ダンス作品にとっての共感と共鳴 ―― ノエ・スーリエ『The Waves』と共に / 坂口勝彦
先日、といってももう早くも半年ほど前のことになるが、彩の国さいたま芸術劇場でノエ・スーリエの『The Waves』が上演された(2024年3月29日と30日のうち、30日に見た)。公演の後、呉宮百合香氏を聞き手として行われたアフタートークで、ノエ・スーリエは次のような意味の話をした。「この作品は、私たちの日常の動きと共通する動きから作られた動きでできているので、見る人との間に共鳴が生まれやすいのです」。
同じようなことは、岡見さえ氏が事前に行ったインタビュー記事では、次のように語られる。
「ストーリーを語ることはありませんが、実際の行為がベースにあるので完全に抽象的でもない。一方で、これらのムーヴメントをつなげる方法にはダンサーの個性が強く現れます。こうしてダンスはムーヴメント自体の美とダンサーの個性、形式と感情の両面を含む豊かさを獲得します。この探究から生まれたムーヴメントをとおして記憶から身体の経験や感覚を呼び覚まし、観客と共有することが『The Waves』の振付の狙いなのです。」1)『埼玉アーツシアター通信 VOL.107』、17頁。ここで、「形式と感情の両面を含む」と言われているが、「形式」が動きの外形だとして、「感情」とは何だろう。普通ならその動きの意味のようなものと考えられるが、スーリエのこの発言からしたら、「ダンサーの個性」によって動きに与えられるのが「感情」のようだ。ダンサーの個性は、「ムーブメントをつなげる方法」に現れるという。それならば、「感情」とは、それぞれのダンサーがひとつひとつの動きをつなげることによって新たに生まれてくるものなのだろう。動きの前に感情があるわけではないし、感情を表現するのが動きではない。スーリエは何気なく語っているようでいて、実はこの後の論点からしても重要な観点となることを言っている。
「日常の動き」とか「実際の行為」とは、誰もが日常的に行うことがありそうな動きのことなのだろう。そのような動きから作られた動きから構成された作品であるからこそ、観客は動きの共有がしやすい。それゆえ、共鳴や共感を生みやすい。と、いちおうは理解できる。確かに、この作品の一つ一つの動きは、日常にありそうな動きでできていることは見ているとわかってくる。バレエやモダンダンスの大仰な動きはまったく現れないのだ。でも、それだけで実際に共感や共鳴を生むのだろうか。そもそも、共感や共鳴とはいったいどういう現象なのだろうか。ノエ・スーリエのこの作品にそってそのような原理的なことを考えてみたい。
その際、ノエ・スーリエ自身の著作『行為、運動、身振り(Actions, Mouvements et Gestes)』2)Noé Soulier, Actions, mouvements et gestes, CND (Centre Nationale de la Danse), 2016.や、この作品のタイトルの元になっているヴァージニア・ウルフの『波』も参考にしたい。
1 ノエ・スーリエ 『The Waves』
ノエ・スーリエは、1987年パリ生まれの既に中堅の振付家。アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのダンス学校 P.A.R.T.S. で修練しただけでなく、ソルボンヌで哲学の修士号を取得している。2020年にはアンジェ国立現代舞踊センターの監督に就任した。このセンターは、1970年代の後半に、文化の地方分権化を図る国策の一環としてフランス各地に作られた国立振付センター(CCN)のひとつで、1978年に創設された。CCN の中でも規模は大きいほうで、劇場と付属舞踊学校を有している。
今回上演された『The Waves』は、2018年初演の作品。6人のダンサーに、アンサンブル・イクトゥスから2人のパーカッショニストが参加している。イクトゥスは、アンヌ・テレサのローザスとの数々の共演で知られる3)たとえば、『Bartok / Mikrokosmos』(1987)、『Kinock』(1994)、『Amor Constante』(1994)、『Just Before』(1997)、『Drumming』(1998)、『I Said I』(1999)、『Rain』(2001)、『April Me』(2002)、『Steve Reich Evening』(2007)、『3Abschied』(2010)、『Vortex Temporum』(2013)、『Work/Travail/Arbeid』(2015)、『Dark Red – Kolumba』(2020)。。今回の2人は舞台下手にいくつもの打楽器を設えて、ダンサーたちと目配せをしながら高速度のミニマルな音を繰り出していた。時々遠くの方からクジラの鳴き声のような低い呻き声が聞こえたりして、音の種類も多彩だった。そして、ダンサーのひとりには船矢祐美子がいる4)船矢は、P.A.R.T.S. の後、2008年頃からニード・カンパニーで活躍していた。その後、ノエ・スーリエの作品に参加。船矢が出演したスーリエの作品のタイトルは、『Movement materials』(2014)、『Removing』(2015)、『First Memory』(2022)、『Close Up』(2024)など。このタイトルを見るだけでも、スーリエが運動それ自体に関心が高いことがうかがえる。冒頭の写真で中央にいるのが船矢。。
この作品は、ノエ・スーリエ自身が語っているようにストーリーらしきものはまったくなく、純粋に動きだけで進んでいく。その動きのひとつひとつは単純なもので、片足をあげたり、うずくまったり、腕を回したり、飛び跳ねたり、何かを投げる動作をしたり、飛び越えたり、走ったり、蹴ったり、撫でたり、叩いたり……ほとんどランダムに脈絡なく動きが連なっていく。2人あるいは3人の動きが時折シンクロすると、突然そこに意味のかけらのようなものが浮かび上がりハッとするが、それもすぐにランダムな動きの中に消えて行く。
ひとつひとつの動きは確かに日常的な動きに由来しているらしいことはわかるのだが、この作品で起きていることは非日常的にしか見えない。何かを投げる動きをしても何も投げる物を持っていない、何かを蹴る動きをしても何も蹴らない、何も殴らない、何を避けようとしているのかもわからない。私たちは通常は何らかの目的をもって身体を動かしていて、それほど無意味な動きはしていないだろう。それなのにこの作品での動きは目的や意味がわからない。なぜ投げるのか、蹴るのか、避けるのか、わからない。目的や意図が消去された動きの連続は、非日常的な奇妙な風景に見えてしまうのだ。
だとしたら、日常的なよく見知った動きとの共通性から共鳴や共感が生まれやすいという最初の話はどうなるのだろうか。私としてはこの非日常的になった日常性とでもいえる作品はとても面白かったので、少なくとも私とは何かしら共鳴が生まれていたのだと思うが、何を見せられているのかわからないという人も多かったのではないだろうか。
スーリエが意図した共鳴というものを理解するために、彼の著作を読んでみよう。
2 カンディンスキー 意図を欠いた運動
ノエ・スーリエは、2016年に出版した著作『行為、運動、身振り』で、振付の実践において、いかに動きに注目するかを、概念的な枠組みを構築しつつ具体的に考察している。その第22章「認識」の冒頭で、「動きの動機となる目的がわかってしまうと、その動きの見え方はまったく変わってしまう」5)同書、p.116。と述べたあと、次のカンディンスキーの文章を引用している。
「何を目ざしているかよく判らぬごく単純な運動が、すでにそれ自体意味深い。秘密にみちた、荘重なものとして訴えてくる。そしてそれは、運動の外面的、実際的な目的が知られていないからこそなのである。そのとき、運動は、純粋な響きとして働くのだ。単純な共同作業(たとえば、大きな目方の重いものを、持ち揚げるための準備作業)は、目的が判らないと、ひどく意味深く、ひどく神秘的で、ひどくドラマチック且つ感動的な効果を及ぼすので、ひとは、我れ知らず、まるで幻影か、別の次元の生活でも見るように立ちどまり、やがて実際の説明が一撃をくわえるようにやってきて、謎めいたその出来事とその理由が明らかとなり、突如魔法が消えてしまうまで、立ちつくしていることがある。」(カンディンスキー『芸術における精神的なもの』から)6)『カンディンスキー著作集 1 抽象芸術論―芸術における精神的なもの』西田秀穂訳、美術出版社、p.132。
これを書いた頃のカンディンスキーは、新たに取りかかり始めた抽象絵画がなにものであるのかを解き明かそうとしていた。ここで「純粋な響きとして働く」と言われる目的がわからない運動は、彼の抽象絵画にも通じる要点であり、スーリエが着目したのはそこだった。
私たちの感覚-運動システムは実にうまくできていて、たとえば目の前のコップを手で持とうとしてその目的に向かって腕の各部が動き始めたならば、指の間隔の調整とかコップとの距離などをことさら意識しなくても自動的に腕や指が動いていく。その複雑で微細な細部の運動は、日常的にはほとんど意識されない。誰か他の人の動きを目にする場合にも、何をしようとしているのかすみやかにその意図を理解して、動きの細部に注視することはほとんどないだろう。
「私たちは、動きの細部を意識的に分析しなくても、その動作の目的をすぐに把握することができる。動作の目的がわかれば動作のひとつひとつの進行に注意を払うことはなくなる。その動作が期待に沿っている限り、他のこと(会話や食事など)に集中していられる。だが、意図や目的を持っているように見えながらそれを捉えることができないとき、私たちはなんとか意味をみいだそうとして、その動きの細部に意識を集中させるだろう。つまり、動作の目的ではなく、動きそのものに注意を向けるようになる。」7)Noé Soulier、同書、p.118-119。
それが可能になる根拠のひとつとして、ノエ・スーリエは「ミラー・ニューロン」に言及している。「ミラー・ニューロン」は、もう10年以上前になるだろうが、ダンス作品を見ている観客の脳内で起きていることを説明する際にしばしば使われることがあった。とはいえ、そもそも脳内で起きていることを十分な蓋然性を持って説明することは難しいのであるから、「科学的」な装いをもった理論で安易に説明してわかった気になるのは危険だ。最近ではさすがに「ミラー・ニューロン」が語られることはなくなったようだが。
動きそのものを見てもらいたいという望みは、多くの振付家やダンサーの望みであろう。ここでスーリエが語っているのはその実現のためのひとつの方策であり、この『The Waves』でそれが実際に行われているように見える。動きそのものに注意を向けさせるために、動作の目的や意図の読み取りを意図的に阻止するような仕掛けが周到に仕組まれているのだ。たとえば、2人か3人が思いがけずシンクロすることで、その動きの元々の目的ははぐらかされて別の意味が浮かび上がるように錯覚させられる。また、一連の動きの幾箇所かを伸ばしたり縮めたりして、その動きから期待されるはずの意図を読み取りづらくする。こうして、日常にもありそうな動きだからこそ意図を捉えてしまいがちな無意識の作用は宙ぶらりんになり、動きそのものの様態がまるでそれを初めて見るかのように注視されることが可能になる。これこそノエ・スーリエが企んでいたことなのだろう。
これは、カンディンスキーが言っていた、動きにとって外面的な意味や意図を排除し、内在的なものだけで作品を作るということなのだろうが、では動きに内在するものとは何かというと、なかなか説明が難しい。とりあえずは、意図を欠いてバラバラになった動きを様々に組み合わせて浮かび上がってくるものといえるだろうか。もちろんモダンダンスも抽象的で無意味な動きの組み合わせからなるものが多いけれど、個々の動きは何かしらの美の伝承に由来する動きであるのがスーリエとは異なる8)カンディンスキーにしたがって、もう少しダンスについて考えてみたい。実はスーリエが引用した文章は、カンディンスキーがノイエタンツについて言及している部分であり、引用した部分に続けて次のように語っている。
「外面的には何の動機もない単純な運動のうちに、豊かな可能性の、測り知れぬ貯えが秘められている。(中略)時間および空間における運動の、内面的意味を利用しつくすことが、その唯一の手段であり、また、存在意義そのものである『新舞踊(ノイエタンツ)』は、こうした原理の上に打ち立てるべきだし、また打ち立てられることだろう。」(同訳書、p.133))
カンディンスキーがこれを書いた1910年の時点では、ルドルフ・フォン・ラバンもマリー・ヴィグマンもようやくダンスに向かい始めたばかりであり、ロイ・フラーやイサドラ・ダンカン等によるダンスの刷新が人々の希望を集めていた頃だった。それゆえこの「新舞踊(ノイエタンツ)」は、ヴィグマン等のドイツの表現主義舞踊ではなく、ダンカンの周辺のモダンダンスを指しているのであるが、ここで言われている「内面的意味」の利用は、少し後に現れる表現主義舞踊の意図を先取り的に指摘していると見ることができる。
この頃カンディンスキーは、内面ないしは内部と言われるべきものは何かを考え抜こうとしていた。それは彼が始めた抽象絵画が何を表しているのかを明示するために必要なことだった。今引用した部分で、内面的意味の「表現」ではなく「利用しつくす」と言われているのをみると、内面とは表現されたり表出されたりすることで外に現れるような心の内のことではないらしい。おそらく外と内との境界は身体なのだろう。身体の中が内部ではなく、身体全体が境界と考えられる。自分の身体をそこに実在するものとして体験する時は、身体は外部のものなのだろう。一方、自分の身体はそれを内部から体験されることもある。眠い気持ちは内部から身体を体験し、眠くなって枕に沈む時は枕と触れ合う外部として身体を体験するだろう。身体を通して体験される外部と内部は、それぞれ、見えるものと見えないもの、という属性をとりあえずは持っている。絵画であれば、それが何を意味するのか、何を表しているのか、動作であればそれが何を意図しているのか、という外面的なものの連関によってそこにあるように見えるものが外部であるならば、意味や意図は外部と言える。それならば内部と言われうるものは、そうした外部性を完全に払拭したものであろう。カンディンスキーにとって絵画の内部性とは、何を描いているかというような外的対象ないしは意味内容ではなく、絵画の素材となる形と色それ自体に内在する関係性とされ、この関係性を彼は「内的必然性」と呼んでいる( ミシェル・アンリ『見えないものを見る:カンディンスキー論』(法政大学出版局、青木研二訳、1999)を参照)。
先の文章で言われているように、カンディンスキーはダンスにも内的必然性のみから導かれる動きを求めていて、それは、従来のバレエなどに見られる慣習的な美や、物語を語る動きではない動きとなるだろう。媒体の純粋性を求めるモダニズムの一種ともいえるが、それだけではなく、眼に見えるものとしてはこの世界に存在し得ない関係性を表現するための新しい手段として考えられている。もちろん、「運動の内面的意味」ないしは「内的必然性」が表現された作品は目に見えるわけだが、「内面的意味」はその作品がなければ外的な対象として見ることのできないものなのだ。その後のダンスの展開を見ると、ヴィグマン等の表現主義舞踊は、内面という領域を新たに創出し、それを利用したと言えるだろう。ただしその内面とは、心の内にあるといわれる感情のようなもののことではなくて、新しく創出された内部と言った方がいい。カンディンスキーにしてもダンスにしても「抽象」と言われるのだが、それは外部に現れ出る内容や意味や表象のようなものが見えないからであるが、新たに創出された内面ではものすごいスピードで情報が動き回っている。スーリエのこの作品では、日常的な動きに由来する動きの形だけを持ってきて、その動きの通常の意味とか目的を空っぽにして、そこにあいた穴を通して新しい関係性をつないで行く。それが「内面的意味」とか「内的必然性」と呼ばれるカンディンスキーの言う内的なものに近い。カンディンスキーにとって形や色それ自体に持たせようとしている関係性は、スーリエにとっては動きそのものに持たせようとする新たな関係性になるだろう。。あるいは、アンヌ・テレサのローザスも動きに内在するものだけで作品を作っていると言えるだろうが、スーリエとは素材の選定と組み合わせの方法がかなり違う。ローザスが身体に可能なメカニカルな動きを集めるとしたら、スーリエは日常的な動きを集める。ローザスが動きを組み合わせ論的に配置するとしたら、スーリエは集めた動きでもうひとつの見えない物語を書いているように見える。
意図を欠いた動きで書かれる見えない物語は、この作品のタイトル『The Waves』の元となったヴァージニア・ウルフの『波』に由来すると思われる。次にウルフとの関係を考えてみよう。
3 ヴァージニア・ウルフ 自由な運動へ
ノエ・スーリエはインタビューで、この作品はヴァージニア・ウルフの『波』の「アダプテーションではありませんが、形式において共鳴しています」と述べている9)『埼玉アーツシアター通信 VOL.107』同上。。単純に物語を語るような作品ではなく「形式」を共有するということだろうが、そもそもウルフの『波』には明確なストーリーはないので、アダプテーションはしにくい。それならスーリエが言う共鳴する「形式」とは具体的にどのようなものなのだろう。
ウルフの『波』は不思議な小説だ。夜明けから日没までの太陽と海の記録が最初から最後まで断続的に続いている。その解像度の高さは異様なほどだ。たとえば、
「太陽はすでに、空の低くへと移っていた。密度を増していた叢雲が陽のおもてを過ぎると、にわかに岩は黒く翳り、身をふるわせるエリンギウムは、青の色を失って銀色と化し、影は海のうえで灰色の布のようにゆらめいた」10)ヴァージニア・ウルフ『波〔新訳版〕』(森山恵 訳、早川書房、2021)、207頁。。
この記録の合間を6人のモノローグが埋めていく。太陽の1日の動きに合わせるように幼年期から老年期へと、学校、夏休み、大学、インドに旅発ち亡くなった共通の友人、仕事、旅、死の予感、そして人生を、それぞれが語る。たとえば、スーザンとジニーとロウダの3人がいつものようにテニスをしようと集まった夏至の日の、スーザンのモノローグ。
「わたしたち、プレーの順番を待たなくちゃ。背の高い草の上に座って、ジニーとクララ、ベティとメイヴィスの試合を見るふりをする。でも見てなんかいない。ほかの人のプレーを見るなんて大嫌い。大嫌いなものは全部、なにかの形にして土に埋めてしまうのよ。このつやつやした小石はマダム・カルロ。彼女を土深く埋めてやる。彼女のへつらいやご機嫌とりのせいよ。ピアノの音階練習のときに、平たく伸ばすよう、わたしの指のつけ根に六ペンス硬貨をのせたりするせいよ。彼女の六ペンス硬貨を土に埋めた。学校ぜんぶを埋めてやる。体育館も。教室も。いつも肉の臭いがこもる食堂も。そして礼拝堂も。赤茶色のタイルや、老人たちの――学校の後援者だとか創立者だとかの――てらてらした肖像画も埋めてやる。好きな木もあるわね。幹に透明な樹液の瘤がある桜の木。屋根裏部屋からはるかに見える丘の木。それ以外はぜんぶ埋めるのよ。」11)49頁。話者が女性であることを示す、とりわけ翻訳で多用される「……よ」という語尾が気になるが。
太陽が昇って沈むまでの6時間ほどの間にめまぐるしく様相を変える波、その合間に6人それぞれの60年ほどの人生がつぶやくように延々と語られていく。と、大雑把な構造は、とりあえずは説明できても、今引用したように、モノローグの細部はどこに向かうのかハラハラするほどに流動的だ。今、何をしているのか、何の話をしているのか、すぐに見失い、果てしなく細部は拡散していく。直線的な物語に沿うことを要請されるのが外的な世界の論理だとしたら、内的な世界は様々な方向に向かうベクトルが急速に行き交う高次元空間なのだろうか。フラクタル図形のように、細部を拡大したらまた同じような細部が現れ、いったい今どのレベルにいるのかわからなくなる。しかもひとつの細部は別の細部とつながり、時間と場所の感覚も次第に薄れていく。6人はひそやかにつながっていて、時々思いがけず細部がシンクロしては、また拡散する。その広がるつながりのようすをジニーが次のようにつぶやいている。
「そうよ、わたしたちの感覚は広がったのよ。薄膜が、白くやわらかになびく神経の網が、いっぱいに満ちて大きく膨らみ、繊維のようにわたしたちのまわりを漂うから、空気に触れられそう。これまで聞こえなかったはるか彼方のもの音を、包んで捕らえるわ」12)151頁。。
こうした『波』の構造ないしは形式は、 スーリエのこの作品にも確かに存在している。6人のダンサーたちは、大きな流れを作るような動きをするわけではなく、ほとんど独立して動きながら、ときどき思いがけずシンクロする。大げさな動きはせずに、日常的に見たことがあるような見知った動きが細かく分けられて続いていく。何かそのうちに起きるのではと期待していても何も起こらない。同じような動きが、同じようなテンションでいつまでも続いていくばかりだ。だが、様々な方向へ向かう可能性を持った運動が絶え間なく起きては消えていく。その情報量と自由さは、一度に把握することはとてもできないほどだ。ウルフの『波』でもそうだった。あまりの自由さに、それが自由であることになかなか気づけないほどなのだ。
ウルフの『波』から引用した短い文章を、ダンサーが途中で3回読み上げた。たとえば……
「わたしの血はきっとまっ赤ね。湧き立って肋骨をどくどく打っている。針金の輪が足のところでいくつも開いて閉じてるみたいに、足の裏がずきずきする。草の葉が一枚一枚はっきり見える。でも額が、目の奥が、激しく脈打つから、何もかもが ―― ネットも草もすべてが踊っているのよ。あなたたちの顔も蝶みたいに飛びまわる。木々も上へ下へジャンプしているみたい」13)51頁。。
これは先に引用したテニスのシーンの続きなのだが、これだけでは何のことかわからないし、舞台で関連した出来事が起こるわけでもない。「血」とか「針金の輪」とか「蝶」とか、唐突な言葉の不可解なざわめきを残したままダンスは続く。情報は安易にとりまとめられることなくひたすら拡散していくように見えながら、それまで見えていなかったひそかな関係を急速に結びながら進んでいく。
* * *
さて、日常的に自分が行っていたり見かける動きであることで共感や共鳴が生まれるのだろうか、という最初の問いに戻ろう。カンディンスキーの抽象絵画も、ウルフの小説も、そしてスーリエのダンスも、いずれも日常的なものとの何らかのつながりをもっている。カンディンスキーが1911年頃から描いた抽象絵画は非日常的な架空のものに見えるかもしれないが、彼が描こうとしているのは、対象の日常的な意味を消去した形や色それ自体の関係性であり、それを彼は「内的な響き」と呼んだ。それは、無数のつながりをもって日常的に常にそこにある関係性であった。それは常にそこにあるという意味で日常的であるはずなのに、外的な関係、つまり意味のような大きなまとまりばかりを捉えようとする感性には見えない響きだった。ウルフの『波』は、それこそ日常的なモノローグの集積だが、ミクロな物語が果てしなく自由に枝を伸ばしていくので、めまいがするほどに自由に広がる関係性が常に細部に生まれている。スーリエの『The Waves』は、日常的に見かけるような動きを元に作られているけれど、既に見てきたように、その動きの目的や意図が消されているために、見えない地下茎を張り巡らすリゾームのように内的な関係性を常に生成していく。
カンディンスキーもウルフもスーリエも、いずれも日常とのつながりをもっていながらも異様な非日常に見えるかもしれない。でもそれは、外的な意味や意図に覆われていては、なかなか見えてはこない日常のもうひとつの姿なのだとしたらどうだろう。どちらがホントでどちらが幻なのかはわからない。
そもそも、作品に共鳴したり共感したりすることは、優れたものであることの基準としては不十分かもしれない。アートと言われるものがそんなに口当たりのいいものばかりであるはずはないのだから。スーリエのダンスもウルフの小説もカンディンスキーの絵も、それほどとっつきやすいものではないかもしれないが、はじめて目に触れるような見知らぬ日常がそこに広がっているのに驚くことは、とても価値があることだと思う。
註
1. | ↑ | 『埼玉アーツシアター通信 VOL.107』、17頁。ここで、「形式と感情の両面を含む」と言われているが、「形式」が動きの外形だとして、「感情」とは何だろう。普通ならその動きの意味のようなものと考えられるが、スーリエのこの発言からしたら、「ダンサーの個性」によって動きに与えられるのが「感情」のようだ。ダンサーの個性は、「ムーブメントをつなげる方法」に現れるという。それならば、「感情」とは、それぞれのダンサーがひとつひとつの動きをつなげることによって新たに生まれてくるものなのだろう。動きの前に感情があるわけではないし、感情を表現するのが動きではない。スーリエは何気なく語っているようでいて、実はこの後の論点からしても重要な観点となることを言っている。 |
2. | ↑ | Noé Soulier, Actions, mouvements et gestes, CND (Centre Nationale de la Danse), 2016. |
3. | ↑ | たとえば、『Bartok / Mikrokosmos』(1987)、『Kinock』(1994)、『Amor Constante』(1994)、『Just Before』(1997)、『Drumming』(1998)、『I Said I』(1999)、『Rain』(2001)、『April Me』(2002)、『Steve Reich Evening』(2007)、『3Abschied』(2010)、『Vortex Temporum』(2013)、『Work/Travail/Arbeid』(2015)、『Dark Red – Kolumba』(2020)。 |
4. | ↑ | 船矢は、P.A.R.T.S. の後、2008年頃からニード・カンパニーで活躍していた。その後、ノエ・スーリエの作品に参加。船矢が出演したスーリエの作品のタイトルは、『Movement materials』(2014)、『Removing』(2015)、『First Memory』(2022)、『Close Up』(2024)など。このタイトルを見るだけでも、スーリエが運動それ自体に関心が高いことがうかがえる。冒頭の写真で中央にいるのが船矢。 |
5. | ↑ | 同書、p.116。 |
6. | ↑ | 『カンディンスキー著作集 1 抽象芸術論―芸術における精神的なもの』西田秀穂訳、美術出版社、p.132。 |
7. | ↑ | Noé Soulier、同書、p.118-119。
それが可能になる根拠のひとつとして、ノエ・スーリエは「ミラー・ニューロン」に言及している。「ミラー・ニューロン」は、もう10年以上前になるだろうが、ダンス作品を見ている観客の脳内で起きていることを説明する際にしばしば使われることがあった。とはいえ、そもそも脳内で起きていることを十分な蓋然性を持って説明することは難しいのであるから、「科学的」な装いをもった理論で安易に説明してわかった気になるのは危険だ。最近ではさすがに「ミラー・ニューロン」が語られることはなくなったようだが。 |
8. | ↑ | カンディンスキーにしたがって、もう少しダンスについて考えてみたい。実はスーリエが引用した文章は、カンディンスキーがノイエタンツについて言及している部分であり、引用した部分に続けて次のように語っている。 「外面的には何の動機もない単純な運動のうちに、豊かな可能性の、測り知れぬ貯えが秘められている。(中略)時間および空間における運動の、内面的意味を利用しつくすことが、その唯一の手段であり、また、存在意義そのものである『新舞踊(ノイエタンツ)』は、こうした原理の上に打ち立てるべきだし、また打ち立てられることだろう。」(同訳書、p.133)) カンディンスキーがこれを書いた1910年の時点では、ルドルフ・フォン・ラバンもマリー・ヴィグマンもようやくダンスに向かい始めたばかりであり、ロイ・フラーやイサドラ・ダンカン等によるダンスの刷新が人々の希望を集めていた頃だった。それゆえこの「新舞踊(ノイエタンツ)」は、ヴィグマン等のドイツの表現主義舞踊ではなく、ダンカンの周辺のモダンダンスを指しているのであるが、ここで言われている「内面的意味」の利用は、少し後に現れる表現主義舞踊の意図を先取り的に指摘していると見ることができる。 この頃カンディンスキーは、内面ないしは内部と言われるべきものは何かを考え抜こうとしていた。それは彼が始めた抽象絵画が何を表しているのかを明示するために必要なことだった。今引用した部分で、内面的意味の「表現」ではなく「利用しつくす」と言われているのをみると、内面とは表現されたり表出されたりすることで外に現れるような心の内のことではないらしい。おそらく外と内との境界は身体なのだろう。身体の中が内部ではなく、身体全体が境界と考えられる。自分の身体をそこに実在するものとして体験する時は、身体は外部のものなのだろう。一方、自分の身体はそれを内部から体験されることもある。眠い気持ちは内部から身体を体験し、眠くなって枕に沈む時は枕と触れ合う外部として身体を体験するだろう。身体を通して体験される外部と内部は、それぞれ、見えるものと見えないもの、という属性をとりあえずは持っている。絵画であれば、それが何を意味するのか、何を表しているのか、動作であればそれが何を意図しているのか、という外面的なものの連関によってそこにあるように見えるものが外部であるならば、意味や意図は外部と言える。それならば内部と言われうるものは、そうした外部性を完全に払拭したものであろう。カンディンスキーにとって絵画の内部性とは、何を描いているかというような外的対象ないしは意味内容ではなく、絵画の素材となる形と色それ自体に内在する関係性とされ、この関係性を彼は「内的必然性」と呼んでいる( ミシェル・アンリ『見えないものを見る:カンディンスキー論』(法政大学出版局、青木研二訳、1999)を参照)。 先の文章で言われているように、カンディンスキーはダンスにも内的必然性のみから導かれる動きを求めていて、それは、従来のバレエなどに見られる慣習的な美や、物語を語る動きではない動きとなるだろう。媒体の純粋性を求めるモダニズムの一種ともいえるが、それだけではなく、眼に見えるものとしてはこの世界に存在し得ない関係性を表現するための新しい手段として考えられている。もちろん、「運動の内面的意味」ないしは「内的必然性」が表現された作品は目に見えるわけだが、「内面的意味」はその作品がなければ外的な対象として見ることのできないものなのだ。その後のダンスの展開を見ると、ヴィグマン等の表現主義舞踊は、内面という領域を新たに創出し、それを利用したと言えるだろう。ただしその内面とは、心の内にあるといわれる感情のようなもののことではなくて、新しく創出された内部と言った方がいい。カンディンスキーにしてもダンスにしても「抽象」と言われるのだが、それは外部に現れ出る内容や意味や表象のようなものが見えないからであるが、新たに創出された内面ではものすごいスピードで情報が動き回っている。スーリエのこの作品では、日常的な動きに由来する動きの形だけを持ってきて、その動きの通常の意味とか目的を空っぽにして、そこにあいた穴を通して新しい関係性をつないで行く。それが「内面的意味」とか「内的必然性」と呼ばれるカンディンスキーの言う内的なものに近い。カンディンスキーにとって形や色それ自体に持たせようとしている関係性は、スーリエにとっては動きそのものに持たせようとする新たな関係性になるだろう。 |
9. | ↑ | 『埼玉アーツシアター通信 VOL.107』同上。 |
10. | ↑ | ヴァージニア・ウルフ『波〔新訳版〕』(森山恵 訳、早川書房、2021)、207頁。 |
11. | ↑ | 49頁。話者が女性であることを示す、とりわけ翻訳で多用される「……よ」という語尾が気になるが。 |
12. | ↑ | 151頁。 |
13. | ↑ | 51頁。 |