィッドは極度の心理的ショックを受け、脳内出血を起こして死亡する。ダヴィッドを演じる岡本健一の迫真の演技が印象深い。彼を死に至らしめたアイデンティティの崩壊の背景には、アラブを敵視する政策の根本的な欠陥がある。死に際、昏睡状態に陥ったダヴィッドにワヒダがアラビア語で話しかけると、冒頭でも登場したワザーンが再び現れ、海に飛び込んでも生き続けた鳥の物語をダヴィッドに語る。両棲の鳥の物語を知ったユダヤ人ダヴィッドは、アラブ人として死ぬ。父の凄惨な死はエイタン自身のアイデンティティを危機にさらすが、父を埋葬するエイタンは自分を慰めたりしないという決意を繰り返し、舞台は終わった。

撮影=細野晋司