30年後の世界のために〈種〉をまく―― 座・高円寺『小さな王子さま』/塚本知佳
ここで場面を少し巻き戻したい。地球の指導者たちによる環境問題サミット、動物たちによる戦争への抗議など、本作には『LE PETIT PRINCE』にはない独自の場面がいくつかある。そのひとつが王子が種をまく老人(髙田恵篤)と出会う、この作品の中で最も静謐な場面である。
老人は、すでに自分はこの世に存在していない30年後にその場所が森になるように種をまいているという。この舞台は白を基調としているが(床面も白い)、場面ごとに照明と美術はさまざまな色と幾何学の組み合わせを変え、そこに音楽が加わり(ルドヴィコ作品における音楽の使い方の巧みさは毎度感嘆するばかりだ)多彩なニュアンスを表現する。そしてこの場面は元々の舞台の白さを生かし、空間の余白をそこにつくる。これは観客に30年後の森を思い描かせるための余白ではないだろうか。この場面で感じるのは、ルドヴィコの観客に対する圧倒的な信頼感である。それは私たちが30年後の森をそこに思い描くことができることへの、私たちが老人から種を受け取るということへの信頼である。
老人は木のない土地は死んでしまうと語る。この世界を見れば森と水も密接な関係がある。そして先ほどの水を運ぶ人物に戻ろう。
水を運ぶ人物――その「誰か」が、すでに述べたように初演ではカーテンの奥で、ともするとその存在を見逃してしまいそうな、まさしく「誰か」であったように思う。しかし今回の上演では「誰か」は明らかにその存在が強調されている。それは初演から2年を経た2024年の世界を省みて、水を運ぶ「誰か」がいることを、二人を見ている「誰か」がいることを、その「誰か」の必要性をより強く呼びかけ、「誰か」かが「あなた」であり得る、この舞台を観ている「わたし」であり得るという責任を投げかけられているように感じるものであった。
最後の王子が星へと帰る場面でも王子は1人ではない。ニック・ケイブ &ウォーレン・エリスの『We Are Not Alone』が流れる。この最後の場面まで歌詞のある曲が使われなかったため、いっそう印象的に響く「We Are Not Alone」の歌声。この世界で私たちは1人ではない。
プログラムでルドヴィコは、サン=テグジュペリの「わたしたちはみんな、かつては子どもだった。でもそれを忘れてしまう」という言葉を引用し、子どもの世界と大人の世界は本当は1つなのにそれを大人が忘れてしまっている、と述べる。この子どもと大人が連続しているというルドヴィコの思想は本作品全体を貫いている。だからこそこの作品はかつて「子ども」であった「大人」のための作品でもあるのだ。いまこの時に、「大人」はこの作品から信頼と責任の〈種〉を受け取るべきではないだろうか。
(2024年9月28日観劇)