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 突然の訃報を受け取ってすでに数ヵ月。この間、いくつかの媒体で出された追悼文を目にし、演劇人による偲ぶ会にもお邪魔させていただいた。様々な人の声で知る、市川先生の働きと人となりには改めて驚かされる。こんなお仕事もされていた。あの方も先生のご友人、この方も教え子さんだった。だがこうした驚きは、生前から市川先生あるあるであった。きっと今後も尽きないだろう。

 研究者、演劇人、教育者として、ドイツ演劇を広く紹介し、演劇という媒体を深く探求してこられた市川先生。そのお仕事の一端でもとリストを作り始めはしたが、とても手が追いつかない。ここでは三本柱を貫く活動となる演劇媒体への関わりから、生前に譲っていただいた資料にもとづいて、ご活動の一端を振り返らせていただきたい。

 市川先生が一執筆者を超えて自らコミットし、また編集人材を送り込まれた演劇メディアには、AICT関西支部で編集長を務められた『ACT あくと』と、演劇総合雑誌『Jamciじゃむち』がある。(学術誌は数多ある。)ドイツでは、公の意見形成に向けた執筆、さらには編集出版まで手がける者をPublizistと呼ぶ。これらの演劇メディアと先生の関わりには、演劇評論家というよりTheater Publizist的な側面があるように思う。ご存知『ACT』では季刊の頃から関西で注目される作品を幅広く取り上げてこられた。一方、1992年9月から1998年4月まで隔月で発行された『Jamci』には、「ドイツ演劇リポート」を計31回連載されている。それらには、壁崩壊後のドイツ演劇に照射させた世界に対するまなざしと、ベルリンの演劇シーンと先生との深い結びつきをうかがい知ることができる。

 非関西圏の人々には知られていない活動でもあるので、細かくなるが主要なものを挙げてゆきたい。まずはずせないのが、再統一直後の演劇界のアクチュアルな動向を報じるものである。例えば1993年8月号「③変革期の政治演劇」では、壁崩壊直前のシュヴェリーンの劇団の『ウィリアム・テル』、1990年統一後のクライストの『壊れがめ』、同年ドレスデンのゼンパー歌劇場での『フィデリオ』を例に、東ドイツの舞台の解放の記憶が呼び起こされる。何十年もの抑圧に耐えてきた思いが解き放たれたその瞬間、観客の身体を介して大きなうねりとなってゆくその場を、市川先生は幾度となく体験されている。そのことが、その後の諸変化の中でも揺るぐことのない、演劇への信頼を形作っていたのではないだろうか。

 翻って、壁の崩壊から三年を経たこの頃すでに、「劇場全体がフィーバーした壮大なイヴェントはもう過去のものとなってしまった。」とも述べられている。以降は、ドイツの演劇界がビビッドに呼応する新たな抑圧の装置との摩擦、抵抗へと市川先生の目は繰り返し向けられる。「④君(シラー劇場)、死にたもうことなかれ」では、施設統廃合の流れを受け、解体決定を受けたシラー劇場と演劇人の連帯について報じられている。「㉒ 遅れてきたベケット・ブーム」では、ベケットが壁崩壊直前になってやっと、しかもハイナー・ミュラー作品の代わりに上演が許可されたエピソードとともに、東ドイツにおける検閲の傾向がまとめられている。

 1979年から81年まで東ベルリンに留学され、壁の崩壊前は一日ビザで日付が変わる前後に東西を行き来するという「シンデレラみたいな(!?)生活」を送られた先生は、壁崩壊前に上演された古典作品が、同じ劇場同じキャストで別版上演される、今日のリエンアクトメント的な意義を持つ上演を何度も目にされている。 「⑪女たちの競演」ではマクシム・ゴーリキー劇場での『桜の園』の後日談『過渡期の社会』、「㉖ベルリンとシャウビューネ 昔と今」では、アイスキュロス『オレステイア』とエウリピデス『オレステス』が考察されている。様々な稽古場から舞台裏のカンティーネまで顔パスで通い、本場の演劇人とフラットな関係で議論を重ねた経験を持つ先生は、こうした歴史的モメントの意義を十分に汲み尽くせる視野と身体感覚を身につけておられた。平易な言葉遣いにこそ、裏打ちする体験の厚みが感じられる。

 1994年からはイヴェント的な公演の話題に混じり、⑦検閲とヌード、⑨ふたり芝居、⑭アマチュア演劇、⑰青少年演劇、㉑演劇フェスティバルなど、ドイツ演劇の特徴が、形態や制度上のファクトを交えて捉え直されてゆく。1995年夏号⑮演劇情報誌では、ベルリンのメジャーな情報誌『Zitty』とドイツの権威ある専門誌『Theater Heute』を引き合いに出し、『Jamci』はその中間を狙って良いと評価されている。1995年を境にグローバリゼーションへと突き進むインフラとなったインターネットについての考察「㉚インターネットとドイツ演劇」もある。利点として、ウェブサイトでの劇場紹介、作品アーカイヴの充実を、先生最後の演劇公演ともなった『地下鉄一号線』のグリプス劇場を例に述べている。「でも芝居は人間がやるものという原点に戻ることも重要であろう。」