わからないけどわかること─ 悪い芝居プロデュース アンダーヘアvol.1『マボロシ兄妹』── 藤原央登
演劇の醍醐味とその本質を捉える作品であった。虚構と現実が入り組んでメビウスの輪のようにつながる物語構造。ある者/物が別のものへと瞬時に変換する見立てと名付け。そこに、見世物小屋興行を生業とするフリークス一家の存在が、めくるめく虚実の迷宮にまがまがしさを加える。
前歯、奥歯、八重、糸切…… 歯の名前にちなんだ登場人物ばかりが登場する。主軸になるのは兄妹探しだ。前歯は奥歯という妹を探し、八重は戦地に赴いた兄・糸切の帰りを待つ。別々に進行する兄妹をめぐる2つの世界はやがて合一し、どちらが現実で虚構なのか、現在であり過去なのかが判然としなくなる。すべては妄想狂の前歯が見た幻なのか。前歯と八重は他人なのか本当の兄弟なのか。それとも、前歯と八重だけが実在するのか。
ひとまずそう思わせるシーン以降が、この舞台の肝である。そこで、前歯は狂人の夢から脱しようとする。「右の奥歯以外は全部グニャグニャ蛸人間。身体がこんな小さくて脳味噌はねずみの大きさ」である奥歯は、首から提げた瓶の中に収められている。前歯はそれを見つめ、妄想することはやめて八重と暮らすことを決意する。傍らには八重と、これまで奥歯を演じていた女優(渡邊安理、演劇集団 キャラメルボックス)もいる。だが、もう前歯と八重にとって、女優はいないものになっている。「じゃあ私は?」と彼女が問いかけても返答はない。女優はこの時点で物語から弾かれてしまうのだ。異形の者が跋扈する劇世界を生身の身体で実体化していた女優は、物語が閉じられようとする時に用なしとなり、役名を失ってしまう。そこに存在するのは一人の女でしかない。ごろんと舞台上に投げ出されてしまう女優は、自らのアイデンティティが揺さぶられてしまう。
お兄ちゃんが物語を夢想することをやめれば私は消える。それもわかる。見ている人たちがいなくなれば私は消える。それもわかる。幕が閉じれば私は消える。それもわかる。やがてこの劇場がとり壊されて私は消える。それもわかる。で、これは? いまここにあるこれは? この声は? この顔は? この手は? 足は? 今ここに立っている私は? 私は何?
役を演じる女優という3つ目の世界の出現である。虚構の物語を生きるけれど、確かにそこに存在している女優。彼女の姿を通して、俳優とは虚実のあわいを生きる存在であることを痛感させられる。そして演劇とは見世物小屋のごとく、場がなくなればその存在の痕跡がきれいに消えてしまう。先の台詞は、本作が上演された青山円形劇場の閉館(2015年1月で)を意識して書かれたものだろう。つまり、本作が虚構と現実の二項対立ではなく、両者がどこまでいっても峻別できない物語に仕上がっているのは、演劇そのものの謂いになっているのだ。したがって、3つ目の世界が現実であり本当であるということでもない。ひとりたたずむ奥歯を演じていた女優は、役から解けて舞台上に放り出されても、なおもその女優そのものとしては存在できないからだ。彼女は役目を失ってもなお、女優という役を背負うことを強いられる。役と俳優の境界を線引きすることは不可能である。ここにおいて、虚実の境界を峻別することに対し禁欲的であろうとする物語と通底する。
もう一点指摘しておきたいのは、彼女は観客がいてかろうじて女優として認識されるということだ。奥歯を演じていた女優は、観る者がいなければ存在し得ない役者の生態を、役名を剥奪されるという地点へ追い込まれることで肌身に迫ったものとして感得する。人は、互いが互いを認識する他己認識がなければいないも同然なのだ。その一点を観客と共有することは、演劇の根源に降り立つことである。そのことの確認は、劇場外での現実と虚構のあわいへと昇華されることだろう。つまり、生の認識=人間の肯定という問題を孕むことになる。
重要なのは、演劇の根源を悪戦苦闘する中で模索することが、最終的に生の肯定へとつながっている点である。それは、生の肯定を言いたいがために演劇を使うこととは違う。確かに本作は、虚実の迷宮に観客を誘い、わからなさに放り込む。だが、そのように複雑な回路を経なければ、生の肯定を掴み取ることができない。そこまで至ったことに、この舞台の価値がある。震災後の世界は、現実が虚構化することを我々に突きつけたのではなかったか。そのような世界では、虚構が虚構として、現実が現実として峻別することなどできはしまい。同時に、演劇の特性である虚構性と「いま、ここ」性も同様である。今や、純粋に作品を舞台に上げればそれらが担保される、そういうわけにはいかなくなっている。複雑なこの世界に対応しながらも確かな手触りを感得させる本作は、単に客を煙に巻いたり、知的なメタシアターで終わるだけではない、非常に真摯な目差しが注がれている。
作・演出の山崎彬が率いる京都の劇団「悪い芝居」は、世間に悪態をつくことから演劇を開始した。近年は東京の若手劇団同様、生を肯定する作品を上演してきているが、うまく描き出せていなかった。フリークスといった従来のモチーフも復活させつつ、演劇自体を物語った本作は、山崎彬の代表作となった。奥歯=女優を演じた渡邊が、ヒロインに相応しい可憐さをまといつつ、この世界で屹立したいと切望する少女としての説得力を有していた。また、劇団に常連客演している大塚宣幸(大阪バンガー帝国)は、コメディリリーフとしてスパイスを効かせる仕事。見世物小屋のMCとして笑いを取る彼は、混乱する観客の頭を落ち着かせてくれた。
(2014年7月19日マチネ、青山円形劇場)