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2.狂気

 老人の白日夢は続き、興味深い対話が続くが、次第にその中から、社会規範からの逸脱と世界との和解という二つのモチーフが浮かび上がるのが印象的だった。もっとも両者は、芸術家として実人生とどのように折り合いをつけるかという問いに苦しんだヘッセ自身のモチーフとしてよく知られてはいる。このうち、川村毅がとくに強調するのは、社会規範から逸脱する芸術家としてのヘッセの側面である。それを端的に示すのが『クジャクヤママユ』を振り返る場面だった。ヘッセの原作と合わせて、思い出せる限り詳しく紹介しよう。

 1911年に初稿が雑誌に発表された『クジャクヤママユ』は、1931年に改稿されて『少年の日の思い出』と改題された。高橋健二による日本語訳が、戦後、中学校の国語の教科書に掲載されたこともあり、日本で最もよく知られたヘッセの短篇である。簡単にあらすじを記したい:

 ある夕暮れ、自宅に客人の訪問を受けた「わたし」が蝶の標本のコレクションを見せているうちに、日が暮れる。灯されたランプの薄暗い灯りのもとで、訪問客は自分のコレクションを台無しにした思い出を語り出す。少年時代、彼の友人が貴重なクジャクヤママユを採ったといううわさがたつ。後翅を広げると「とても奇妙な、思いがけないものに見える」ため、小鳥や敵は驚いて去ってしまうとうわさされていたクジャクヤママユの眼状紋をどうしても見たかった彼は、偶然誰もいない友人宅に入り、標本を手にすることに成功する。しかし、眼状紋を覆っていた展翅テープをはがすために、標本をとめ針から抜いた瞬間、彼は標本をどうしても手に入れたいという「抵抗しがたい欲望を感じて、何のためらいもなく生まれてはじめて盗みを犯してしまった」。そして部屋の外へ出たところ、友人宅のお手伝いさんに見つかりそうになり、標本をつつむように持っていた手を慌ててポケットに突っ込んで何気ないふりを装うが、標本は壊れてしまう。帰宅後、事の次第を母に打ち明けた彼は、謝罪するように諭され、再度友人宅を訪問する。ところが、謝罪に訪れた彼に対して、友人は「世界秩序そのもののようにぼくの前に」立ち、彼を軽蔑した。そのため彼は自分の蝶のコレクションを「指で粉みじんに押しつぶしてしまった」(岡田朝雄訳より、『ヘルマン・ヘッセ全集6』臨川書店、2006年所収)。

 国語の教科書風に言えば、貴重な蛾を所有したいという、抵抗しがたい欲望に負けてしまった少年の、謝罪を通じての世界との和解がこの短篇のテーマである。世界と和解するために、少年は罪を母に告白するとともに、自分の蝶のコレクションを犠牲にしなければならなかった。読者は、欲望に負けて罪を犯した少年の心理を追体験することで、罪を犯したときの振る舞い方や道徳的な教訓を読み取ることになるだろう。

 一方、川村毅にとっては、世界との和解はこの短篇の表層に過ぎない。重要なのは、欲望に抵抗できない人間存在のあり方が正面から描かれているところにある。『クジャクヤママユ』は、小さな短篇といえども、ヘッセの小説群において人間を社会規範から逸脱させる狂気の系列に位置付けられる作品であり、のちのヘッセの小説『クヌルプ』や長編『荒野の狼』に登場する放浪者たちは、クジャクヤママユの眼状紋をどうしても見たかった少年の狂気が成長した姿なのだ。ヘッセが書きたかったのは、盗みを犯したことを反省して社会規範に立ち戻る良心の呵責ではなく、「抵抗しがたい欲望」であり、社会規範から逸脱する狂気である。正確な台詞は思い出せないが、だいたいこのような内容を観客に伝える俳優同士のやり取りがあった。

 こうして「狂気」が主題化されると、舞台は山場を迎え、『ナルチスとゴルトムント』(『知と愛』の邦題でも知られている)の場面になる。ヘッセの原作では、ナルチスは平和と救済を象徴し、ゴルトムントは社会規範から逸脱する放浪と狂気を象徴する。川村演出は、若きヘッセでもある青年(横井翔二郎)にゴルトムントの台詞を語らせて、狂気のモチーフが一貫してヘッセに存在したことを強調するのだ。

 『クジャクヤママユ』で主題化された狂気はゴルトムント(青年=若きヘッセ)が引き継ぎ、修道僧として修行を積んだナルチス(大空ゆうひ)の体現する平和と和解と真っ向から対立する。二人の対立を目の前に見る老人(麿赤兒=老ヘッセ)は、自分はナルチスなのか、ゴルトムントはなのか、わからなくなる。すでに登場した作中人物たちが再度現れ、『荒野の狼』のハリー・ハラー(笠木誠)が青年(若きヘッセ)をナイフで刺し殺す。老人は悶え苦しみ、床に倒れ、目が覚める。

 こうして白日夢は終わる。世界との和解と狂気とのいずれにも自分を同定できない苦悩のなかに、老作家ヘッセは一人残されて醒めるのだ。

撮影=間野真由美

 

3.夢から醒めて

 最後の場面は印象的だった。白日夢から醒め、椅子から立ちあがった老人は、燕尾服に蝶ネクタイを着せてもらい、左右に居並ぶ人々の間を通って舞台奥の中央までゆっくり歩き、向きを変えて客席に正対する。今から受賞式が始まるのである。老人は胸ポケットから原稿を取り出し、1946年のノーベル文学賞受賞式を欠席したヘッセが祝宴に寄せた言葉を思わせるスピーチを行う。

 しかし、スピーチの途中でキーンという金属音が聞こえ始め、背後の白い壁にクジャクヤママユの画像が大きく映し出されると、老人は背中から倒れ込むように背後の白いスリットに吸い込まれて消えてしまう。ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』が再び流れる中、悲鳴に似た老人の叫び声が聞こえ、彼を吸い込んだ白い壁に麿赤兒の口を開けた顔がアップで映り、口の中に満月が映り、さらに満月が赤く大きくアップになる。すると、老人を吸い込んだスリットから、華麗な蝶/蛾の黒い衣装を身につけた女(大空ゆうひ)が姿を見せる。クジャクヤママユという狂気が老人を死の世界へ吸い込んだとも、作家がユングの無意識に吸い込まれたとも受けとれる余韻を残して、舞台は終わった。

 ヘッセの生涯から構想された緻密な舞台は、小説家ヘルマン・ヘッセの作品に潜在する社会的逸脱(狂気)のモチーフに共感した劇作家川村毅の演劇的考察を体験させた。虚実入り乱れてのさまざまな語り手を舞台上に登場させて、会話を交わさせ、互いに批評させる。観客によってはやや抽象的ともとられかねない素材にもかかわらず、麿赤兒の存在感を軸に映像やダンスを織り交ぜながら、表現として成り立たせた力技が、川村毅の真骨頂だろう。和解と癒しを求める時代の風潮に再考を迫る舞台だった。

撮影=間野真由美