30年後の世界のために〈種〉をまく―― 座・高円寺『小さな王子さま』/塚本知佳
座・高円寺の秋のレパートリー「劇場へ行こう!」は、杉並区内の小学生の演劇鑑賞教室の対象プログラムであり、中学生以下であれば無料で何度でも観ることができるという、子どもに開かれたプログラムだ。今年は2023年7月より芸術監督となったシライケイタによる新作『夏の夜の夢』(原作=W. シェイクスピア、小田島雄志訳による/上演台本=岩崎う大/2024年8月31日~9月21日)と、テレーサ・ルドヴィコ脚本・演出による『小さな王子さま』(翻訳=石川若枝/2024年9月27日~10月12日)の2作品の上演である。
これで3年目の上演となる『小さな王子さま』は今年さらなる驚くべき深化を遂げた。
サン=テグジュペリの『LE PETIT PRINCE』に着想を得たという本作は、王子(浅川奏瑛)が砂漠で飛行士(曽田明宏)に出会い、バラ(山崎眞結)がいる小さな自分の星を出発しさまざま星をめぐる旅のなかでの出会いと体験を回想していく。
本作では、『LE PETIT PRINCE』の王子がそれぞれの星で1人の人物と出会っていくという構造を変更し、複数の人々(動物)を登場させる。王様の星では王様(髙田恵篤)の服の中にネズミがいて、うぬぼれ屋の星では2人のうぬぼれ屋(酒井直之、藤村港平)がそれぞれを鏡とするようにダンスを披露し、ビジネスマンの星では4人のビジネスマン(髙田恵篤、髙橋優太、酒井直之、山崎眞結)がひたすら交差して歩きつづけ、学者の星では学者(髙橋優太)には4人の助手がいるなど、この複数性が今年の上演ではさらに強調されていたように思う。
ルカ・ルッツァの美術は、三方を白いロープのカーテンで囲むだけで、舞台上に何か大きな舞台美術を置かない。例えば、飛行士の飛行機は脚立に車輪がついたような本体と紙と木で出来たシンプルな羽で造形され、この羽は別の場面では種を植える地面にもなる。また惑星をイメージさせる風船など、ここでの舞台美術は作品をデコレーションするものではなく、観客の想像力を想起させる役割をはたしている。そしてこれらの舞台美術を動かすのは出演者たちだ。王子役以外の6人の出演者たちは複数の役を演じたうえで、茶の上着に黒い帽子と黒いズボンの衣裳で、ときには黒子的な役割も担う。
本作はもともと台詞量が多くない。出演者の半数以上はダンサーであり、台詞の意味にだけ頼るのではない身体表現は、ときに詩情性を、ときに批評性を遺憾なく発揮する。例えば「大事なことは目には見えない」で有名な王子とキツネ(藤村港平)との出会いは、二人が互いの仕草を重ねながら距離を縮め、それがダンスになっていく、詩的な美しさに満ち胸を打つ。
今年の上演ではそのすぐれた身体表現に加え、それぞれの台詞表現に一段の磨きがかかり、それにより全体のアンサンブルがさらに親密になった。何より驚いたのは、そのことにより、美術、音響(島猛)、照明(榊美香)、衣裳(ラウラ・コロンボ)、それらと出演者たちの関係、つまり出演者のみならず舞台上のあらゆる要素がより有機的に深く結びついたことである。おそらく美術・音楽・照明・衣裳は初演から大きな変更はないだろう。それにもかかわらず、出演者たちのアンサンブルによりその他の要素までもが深く結び合うことで、それぞれの場面表現に細やかなコントラストが生まれた。本作は王子が旅する物語のため、必然的に場面転換は多くなるが、その空間の変容が(初演時から見事であると思ったが)、よりスムーズとなった。これは1秒違えばタイミングが狂ってしまうのではないか、という舞台表だけではなく、舞台裏での出演者たちの段取りのアンサンブルが成せる技であろう。
だから先ほど、出演者が装置も動かし黒子の役割も果たすと書いたが、それは正確ではない。出演者たちは舞台スタッフが転換のために舞台美術を移動させるのとは異なり、出演者と舞台美術の間にも表現者(モノ)同士の関係が築かれている。そしてこの黒子的なるものこそ、この作品において重要なのだ。
物語の終盤で、王子と飛行士が水を求めて行き倒れる場面。黒子的な衣装を着た1人が、桶で水を運んできて飛行士の口に水を含ませる。飛行士は気づき、王子に水を飲ませ、2人で水があることを喜び合う。初演ではこの場面はロープのカーテンの奥で行われ、水を運ぶ人物もすぐに去って行った。しかし今回の上演では、その場面がカーテンの前で行われ、水を運ぶ人物はその後で、カーテンの隙間から2人が起き上がるまでその様子をずっと見守っている(その間に、舞台上の壊れた飛行機が、別の黒子的なる人物たちによって修理されるということは初演も今回も同じである)。
本作における複数性は、初演のときから王子の旅を通じてこの社会構造そのものを批評的に描いていた。それは同時に、誰もが1人で生きているわけではない、誰かに助けられ、誰かを助け、その関わりのなかで生きているという、人間社会のあり方も示唆していたと思う。それが今回の作品では、この水の場面をはじめ、多くの場面で黒子的なるものの存在感が増していた。