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 以上に見てきたように、1989年11月の壁の崩壊以降のドイツでは、社会的現実と演劇は切っても切り離せない関係にあった。それは、あらゆる演劇に対する市川先生の関わりの大前提をなしていると思われる。1990年代前半に先生の謦咳に接した一学生として思い出されるのは、モダニズムの終焉という歴史認識とともに、空虚な意味の戯れに意義を求める文化的風潮に対し、先生が折に触れ苛立ちを示されたことである。私事ながら、留学中に目にしたフォーサイスもバウシュも、日本で論じられているのとは全く違って見えた。ぼんやりした学生にはその程度の違和感であったが、市川先生には、テクストを切り刻み重ねることが芸術家生命を賭けた高度に創造的な生存戦略であったことを、演劇人が生き抜いた歴史、生き続ける現実の過酷さとともに、肌身でご存知だったのである。

 もうひとつ重要なのは、ドイツ演劇へ向けられたまなざしが、変動する世界の政治、経済、メディア環境を貫いて日本に向けられ、同時に底辺や周縁の現実に可能性を見いだしている点だ。「㉔少数民族ソルブの演劇」では、ドイツで唯一の二言語劇場に足を運んでキトー・ローレンツの作品を取り上げ、「演劇の新しい波はむしろ地方の小さな劇場から起こっていることを痛感した。」と述べている。戯曲翻訳に際して関西弁を取り入れられたことと、こうした試みや、ドイツ人演出家と交わした方言を巡る議論と呼応する。また、「㉖コトブスからの風」では、「小都市からの演劇発信」として、お金や人材がドイツでは東から西へ、日本では東京に向かって流れる様を重ね、「芝居の新しい風を西から(あるいは地方から)」吹かせることはできないかと問うている。

 先生のライフワークであるブレヒトの足跡については、「⑥ブレヒトとベルリーナー・アンサンブル」「⑧ ブレヒト死後のベルリーナー・アンサンブル」などで見取り図を与え、「⑩ブレヒト愛人代作説の真相」で最新の研究が喚起した議論を紹介し、三人の協力者との関係に先生独自の見解を出されている。連載を締めくくる最終号では、カール・ファレンティン没後50年と重ねた「㉛ブレヒト生誕100年」について。記念の一環で行われたベルリーナー・アンサンブルでのマラソン朗読会で、外国人として唯一招待され、「エミグラント」という亡命中の詩を読まれている。楽しげな様子が次のように締めくくられている。「とにかく若者の参加が目立った百年祭であった。大統領から若者まで多くの人から祝われるブレヒトは幸せであり、偉大であると思った。」報じられている様子を読んで、5月9日に関西の演出家や俳優が企画した偲ぶ会が自ずと思い出された。子、孫の若い世代が企画し、まだ入院中の奥様を含むご家族にZoom中継するという配慮をしながら、おのおのが参加した公演での先生の思い出やエピソードを語り合った。このように多くの演劇人から偲ばれる市川先生は幸せであり、偉大でないわけがない。

 AICTに集う私たちにとって、出会った作品を紹介する使命は、評論、研究論文、翻訳など様々なテクストを書くことで始まり、しばしばそこで終わる。もちろん、書いたことによって再演やアダプトなど次の活動につながることを望みながら。市川先生は、これだと思った作品はすぐに翻訳され、そのうち相当が上演されている。ブレヒト作品だけではない。関西芸術座で河東けいにより演じられたハラルト・ミュラー作『聖夜』、ブレヒト酒場で演じられたエイソル・ファーガード『島』など、むしろ日本にまだ知られていない作家、壁崩壊後のドイツを背景にビビッときた作品を、アクチュアルなうちに翻訳し、上演してくれる劇団を常に探されていた。「日本に帰ってすぐ翻訳し、劇団を探したのだがうまくいかず、おくら入り寸前に劇団大阪で上演にこぎつけた」とある。

 批評家、翻訳者、研究者いずれとしても、類い稀なお仕事でした。心からご冥福をお祈りします。