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本稿は早稲田大学で開催された日仏シンポジウム「病とその表象」において、2024年1月13日にフランス語で行った発表をもとにこれを日本語に訳し、加筆修正を加えたものである。


1.はじめに 混沌のプレテクスト、入れ子構造の枠としてのコーネリアの病

 『金夢島L’ÎLE D’OR——Kanemu-Jima』(L’Île d’Or – Kanemu-Jima、以下『金夢島』)は、2021年11月3日にパリ、カルトゥーシュリ(Cartoucherie)で初演された作品である1)フランス語の上演テクストはL’Avant-scène théâtre, no 1506-1507, 2021に掲載されている。。アリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が演出したものとしては太陽劇団の最も近年の作品である。テクストについてはエレーヌ・シクスー(Hélène Cixous)が協力し、音楽はジャン=ジャック・ルメートル(Jean-Jacques Lemêtre)が手がけているのは他の多くの作品と同様である。舞台美術はムヌーシュキンの発案による。上演時間は休憩時間を含めて3時間15分に及ぶが、これは太陽劇団の作品としては標準的な長さでもある。

 日本に直接取材した作品は『堤防の上の鼓手』(Tambours sur la digue, 1999)以来となる。2019年の京都賞授賞のときにはすでに本作の構想を持っていたように(またそのときに1963年に東京を訪ね、大衆演劇の俳優に出会った経験を雄弁に語ってもいる2)https://www.theatre-du-soleil.fr/fr/a-lire/tokyo-1963-ariane-mnouchkine-4303)、長期にわたったプロジェクトであり、コロナ禍と日本政府が外国人に課した入国制限によって、作品の準備過程はさらに長引くこととなった。別稿にも記したが、2020年4月に佐渡島で予定されていたワークショップは実現しないままに終わり、2021年10月に世界初演として予定されていた日本公演も延期となり、2023年10月(東京芸術劇場)・11月(ロームシアター京都)にようやく実現した経緯がある。それだけに期待感が高まっていたのであろう、東京公演は早々とチケットが完売し、連日満員のもとで上演された。

 本作は日本を描いた作品というよりも日本を夢想した作品であり、日本以外の文化も参照され、太陽劇団の俳優の出自が多様であることを反映してか、多言語——本作ではフランス語、英語、日本語、アラビア語、ヘブライ語、広東語、ペルシア語、ダーリ語など——が用いられている(ただし、俳優が話すのはつねに母語とは限らない)。『最後のキャラバンサライ』(Le Dernier Caravansérail, 2003)や『はかなきものたち』(Les Éphémères, 2006)と同様に、聞き取り調査に基づいたドキュメンタリー演劇的手法が用いられ、日本において彼らが出会った人々から聞き取った内容が作品に盛り込まれているという。

 

 エレーヌ・サンク(Hélène Cinque)が演じるコーネリアはおそらく新型コロナウイルス感染症を患っている。だが同時に、病むほどに日本に恋焦がれてもおり、熱に浮かされて、日本を夢見て、想像し、妄想さえする。そこにコロナ禍で日本への入国がかなわなくなったアリアーヌ・ムヌーシュキンの分身を見てとることはたやすい。そうして彼女は金夢島(かつての金山によって知られる佐渡島がモデルとなっている)にいることを想像し、そこで開催される演劇祭を想像する。これがこの作品を特徴づける劇中劇の外枠を構成している。この作品は熱にうなされ、熱狂に浮かされた登場人物の夢想、妄想であるというプレテクスト(口実)でもあるわけだが、それが妥当、有効なものであるのか、これから検討してみたい。

東京芸術祭 2023 芸劇オータムセレクション 太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』
作=太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)
演出=アリアーヌ・ムヌーシュキン(2019年京都賞受賞)
2023年10月20日(金)~26日(木)※23日(月)休演/東京芸術劇場 プレイハウス
© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO

 

2.日本文化の参照、あるいは文化盗用(批判)の罠

 日本の芸術と文化を参照する場面は、したがって数多い。そうした参照の中では、世阿弥の手によるとされる『八島』『羽衣』、さらに『隅田川』『猩々』からの(ときに言葉、ときに舞踊による)引用がなされているように、能に対する言及が最も多いように思われる。車輪で動く平台状の舞台装置は、直ちに能舞台と橋がかりを想起させる(素早く現れては、正確に組み立てられ、舞台の中の舞台を構成し、すぐに消えていくこの舞台と転換は、歌舞伎の水布・浪布から着想を得たと思われる絹布の使用とならんで、作品の最も成功した部分であり、批評家によっても高く評価されている)。それは、佐渡島が、かつて世阿弥が流された地であり、近年の鼓童に至るまで現在でも芸能が活発に行われている場所であり、5万人の人口に対して30を超える能舞台が残るとされることの反映でもあるだろう。他にも黒子や女形、人形と人形遣い、太鼓や梯子乗り(実際には梯子ではなく柱だが)、水布・浪布などが日本演劇を直接的に参照したものとして挙げられる。

 しかしながら、たとえコーネリアが作品の初めに「日本だけど完全に日本じゃない。うん、みんな日本語を話すけど完全な日本語じゃない。そもそも私にも全部分かるし。分からないところは、好きなように訳す」と断っていたとしても、一部の日本文化の参照は安易な水準やステレオタイプにとどまる。日本人登場人物の話すフランス語は、« J’ai compris »の代わりに« Compris j’ai »というように、動詞が最後に来るように語順が倒置されている。奇妙な処理だが、きわめて形式的なので侮蔑的に響くものではない(日本語字幕には表れないので、フランス語を解さない日本語話者が感じとるのは難しい部分でもある)。これはまだよい部分であって、俳優たちが話す日本語は(もちろん小野地清悦を除いては)半ば必然的に日本語話者の耳には怪しいアクセントで発される。怪しい日本語といえば、コーネリアの枕元に掲げられた「癒し」の言葉や、「ワサビ」と名づけられたラジオ局、さらに「金夢島」の名そのものなども挙げられよう。銭湯の場面や全裸(実際には性器と恥毛までつけられた肌襦袢を着ている)もステレオタイプを大きく超えるものではない。

© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO

 コーネリアの夢に登場する登場人物は、ヨーロッパ人も含めて、エアハルト・シュティーフェル(Erhard Stiefel)の手による仮面をつけている。だがその大半が日本人であるのだが、一部の観客には、日本人登場人物を他者化・異物化するものとして映り、夢に固有の非現実性が理解され難にくくなる(そもそも、登場人物は匿名の人物まで含めると80人を超えているため、この仮面の使用によって、登場人物と俳優の関係を把握することはさらに難しくなる)。

 太陽劇団は、ロベール・ルパージュ(Robert Lepage)が演出した『カナタ——エピソード I——論争』(Kanata – Épisode I – Conroverse, 2018)の上演の準備過程で、カナダ先住民コミュニティから激しい文化盗用批判を受けている。本作品においても同じ危険を冒しているのか。これは議論の余地があるところである。この作品とその浅い部分を見て批判することもたやすいが、その一方で、そうした批判も同じく浅いものにとどまるように思われるからだし、さらにいえば、ある集団に固有の純粋性のように文化を捉え、不純なもの、正統でないものを批判・糾弾する本質主義的な立場には、私自身が賛同しがたいということでもある(正統・純粋な文化とそうでない文化を区別する資格が誰にあるのか、その基準はどこにあるのか)。

 芸術に関しては断固として普遍主義の立場に立ってきたアリアーヌ・ムヌーシュキンにとって、「文化は誰の所有物でもない」。文化は特定の人間の我有化=財産(propriétés)ではない以上、そこには盗用(appropriation)も生じえないという論理である。もちろん、そうした普遍性が西洋・白人・男性・異性愛者を基準として成立したものであることは疑いを得ず、この論理にも疑義を挟む余地は大いにあろう。その意味では、『金夢島』においてもコーネリアとスピノザ先生の、女性同士の長い抱擁とキスの場面がある(だが、展開として唐突であるためにきちんと意味付けがなされず、埋没してしまっている)。

© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO

 だが、少なくとも太陽劇団が日本の芸術家によって十二分に支えられていることには、異論の余地はあるまい。能・狂言、歌舞伎の俳優は太陽劇団(より正確には劇団本拠地に隣接し、太陽劇団と関係が深いARTA)において行われるワークショップの常連である。本作の準備過程にも、喜多流の女性能楽師の大島衣恵、和泉流狂言師の小笠原由祠、横澤寛美ら、女性を含む前進座の複数の歌舞伎俳優、元鼓童の大塚勇渡らが協力している。最近になって個人的に知己を得たモリス・デュロジエ(Maurice Durozier)と彼が演じる登場人物(市の第二助役の渡部とフランスの前衛劇団メンバーのアダム、さらには黒子の一人)を、筆者は初め、舞台上で見分けることができなかった。「演劇は他者の芸術である3)Béatrice Picon-Vallin, Le Théâtre du Soleil, les cinquante premières années, Actes Sud, 2014, p. 13.」とムヌーシュキンがいうだけのことはあって、俳優たちはそれほどに素の自分とはかけ離れた「他者」を演じきって/演じ分けているのだ。

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1. フランス語の上演テクストはL’Avant-scène théâtre, no 1506-1507, 2021に掲載されている。
2. https://www.theatre-du-soleil.fr/fr/a-lire/tokyo-1963-ariane-mnouchkine-4303
3. Béatrice Picon-Vallin, Le Théâtre du Soleil, les cinquante premières années, Actes Sud, 2014, p. 13.