越境文化演劇としてのティーンエイジャー協働――「教育劇」の再考について――有楽町アートアーバニズム YAU『Nightwalks with Teenagers in TOKYO』/宮下寛司
2.都市プロジェクトの射程範囲
『ナイトウォークス』はMDRのもとに集まった10代のティーンエイジャーたちが中心となって企画されたツアーパフォーマンスである。ティーンエイジャーたちはYAUの周辺である有楽町や丸の内、日比谷を巡り、その経験をもとに実際に各所をめぐるツアーを設計した。『ナイトウォークス』は街をティーンエイジャーたちと歩くこと自体が主題化されており、都市を舞台にひとつの物語やシーンが演じられるわけではなく、一貫した主張を示すわけでもない。そのため、『ナイトウォークス』にはルートがあるものの、その中では多様なアイデアが展開される。
パフォーマンスは日比谷公園の有楽町口で待つティーンエイジャーと夜6時に集合することから始まる。そこで観客も子どもたちも混ざり合うような小さいレクリエーションを行う。例えば、指示にしたがって周りにいる人たちと小集団をつくり自己紹介のゲームを行う。その後一つの集団としてまとまるようになると、揃って日比谷公園の中を歩きだす。日比谷公園の中を歩き回る過程で、時折立ち止まってプレゼンターとなるティーンエイジャーが前に出て説明を行ってゲームを行う。一団は場所を替えながらゲームに興じ、音楽をかけ踊りながら移動しつつ、公園を背にしてビジネス街へと繰り出す。都心部でも大きい道路である409号線に沿って歩いていく。あるビジネスビル前に開けたベンチスペースの一角に一行が陣取ると、かつてのバラエティー番組でよく見た「未成年の主張」に似たスピーチ大会を行う。パフォーマンスの過程で観客もティーンエイジャーたちも等しく、盛り上げるための掛け声をかけることをその場を仕切るプレゼンターから求められることが多く、『ナイトウォークス』の集団は、小さい親密な共同体よりは、公共空間に対してシュプレヒコールを行う集団になることがしばしばある。
広場を出た一行はさらに409号線を突き進んでいく。そこから先は港区であり、高層ビルが周りを取り囲むようになる。虎ノ門ヒルズを臨む交差点でまた立ち止まり小さいゲームを行う。道のりは思ったよりも長く、文字通り散策でもあり、ツアーパフォーマンスでもあるような時間が続く。港区の移ろう景色を眺めたり、ゲームを行ったり、あるいは子どもたちと話したりする。自分のパースペクティブに集中することとパフォーマンスに参加することの間を行き来するような時間である。
東京タワーのふもとにある芝公園につくと、肩を寄せ合うほどの距離で円を作りペンライトで周りを照らす。各自の小さい頃の夢を語るリレーを行い、『上を向いて歩こう』が手持ちのスピーカーから再生される中、『ナイトウォークス』は終演となる。そして観客一人一人は夜の港区へと散っていく。

このような劇場ではなく都市を舞台にするパフォーマンスは2000年代以降、都市プロジェクト(Stadtprojekt)という新たなフォーマットとして主としてドイツ語圏で注目されてきた。もっとも都市を歩き回るという美的戦略は、ギー・ドゥボールによってすでに実践されていたこともあり、既にパフォーマンスの歴史において系譜づけられている。都市プロジェクトがそれまでの試みと異なるのは、都市とパフォーマンスの関係である。1)Holling, Eva: Eingriffe in den Möglichkeitsraum? Stadtprojekte als neues Genre des Theaters. In: Interventionen. Grenzüberschreitungen in Ästhetik, Politik und Ökonomie. Hrsg. von Doreen Hartmann u. a. München 2012, S. 113-125.ドゥボールと同時代に現れ始めた都市でのパフォーマンスは、通常都市において見られることのない身体のあり方が現われることを目指していた。まさしく「パフォーマティブにと都市へと介入すること」が目的といえる。しかしながら、介入がどこまで実効的かは懐疑的になるべきだろう。多くの場合、パフォーマンスが芸術的実践である上演としてそこに留まることが許されており、スタッフの配置などによってそれが可視化されている。(確かに都市の使用には法制度上の限界があり、これを踏み越えるならばむしろアクティビズム的な行為へと向かっていくだろう。)1970年代に行われた街頭パフォーマンスが迎えた限界を見越すのならば、規範に対して破壊的なことを目指すことは目的にもはやなりえず、この条件を無視することはできない。それゆえ都市はむしろパフォーマンスが行われていることを許容しているとさえいえる。都市プロジェクトは、確かに介入という目的をある程度共有しているといえる。しかしながら、パフォーマンスは観客の知覚に対して介入するのであり、都市からの知覚とそこでの振る舞いが一つの規範によってのみ成り立つわけではないことを示そうとする。すなわち、都市へ個人が身体的に介入することで新たな現実を作り上げることが目的なのではなく、都市の異なる可能性に気づく他の観客と居合わせることが目的なのである。その意味で都市プロジェクトは、劇場での公演でなかったとしても観客という存在を抹消するわけではなく、むしろその思考する審級がなければ成立しない。そうであるからこそ、子どもと一緒にゲームをすることとそれを眺めること、さらに全員が一つの観客として都市を眺め歩く経験は等しく重要である。様々な観客の共同体が流動的に現れるからだ。都市プロジェクトは規範を生み出す都市に対抗的なのではなく、都市には(パフォーマンスが行えるという可能性も含めて)潜在的な可能性があふれていることを示すという意味で補完的である。さらに、都市それ自体は、その匿名性ゆえに、演劇/劇場と似て様々な可能性を約束できる空虚な場所でありうる。つまり都市と劇場は同じ原理を持つ場所である。都市的/演劇的であることそれ自体が潜在的な可能性に気づくことをめざすのであれば、それは教育劇の理論の目的でもある。『ナイトウォークス』が都市プロジェクトであることは非常に説得力があるといえる。
註
1. | ↑ | Holling, Eva: Eingriffe in den Möglichkeitsraum? Stadtprojekte als neues Genre des Theaters. In: Interventionen. Grenzüberschreitungen in Ästhetik, Politik und Ökonomie. Hrsg. von Doreen Hartmann u. a. München 2012, S. 113-125. |