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0.Mammalian Diving Reflexについて

 ママリアン・ダイビング・リフレックス(Mammalian Diving Reflex、以下MDR)はダレン・オドネルを中心に、カナダのトロントで1993年に結成されたアーティスト・グループである。MDRはパフォーマンスやインスタレーションなどを中心に幅広い活動を行っており、また世界各地の都市でプロジェクトを展開し独自のコンセプトやフレームワークを世界中に広めている。日本では既に2017年と2021年にパフォーマンスを上演している。そして2024年11月に有楽町アートアーバニズム(YAU)にて、パフォーマンス『Nightwalks with Teenagers in TOKYO(ナイトウォークス・ウィズ・ティーネイジャー)』(以下『ナイトウォークス』)が上演された。これは欧米で幾度も再演され、2023年には韓国でも行われた。

 このパフォーマンスはMDRが培ってきた実践の方向をよく体現している。MDRはアートを通じて硬直した社会構造を変容させるようなショックを与えることを目指しており、そのための方法論を「社会の鍼治療(social acupuncture)」と名付けている。この方法論はヨーゼフ・ボイスによる「社会彫刻(social sculpture)」を思い起こさせるだろう。とりわけ社会における自律的かつ創造的な主体性を形成するためにパフォーマンスといった芸術的実践が用いられる点で共通している。MDRによるプロジェクトの多くは、『ナイトウォークス』に代表されるように子どもとの共同制作によって行われる。変容すべき社会構造とは、具体的には子どもたちを取り巻く社会構造であり、変容した未来は子どもたち自身によって形象化される。『ナイトウォークス』を通じて、子どもたちのための未来と、未来としての子どもはいかにして呈示されるのだろうか。そして、そのパフォーマンスの経験は誰の(ための)経験なのであろうか。

有楽町アートアーバニズム YAU ママリアン・ダイビング・リフレックス『Nightwalks with Teenagers in TOKYO』
企画・出演=公募で集まった、東京近郊に住む13歳から17歳のティーンエイジャー
2024年11月15日(金)18:00・16日(土)18:00/会場=有楽町を起点としたまちなか
撮影=Tianhu Kang

 

1.ティーンエイジャーという世代の政治的含意

 子どもたちと協働することは近年の上演芸術では見逃すことのできない手法である。子どもであること自体は舞台に上がるようなプロフェッショナル足りえないと長らくみなされており、近年のプロジェクトはこれを反省して、子どものありかたそのものを認めながら舞台上で包摂することを目指しているといえるだろう。「世界人権宣言」(1949)や「子どもの権利条約」(1989)によって、子どもは社会における主体足りうる存在としていまや認められており、このような包摂に向かう運動は正しいように見える。もっとも、大人と子どもの間には、―舞台上であれ社会一般であれ―権力関係が存在し、あるいは言い換えればその権力関係によってはじめて大人と子どもという異なる主体が生じて結びつけられる。そのことに鑑みるならば、子どもを舞台へと包摂することだけでもって平等な主体性を付与できるわけではない。むしろ包摂に至る前に上演芸術に固有の子どもと大人をめぐる権力関係を反省することが求められる。その権力関係は、舞台上で規範的な振る舞いが可能であるプロフェッショナルであるか否かによって峻別される差異である。例えば、プロフェッショナルたる大人は長年の訓練を通じて舞台上で適切に振る舞えるとみなされる。大人は規範的なプロフェッショナルとして、子どもは非規範的なノンプロフェッショナルとしてみなされる。非規範的な子どもを単に舞台上へ包摂することは、規範的な大人の自己反省を促してくれる存在として招くことであり、子どもはその限りで承認される。そこにはオリエンタリズムと似た非対称な権力関係がなおも温存されうるのであり、反省されるべきはこの規範を通じた承認をめぐる権力関係である。

 歴史学者フィリップ・アリエスが示したように1)フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』杉山光信、杉山恵美子訳、みすず書房、1980年。、子どもと呼ばれるアイデンティティは社会や経済、政治などの諸要因によって決定されており、社会の変動に応じて変容してきた。とりわけ今、一般的に知られているような保護の対象としての子どもというあり方は、都市社会において経済主体の単位として核家族が登場し、公的領域と私的領域が区別され、子どもは私的領域すなわち家庭に属するとみなされることに由来する。また子どもに対する教育の義務や制度化もまた近代的な社会の特徴であるが、子どもを未成熟で教育が必要な存在として規定している。このことはいかなる方法であれ、教育制度には子どもを社会的にそのようにみなしてしまう規範的権力が生じることを暗に示す。さらに、アメリカのジャーナリストであるジョン・サヴェジによれば、「ティーンエイジャー」は、自由なエネルギーを持つ世代とみなされ、とりわけその文化がもつ購買力による市場的価値を期待されてきた歴史的経緯を持つ。2)Savage, Jon: Teenage: The Creation of Youth Culture. New York 2007.すなわち都市社会における経済的原理はティーンエイジャーがひとつの資源であることを発見するのである。子どもやティーンエイジャーと呼ばれるあり方は近代の都市社会の必要によって多層的に構築されるのであり、社会から馴致されない素朴な子どもをそのままの存在で認めることは極めて難しい。

 近代的な意味での子どもと上演芸術との関係は政治(的)演劇において顕著に現れる。3)Primavesi, Patrik: Stop Teaching! Theater als Laboratorium (a)sozialer Phantasie. In: Stop Teaching! Neue Theaterformen mit Kindern und Jugendlichen. Hrsg. v. Patrick Primavesi und Jan Deck. Bielefeld 2014, S. 15 – 45.それは単に、子どもを舞台に上げて政治的なテーマを語らせるときではなく、子どもが社会へと結びつく教育という手段が政治演劇の実践において語られるときである。この関係を実現することに意識的であったのがベルトルト・ブレヒトである。彼が断片的に遺すにとどまった教育劇という理論と実践は、演劇を教育の場としてみなす画期的な理論足りえた。そこでは舞台を観て観客が思考し、その結果として行為を決断し遂行するための主体になるプロセスを上演することが目指されていた。すなわち主体的な学びの現場としての演劇である。この理論はしばしば、何らかの社会規範への従属に対する蜂起を観客に促すモデルとしてみなされがちである。この理解のかぎりでは、観客は望ましい抵抗をなせない未熟な主体として想定されてしまう。ブレヒトが教育劇の理論において行き詰まったのは、党派的な扇動を効果的に行えなかったからではない。思考した結果の行為が、劇作家や演出家が望む以上の結果をもたらしうることをすでに予感していたからである。

 ブレヒトの盟友である思想家ヴァルター・ベンヤミンは、子どもを「独裁者(Diktator)」と極めて挑発的に名指している。このことは、独裁者が現存する権力関係を中断し、かつそれらと無関係に自らの秩序を生み出すことができることになぞらえられている。近代社会の子どもというあり方が、都市社会において主として大人によって構成される権力関係の相関項としてだけみなされるのであれば、子どもたちを取り巻く様々な規範が中断したとしても、その後に具体的な子どもの本質が出来するわけではない。独裁者たる子どものあり方は現状の権力関係には見えないところで実現するのであり、それを我々は潜在的可能性と名指すほかない。これは、将来的な能力を個々人に平等に期待することとは異なる。そのように期待される能力もまた現状の権力関係によって求められているのであり、子どもであること自体の潜在的可能性はその関係を中断しなければ見出されないからだ。演劇学者ニコラウス・ミュラー=シェルは、子どもという存在は権力関係の中断としての可能性そのものであり、演劇の性質そのものと類似すると指摘している。4)Müller-Schöll, Nikolaus: Das Kind als Diktator. Walter Benjamins Kindertheater der Potentialität. In: Kids on Stage – Andere Spielweisen in der Performancekunst: transgenerational. transkulturell. transdisziplinär. Hrsg. v. Kristin Westphal u. a. Bielefeld 2022, S. 161- 183.なぜならば、演劇性は社会規範を模倣して表象する原理ではなく、その規範を引用して機能や意味を中断させる原理だからである。そうであるならば、教育劇とは、子どもの潜在的可能性それ自体が経験されるような演劇であり、言い換えれば、教育劇とは反体制を最初から目指すようなそれ自体の経験でもありうる。演劇教育学者のヤン・デックが示すように、現状の社会あるいはクリエイションの状況に鑑みれば、子どもの潜在的可能性を引き出すことを試みる過程にはリスクも矛盾もある。5)Deck, Jan: Paradoxe Verhältnisse. Zum biopolitischen Kontext der Theaterarbeit mit Kindern und Jugendlichen. In: Stop Teaching! Neue Theaterformen mit Kindern und Jugendlichen. Hrsg. v. Patrick Primavesi und Jan Deck. Bielefeld 2014, S. 47 – 67.子どもの安全が脅かされることは避けなければならないのは当然である。ただ、デックの示すリスクや矛盾は通常期待される水準の成功を目指す大人の側に現れる。というのも、子どもという存在それ自体を参加させるのであれば、そうした「成功」は成就しないこともあるからだ。

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1. フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』杉山光信、杉山恵美子訳、みすず書房、1980年。
2. Savage, Jon: Teenage: The Creation of Youth Culture. New York 2007.
3. Primavesi, Patrik: Stop Teaching! Theater als Laboratorium (a)sozialer Phantasie. In: Stop Teaching! Neue Theaterformen mit Kindern und Jugendlichen. Hrsg. v. Patrick Primavesi und Jan Deck. Bielefeld 2014, S. 15 – 45.
4. Müller-Schöll, Nikolaus: Das Kind als Diktator. Walter Benjamins Kindertheater der Potentialität. In: Kids on Stage – Andere Spielweisen in der Performancekunst: transgenerational. transkulturell. transdisziplinär. Hrsg. v. Kristin Westphal u. a. Bielefeld 2022, S. 161- 183.
5. Deck, Jan: Paradoxe Verhältnisse. Zum biopolitischen Kontext der Theaterarbeit mit Kindern und Jugendlichen. In: Stop Teaching! Neue Theaterformen mit Kindern und Jugendlichen. Hrsg. v. Patrick Primavesi und Jan Deck. Bielefeld 2014, S. 47 – 67.