アヴィニョン演劇祭の再誕生と復活——新ディレクター、ティアゴ・ロドリゲスのもとでの最初の演劇祭/藤井慎太郎
フィリップ・ケーヌというアルシャンボー=ボードリエの時代の演劇祭の常連が、新作『快楽の園1)仏独合弁のテレビ局ARTEのウェブサイトで視聴可能(2024年5月9日まで)。』(Philippe Quesne, Le Jardin des délices、アヴィニョン初演、7月17日観劇)によって、アヴィニョンに再来を果たした。それも、2015年の宮城聰演出『マハーバーラタ』(Mahabharata – Nalacharitam)、2016年のジャン・ベロリニ(Jean Bellorini)演出『カラマゾフ』(Karamazov)以来、使用されることがなかったブルボン石切場(Carrière de Boulbon)においてである。したがって観客の事前の期待もきわめて高く、栄誉の中庭に次ぐ規模の1200席まで増席されたにもかかわらず、連日ソールド・アウトとなっていた。タイトルは初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の同名絵画から採られている。ボスの絵画のように、不思議の世界の登場人物が次々に現れる。彼らは前後の脈絡を巧みにずらして、謎の言動を繰り返し、自分も他者も貶めることなく観客を笑いに巻き込んでいく。その作法は、KAATで上演されたタニノクロウ作・演出『虹む街の果て』に通じるものがある。ブルボン石切場の壮麗な空間の中で、かつてと変わらぬケーヌ・ワールドが炸裂した。
トラジャル・ハレル振付『ザ・ロミオ』(Trajal Harrell, The Romeo、7月18日観劇)も、上演に対する賛否は分かれつつも(観客席からブーイングが起こるのを耳にした数少ない作品である)、大きな話題となった。ハレルは国際芸術祭「あいち2022」においても2作品が上演されたが、2023年のウィーンのインプルスタンツ(ImPulsTanz)、パリのフェスティヴァル・ドートンヌ(Festival d’Automne à Paris)においても大きくとりあげられ、今日、最も注目を集めているアーティストの一人である。だが、この作品の大きな特徴は、これが通常、彼の作品が上演される劇場とは異なって、栄誉の中庭の巨大な空間で、2000席(正確には演劇祭の創設年にちなむ1947席)を埋め尽くした観客を前に上演された点にある。シェイクスピアのロミオの形象を出発点としているが、ほかのハレル作品と同様、出発点となる人物には無数の屈折が加えられており、作品を織りなす多数の身振りと文化の引用のうちに、ロミオの姿を明瞭に見てとることは容易ではない。しかし、ハレル作品に非常に特徴的な、表現主義舞踊を思わせる手と腕の動きだけによっても、観客は魅了されずにはいられないのである。
ミロ・ラウ演出『アマゾンのアンティゴネー』(Milo Rau, Antigone in the Amazon、7月19日観劇)も期待と同時に賞賛を集めた作品である。ラウはオリヴィエ・ピィ時代からのアヴィニョンの常連である。2020年のウィーン芸術週間(Wiener Festwochen、ラウはNTGentを離れ、その舞台芸術部門ディレクターに就任したばかりである)で初演されるはずだった本作品は、コロナ禍で実現が遅れていたのだが、ようやく本年5月にNTGentで初演を迎えることができた。当初は、ブラジルのアマゾン先住民の活動家にして女優でもあるカイ・サラ(Kay Sara)がアンティゴネーを演じる予定であったはずだが、彼女はわずかな映像を除いて出演しておらず(彼女が先住民のためのみに演じることを選択したことが劇中で軽く説明されるのみだ)、その代わりに、ブラジルにおける土地所有の集中に対して闘う「土地なし農民運動」(MST)の活動家たちが担うコロスに焦点が当てられる。
ブラジルで撮影された記録映像——そこには、1996年の警察による運動家の殺害を再現する行為の記録も含まれる——がスクリーンに映し出され、舞台上の主にNTGentの俳優たちはさらにそれを再演(re-enact)するかのように振る舞う。ラウの近年の他作品のように、ドキュメンタリー演劇におけるドキュメントの位相が問題化され、作品は記録に基づくリイナクトメントであると同時にリイナクトメントの記録を構成しようとし、理論的にも興味深い重層的・反省的構造を持つ作品となっている。
アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル『待ちながら』(Anne Teresa De Keersmaeker, En atendant、7月21日観劇)は、もともと2010年のアヴィニョン演劇祭で初演された作品の13年ぶりの再演である(同一作品の再演はきわめて稀である)。ドゥ・ケースマイケルもまた再来が熱烈に歓迎された大物であり、演劇祭前半には『エグジット・アバヴ 嵐の後に』(EXIT ABOVE after the tempest)という新作を上演した。南仏の古楽と古フランス語(オクシタン語、それゆえに « attendant » でなく« atendant » と綴られている)で書かれた詩に合わせて、セレスタン回廊の空間とアヴィニョンの日没時間に合わせてつくられ、演劇祭の記憶に刻まれた作品の歴史的再演である。まだまぶしかった光が徐々に弱まり、夜の闇へと近づいていく光の変化、回廊の中庭の巨木に宿る無数の鳥の群れのさえずりとダンス、会場外から漏れ聞こえる路上パフォーマーの音楽や歓声、作品の外側にあるとされる「環境」を作品の内部へと取り込むような上演であり、劇場の中では経験することがかなわない、アヴィニョンの「今、ここ」にしか存在しない経験へと観客は誘われる。さらに、8名中6名までが初演時と同じメンバーが踊ったことで、作品の同一性と時間の否応ない経過との両方を感じさせた。
マル・ペロ『インヴェンションズ』(Mal Pelo, Inventions、7月23日観劇)も賞賛を浴びた。マル・ペロは1989年に結成され、バルセロナを拠点とするアーティスト集団である。16人に及ぶ出演者のうち、ダンサーが8名、弦楽器演奏者が4人、歌手が4人であることからも分かるように、ダンスと音楽の比重が変わらないか、むしろ音楽の方が主役と呼べるような作品である。同時に、人数構成に表れる数がすべて2の累乗であることからも察せられるが、ダンスのフォーメーションをはじめ、舞台空間の使用・構成における幾何学性、対称性が印象的である(バッハの音楽の数学性にも対応するのであろう)。舞台美術、衣裳、選曲、テクストの引用、そのどれをとってもきわめて洗練されたものであるのだが、その一方で、それら数学的要素をさらに総合するはずの全体の配置・配列に一貫したドラマトゥルギーが感じられなかったことが、個人的には惜しまれた。
レベッカ・シャイヨン『欲望という名のカルト・ノワール』(Rébecca Chaillon, Carte noire nommée désir、7月24日観劇)は、3時間近くにわたる、多分に挑発的な部分を含んだパフォーマンスであり、シャイヨン自身を含め、すべての出演者が黒人女性である(タイトルの「カルト・ノワール」は、ブラック・カードの意味でもあり、フランスではよく知られたコーヒーのブランド名でもあり、そしておそらくは「カルト・ブランシュ」という内容の一切をアーティストに一任した出演依頼方法を念頭に置きながら、黒人の多いニュー・オーリンズを舞台とした『欲望という名の電車』を連想させてもいる)。
ときに観客を挑発しながら、黒人/女性をめぐる問題が観客に突きつけられる。出演者が一部の観客から身体的・言語的暴力を受け、ディレクターやほかのアーティストからの連帯の表明が相次いだことでも話題となった。たとえば、開演直後の30分ほどにわたって、1人の女性が延々とロクロを回し続け、陶芸にいそしむ傍らで、シャイヨンは床を掃除し続ける(清掃などの汚れ仕事は非白人が担うことが多い現実の反映であると同時に、前日の終演時には相当に床が汚されていたためだろう、と後になって理解される)。シャイヨンは少しずつ服を脱いでいき、最終的には全裸となって——豊満というよりも巨体に近い——自らの身体を晒す。別の場面では、舞台上でチョコレート・ソースが「浪費」「消尽」されていくのだが——彼女が師と仰ぐロドリゴ・ガルシア(Rodrigo García)譲りの、環境配慮の対極にある場面だ——、そこに排泄物をめぐる会話が重ねられては、一部の観客の眉をひそめさせる(安っぽく甘ったるい人工合成的な匂いは若干の吐き気まで催させる)。だが、そこにさらに黒人の「黒さ」、ネグリチュード(黒人性)、アフリカ性が重ね合わせられるとき、それは単なる挑発にはカテゴライズできないものとなるのだ。
ディレクターのティアゴ・ロドリゲスは、当初は予定されていなかった『不可能の限りにおいて』(Dans la mesure de l’impossible、7月20日観劇)に加えて、1回のみの上演によって演劇祭のクロージングを飾った『バイ・ハート』(By Heart、7月25日観劇)を上演した。『バイ・ハート』において、栄誉の中庭の巨大な舞台上には1脚のスツール(この作品の唯一の俳優であるロドリゲス本人が、やや落ち着きなさげに腰かけている)、空っぽの10脚の椅子のほかには何もない。ロドリゲスの求めに応じて観客の中から10名が舞台に上り(この日は観客が殺到して混乱しかけたが、トランスジェンダーないしノン・バイナリーと見受けられた人物まで含めて、すべて女性であったが、事前に計算されたものでないことは確かだ)、シェイクスピアの『ソネット』の一節を覚えて暗誦することを求められる。まさしく『バイ・ハート』とは、”learn by heart”(フランス語では « apprendre par cœur »)という表現にも見られるように、まず「暗記」「記憶」をめぐる作品であるのだが、同時に「心」によって「心」に強く訴えかける作品でもある。
リスボンのレストランで働きずくめの人生を送りながらも読書好きであり、少年ティアゴにその本を貸し与えてきた彼の祖母が、視力を失いそうになって、失明する前にまる一冊を暗記して、自分心の本棚に残したいと考えた彼女からその一冊を選ぶように頼まれたことから、この作品は生まれている。ロドリゲスが選んだのがこの『ソネット』であった。高齢者施設で暮らし、ロドリゲスのことも思い出せなくなった祖母がしかし、ソネットの一節だけは暗誦してみせることができたというエピソード、そしてロドリゲスによるポルトガル語での暗誦によって作品は締めくくられる。
劇中では明言されないものの、思えば俳優こそがつねに一冊の本を暗記することを生業とする存在であり、この作品自体が演劇のメタファーとなっている。200〜300席の小劇場で上演されてきた本作は、本来は栄誉の中庭の巨大な空間に向いた作品では決してない。だが、母語ではないフランス語を操りながら、(10人の観客とともにではあるが)ただ一人で、運と偶然までも自らの味方につけて、不利を有利に変え、2000人の観客を魅了したロドリゲスの作家・演出家としての力量はもちろん、俳優としての力量も再認識させられた。
註
1. | ↑ | 仏独合弁のテレビ局ARTEのウェブサイトで視聴可能(2024年5月9日まで)。 |