越境文化演劇としてのティーンエイジャー協働――「教育劇」の再考について――有楽町アートアーバニズム YAU『Nightwalks with Teenagers in TOKYO』/宮下寛司
3.越境文化としてのアマチュア演劇
都市の潜在的な可能性を開く演劇的な都市プロジェクトを通じて子どもたちの潜在的な可能性はいかにして経験されうるのか。それは都市の可能性に気づくことで初めて可能になることとひとまずいえるだろう。それは、子どもという存在を規定する都市の規範的な権力が及ばず、また対抗的な現実を作るために子どもが利用されるようなことがないような瞬間であるといえる。しかしそのような瞬間における子どもの潜在的な可能性は、それ自体としか言いようがないとき、どのように経験され語ることができるだろうか。
哲学者ベルンハルト・ヴァルデンフェルスは、子どもを異他(fremd)となざしている。1)Meyer-Drawe, Käte / Waldenfels, Bernhard: Das Kind als Fremder. In: Kids on Stage – Andere Spielweisen in der Performancekunst: transgenerational. transkulturell. transdisziplinär. Hrsg. v. Kristin Westphal u. a. Bielefeld 2022, S. 95 – 112.この異他はヴェルデンフェルスにおける重要な術語である。異他的経験は身近にあふれており、例えば外国の言語や文化などである。これらに前提として対置されるのは、自己の固有性(eigen)である。自らの言語や文化の論理でもって決して認められない他の言語や文化は異他的なのだ。固有性を前提とする限りにおいて現れる理解不能性を異他と呼ぶが、歴史的にみて外国人や遠い外国の文化はしばしば都合の良い憧憬の対象であった。異他は、排他的な関係でもって一方的に享受されることもあれば、自己固有の文化を脅かす存在として糾弾され憎悪されることもあった。他者に対する承認不可能性をめぐるのが異他である。ヴァルデンフェルスは大人であるという自己理解や固有性に対する異他として子どもを挙げているが、異他としての子どもは他の関係に現れる異他とは少し異なると述べている。なぜならば、大人はかつて一度子どもであったからだ。もちろん、子どもであったという事実が今、目の前にいる子どものことをすべて理解できるということを保証しない。また、可能性を通じて未来を志向するような存在である子ども自体を、自らの経験だけで理解することもできないだろう。異他としての子どもは、大人にとってみれば自らの近さと決して近づけない遠さを併せ持っているといえる。すなわち自己固有と異他の境界線がより分かりづらいのだ。例えば『ナイトウォークス』道中における子どもたちの発言の多くは、大人が持つ見識の限界をつくものでもなければ、翻って了見不足であると指摘できるようなものでもなく、無理なく了解できる。無理なく了解できるということが大人との地続きであることを意識させ、またそれゆえに都市や文化の規範を共有していることがわかる。(例えばティーンエイジャーが日々直面する話題は入試や恋愛に関する話であった。そのようなある人生の局面における悩みや洞察は私たちもかつて通ってきたものだと考えがちである。)しかしそれはわたしと「違って」どのように規範化されているかまでは知りえない。それゆえにいかにして今、異他として子どもが現われるかを確証はできない。
子どもたちが発案したであろうゲームは、誰にでも簡単にできるものであり、また時にはどこかで聞き知ったものである。また、都市空間において行うことのリスクがあるわけでもなかった。すなわち、アーティストとしての強い独創性を発揮していたわけではないが、独創性を発揮するプロフェッショナルであることをティーンエイジャーに対して期待することに対して私たちが反省するとき、この反省こそが異他を考えるうえで重要になる。
プロフェッショナルに対置されるアマチュアは、単にプロフェッショナルに対する未成熟を意味するのではない。演劇学者ギュンター・ヘーグによれば、アマチュア演劇は演劇文化における自己固有と異他を分ける境界を動かす。それは、演劇文化に固有なプロフェッショナルな要素と異他の要素であるアマチュアの境目がぼやけるというだけではない。自己固有の中にある異他の要素、あるいは異他の中にある自己固有の要素が発見されることで、明確な対立が成立しないということである。ヘーグは、異なる文化間における自己固有と異他が交錯し合う関係を越境文化と呼び、文化の自己完結なイメージを幻想として捉えなおすことを提唱した。2)越境文化のモデルについては以下を参照。ギュンター・ヘーグ『越境文化演劇』平田栄一朗、石見舟他訳、三元社、2024年。それを通じて自己固有とされている文化は変容を遂げることができる。ヘーグは、演劇文化そのものが変容を遂げる可能性があるとしたら、このプロフェッショナルとアマチュアという自己固有と異他の越境であると指摘している。3)Heeg, Günther: Gesten/Gemeinschaft. Das Lehrstück als Modell. In: Fremde spielen: Materialien zur Geschichte von Amateurtheater. Hrsg. v. Günther Heeg u. a. Uckerland 2020, S.55-63.ヘーグはプロフェッショナル/アマチュアの越境を理論化するうえで、まさにブレヒトの教育劇を参考にする。そこで注目されるのは、俳優と観客の関係が(見かけ上は)止揚されたうえで参加者が出来事を遂行しきることを主張したことである。これは演劇の外にある社会で行為できる人間を生み出すための訓練ではない。むしろ、社会における行為を演劇的な状況で模倣しきることで、その限界を検討し、その行為が持つ意味を拡大させる。行為を呈示することに関して特権的な俳優という役割が止揚されるのは、演劇的な状況それ自体を非プロフェッショナルの参加者が模倣して、その限界を測るためである。演劇文化を変容させるための自己検証は、プロフェッショナル/アマチュアの間にある越境可能性を実演して初めて可能になる。
ヘーグに引き付けて考えるならば、子どもたちはまずアマチュアという異他として都市プロジェクトを実演する。大人はこれまでプロフェッショナルのパフォーマンスにふれ、演劇文化に固有な規範をすでに知っている。子どもたちはアマチュアとしてそうした文化規範において異他として現れる。それを通じて何が自己固有であるか、あるいは異他と言いたくなるのかを、動揺を認めながら考え直すことが求められるだろう。それは子どもを包摂するために線引きをやり直すのではなく、自他の交錯関係においてそれが容易ではなく、むしろ大人であるという自己固有のアイデンティティの中に異他の要素を見出すことである。子どもの潜在的可能性それ自体とは、実のところこのようなアイデンティティの変容可能性として大人へと差し向けられ続けている。
註
1. | ↑ | Meyer-Drawe, Käte / Waldenfels, Bernhard: Das Kind als Fremder. In: Kids on Stage – Andere Spielweisen in der Performancekunst: transgenerational. transkulturell. transdisziplinär. Hrsg. v. Kristin Westphal u. a. Bielefeld 2022, S. 95 – 112. |
2. | ↑ | 越境文化のモデルについては以下を参照。ギュンター・ヘーグ『越境文化演劇』平田栄一朗、石見舟他訳、三元社、2024年。 |
3. | ↑ | Heeg, Günther: Gesten/Gemeinschaft. Das Lehrstück als Modell. In: Fremde spielen: Materialien zur Geschichte von Amateurtheater. Hrsg. v. Günther Heeg u. a. Uckerland 2020, S.55-63. |