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T Factory『ヘルマン』
構成・演出=川村毅
2024年1月18日(木)~28日(日)/吉祥寺シアター
撮影=間野真由美

 川村毅構成・演出『ヘルマン』の公演が吉祥寺シアターであった(2024年1月18日~1月28日)。公演タイトルの『ヘルマン』は、チラシによると、ヘルマン・ヘッセのことだという。『車輪の下』や『デーミアン』などの思春期の少年の繊細な心理を描いた小説で有名なヘッセを川村毅が取り上げたのは、意外に思えた。第二次世界大戦後、ドイツ語圏の作家たち(ギュンター・グラスやハインリヒ・ベルら)は、個人の内面を重視する芸術観を過去のドイツの不幸な遺産と見なし、政治参加と直接結びつく文学を目指した。日本では大江健三郎が同じ文脈で活動を始めている。戦後のアンガージュマンの時代は遠のいたとはいえ、今、戦前のドイツ語圏で受け入れられていたヘッセの文学が復活するとは考えられない。

 ヘッセの文学には、シュヴァーベン地方の黒い森に根付いた敬虔派の信仰が息づいている。芸術家を取り巻く立場の対立を際立たせる簡潔な筋運びと、日常生活の些細な出来事を描きながら、人間を取り巻く事物や生き物を象徴へと変容させる言葉の力も見逃せない。生存を脅かす不安に満ちた現在、20世紀前半に書かれた心温まるヘッセの文学に惹きつけられ、癒される読者は少なくないと思う。

 しかし、川村毅がヘッセに着目するのは、心を癒す内面性ではなく、「正真正銘の純正アウトサイダーとして、社会生活という困難を生き抜いた闘士」(公演チラシ)としてのヘッセである。もっとも、ヘッセを取り上げたきっかけは、偶然だったらしい。吉祥寺シアターの支配人からヘッセを題材にした舞台を作らないかと相談されたが、ほとんど『車輪の下』『春の嵐』の記憶しかなく、正直困った、とチラシにある。ところが、他の作品を読み進めるうちに、人生の教師ふうの道徳家のイメージとは異なるヘッセの姿に瞠目し、その思想に深く共振、共感して舞台化のイメージが広がっていったという。「自分と同じ類の仕事をしていると、時を経て再び同士としてのヘルマン・ヘッセを認識した」(当日配布パンフによる)。

 もちろん、自己演出が施されているチラシの文面を額面通りに受け取ることはできないが、巷に流布しているヘッセとは異なる姿を演劇というジャンルを通して観客に示そうという川村毅の野心は明らかであろう。

 では彼は、ヘッセをどのように示したのだろうか。私の『ヘルマン』体験から考えてみたい。

 

1.老作家をとらえた白日夢

 『ヘルマン』の舞台は簡素だった。棺にも思える大きな白い箱台が左右に二つ置かれ、中央奥は白い壁になっている。この白い壁は中央が数本の柔らかいスリットになっており、俳優たちはここから舞台奥に抜けたり、奥から舞台に現れたりする。また、白い壁はスクリーンとしても使われており、場面に応じて、満月、人間の眼、蝶の標本、クジャクヤママユという蛾が翅(はね)を広げた姿、岸田劉生やアンリ・ルソーの絵画、戦場、街や池と林のある風景をさすらう麿赤兒などの映像が効果的に投影される。

 簡素な舞台装置に比べると、語りの構成は複雑だった。ヘッセの小説の作中人物たちのみならず、若きヘッセ、老ヘッセ、老ヘッセの心の声、川村の創作した人物たちが、いわば時空を超えて一同に会し、互いに会話し、批評し合いながら、舞台が進むのである。扱われた小説は、私にわかった限りでは、『ペーター・カーメンツィント』、『車輪の下』、『クジャクヤママユ』、『クヌルプ』、『デーミアン』、『荒野の狼』、『ナルチスとゴルトムント』。これだけの小説を扱うため、当然、登場人物は多岐にわたる。当日配布されたチラシによると、24の配役を13人のキャストで演じる構成になっている。一人で何役も兼ねる俳優もいるため、細部の印象が少々混乱したことは否めなかった。

 とはいえ、全体の構成は簡潔で明確だった。老いた作家が有名な賞の授賞式に出席する。式典が始まる直前の、スピーチを控えた緊張の一瞬、作家は白日夢に誘われ、これまでの人生と作品を概観するという構成である。

 冒頭から述べよう。開演すると、ヘルマン・ヘッセと思しき老人(麿赤兒)が、客席から見て左手の椅子に座る。老人は、ヘッセが1946年に受賞したノーベル文学賞を思わせる授賞式に出席してスピーチを行うために、待機している。すると、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』が聞こえてくる。これをきっかけに舞台は老作家が見る白日夢になる。夢の詩性を表現する女(大空ゆうひ)が現れ、「光、さすらい、水面(みなも)、・・・・、憂鬱、希望」といった夢の場を特徴づける言葉を発すると、過去にヘッセが書いた小説の作中人物たちが若き日のヘッセ(横井翔二郎)とともに次々に舞台に登場する。ヘッセの生涯と作品が振り返られ、その意味が考察されていく。

 たとえば『車輪の下』を振り返る場面では、主人公ハンス・ギーベンラートを名乗る三人の少年、教師(笠木誠)、そして若き日のヘッセである青年(横井翔二郎)が登場する。教師は青年に向かって、作中人物を溺死させた青年を批判する。スピーカーを通して麿赤兒の声が流れてきて、舞台左手の椅子に座ってこの白日夢を見ている老人(麿赤兒)に語りかける。こうして、作中人物が作家を批判したり、それを数十年後の老いた作家が自己内対話で考察したりして、省察(Reflection)の重なり合いが生まれる。舞台を通しての演劇的考察の始まりである。

撮影=間野真由美