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ポール=アンドレ・フォルティエ 『15× AT NIGHT』 撮影:MILLA
ポール=アンドレ・フォルティエ 『15× AT NIGHT』 撮影:MILLA

 フォルティエのこの作品は、ダンスの喜びをあらためて思い出させてくれるパフォーマンスだった。奇抜なことも目新しいこともなく、淡々と踊るだけの30分に、これほど濃密なダンス言語を組み込むようなダンスは、実はそれほど多くない。私たちはダンスに何を求めているのか、何を見ておもしろいと思っているのか、そんな素朴なことをつい忘れがちになる日本のコンテンポラリーダンス環境にいたことをハッと自覚させられた。

 ダンスフェスティバル Dance New Air 2014 が行われた会場のひとつ、青山円形劇場前の広場の一角で、毎夜密かに、といってもフェスティバルのプログラムとして、30分ずつ上演された『15× AT NIGHT』(9月20日~10月4日)。ポール=アンドレ・フォルティエ(Paul-André Fortier)の振付、踊ったのはマヌエル・ロック(Manuel Roque)という若いダンサー。フォルティエは、エドゥアール・ロックやジネット・ローラン等と共に、1970 年代のケベックで新しいダンスを始めた世代に属し、それ以来、振付家、ダンサー、教育者として、カナダのコンテンポラリーダンスを牽引してきている。

 ロックは音楽も音もなく踊り続けた。もちろん、青山通りの車の音は途切れることはないし、救急車も通ったりするから、音は溢れかえっている。多くの人が通り過ぎていくけれど、立ち止まって見ていく人は少ない。その中でロックは踊った。でも、音楽に合わせて楽しく踊ったわけではない。なのになぜダンスというのだろう? ひとつには、そこでダンスが行われると告知されているのだから、踊っているように見えなくてもダンスなのだ。しかも昨今ではダンスなのかなんなのかわからないものまでダンスと言われるのだから、注意しなければならない。もちろんもっと積極的にダンスと言われる理由もあるはずだ。何らかの必要性からではなくて、動くことそれ自体を目的として動いていることととりあえずは言えるだろうか。そしてその目的の先に、身体を動かすことによる喜びがあるとしたら、ロックの動きが何らかの喜びを彼自身あるいは見る者に与えたということだろう。その喜びとはなんだろう?

 岡本太郎作の「こどもの樹」の横に、小さな白い棒を8本置いて7メートル四方ほどのスペースを確保。そこに白いパンツにオレンジのシャツのロックが歩いてきて、ある瞬間にフッとダンスが始まる。ダンスが始まる瞬間は、いつもワクワクする。ロックは、少し歩いては急激に方向を変える、両手を複雑にクルクル動かす、時々止まって逆回転する、座り込んだり寝転んだり、足をスッと遠くに伸ばしたり、膝を曲げてくるりと回って何事もなかったかのように歩いて行く、その歩く速度が微妙に遅くなったかと見えると急速に旋回したり、その動きが巻き戻しに見えることもある、ある時は急に静止して微妙に肩を上下に動かす……これが30分ほど続く。

ポール=アンドレ・フォルティエ 『15× AT NIGHT』 撮影:MILLA
ポール=アンドレ・フォルティエ 『15× AT NIGHT』 撮影:MILLA

 個々の動きにも、個々の動きのつながりにも、意味はない。でも、動きが時間を引っ張っていくかのようにして複雑な流れが生みだされ、多彩な差異が意味のようなものを帯びてくる。バラバラの動きにしか見えなかったものがひとつながりになり、その動きの組み合わせと時間の伸縮が、言葉とは異なるけれど、なんらかの統辞法を備えているかに見えてきたらしめたものだ。ダンスの喜びはそのすぐ先にある。

 ロックのダンスは、非常に細かな動きを音楽なしでつないでいくので、繰り返しのリズムはほとんど成立しようがない。だから即興的に自由に動いているように思えた。でも、フォルティエによると、即興ではなくて、すべてきっちりと振り付けられた動きなのだという。振付の究極的な目標が、内発的なまでに見えるほど自然にダンサーに植え込まれることだとしたら、この上演は成功と言えるだろう。でも自発的に行っているはずの行為が実は既に強制的にすりこまれた行為ということもあるかもしれない。振付なのか即興なのか、というのは、ダンスでいつも問われるものだが、もちろん内発的な即興と完璧な振付のどちらが優位というわけではない。フォルティエとロックのこのパフォーマンスが素晴らしいのは、振付の支配でも内発的な自由でもない、どちらにも片寄ることのないところでダンスを成立させていたことだろう。それはダンスの基本なのだと思う。

 毎日ほぼ同じ時間に15日間、ロックは踊っていた。派手な大道芸ではないから、ちょっと立ち止まってもすぐに立ち去ってしまう人が多かった。でも、次の日の同じ時間にまた通りかかって、「あれ? またやってる」と、しばらく立ち止まった人もいるかもしれない。そうして、ロックの動きに自分の時間をわずかでも合わせることができて、ダンスの言葉をわずかでも感じる事が出来たなら、ダンスを見る楽しみや喜びに触れることができた人がわずかでも増えたかもしれない。Dance New Air の目的が、ダンスの明日へとダンスの可能性を広めることであったのなら、フォルティエの作品を上演したことがその最大の成果だったと思う。クラクラするような多彩な他のプログラムの中で、ダンスの本質を、シンプルに無防備にさらけ出していたのだから。精密な振付があり、それを現実化するダンサーの身体があるという、ダンスを成立させるあたりまえの行いからすばらしいダンスが生まれることを証明してくれたふたりに感謝したい。